雨降り狼さん夢の中

二式大型七面鳥

雨降り狼さん夢の中

 ことことことこと。

 台所から、ともえが、玉葱を刻む小気味良い音がしてくる。

 長いこと仏壇の前で手を合わせていたかじかが、やっと目を開ける。気のせいか、その目は潤んでいる。

 両親の位牌。自分たち姉妹を守り、死んでいった父と母。当時、十才になったばかりだった鰍にとって、それはあまりに悲しい記憶だった。

――見ててね、パパ、ママ――

 鰍は、改めて心に誓った。

――必ず、カタキはとるからね……――


 外は雨だった。しとしとと、止むでもなく、強くなるでもなく降りつづく、陰気な雨。

かおるお姉、遅いなぁ……」

 ちゃぶ台に片肘を乗せ、ぼーっと姉の後ろ姿をながめていた鰍が呟く。このアパートの本来の住人たる次女の馨は、まだ学校から帰ってきていない。

「大丈夫かなぁ……馨お姉、バイクで学校行ったんでしょ?……」

「大丈夫だろ?あの娘がコケる訳ァないさ。だいたい……」

 高三にして、そこらの女子大生にはひけをとらないだろう見た目の長女の巴が、栗色のワンレングスの髪を揺らせて振り向く。

「純血だぜ?あの娘は」

 優しそうに垂れた目を細めて、巴が微笑む。言葉遣いはこわもてのする姐さん言葉だが、語調は優しい。

「でも今夜、新月じゃん?」

「余計な事考えんじゃないの。ほら」

 エプロンを脱いで居間に来た巴は、台所から持って来たサーバーのアメリカンを、鰍のカップと自分の湯飲みに注いだ。


――ホント、神様って不公平だよな――

 ぼーっと、窓の外を眺めていた鰍は、視線を姉の胸元に移しつつ、思う。

「ん?」

 視線を感じた巴が、聞く。

「巴お姉……また少し太っ……」

 どすっ。言い終わらぬうちに、どこに持っていたものか、鈍色の念を纏った出刃包丁がテーブルに突き立つ。

「……何だって?」

「いや、あの、あいかわらずいいプロポーションだなーと……」

 あははははーっと、お気楽に笑ってその場をとりつくろおう鰍を、ひとしきりにらみつけていた巴だが、

「……よし」

 言って、半分ほども突き刺さった出刃を引っこぬく。

――ホント、不公平だよな――

 ひきつった笑いをうかべながら、鰍は思った。

 本人も気にしているとおり決してスリムではない巴だが、出るところが出ている分、充分以上に彼女のスタイルは群を抜いている。これに対し、次女の馨の誇る高身長と相応のスリーサイズは、半端なモデルを軽くしのぐ。

 それに比べて。三女の鰍は童顔で背も低く、おまけに痩せている為、高一の今でも子供料金で電車に乗れてしまう。

――やっぱり父親が違うとこーなるのかな――


 巴と馨と鰍。外見だけ見た人では容易には信じられないだろう、栗毛以外に共通点のない姉妹は、それもそもはず、父親を全く別にする異父姉妹なのだ。


――そう言や、あの日も雨、だったっけ……――

 コーヒーをすすりながら、鰍は思う。

――ちょうど、こんな感じだったよなぁ……――


 六年前のその日、「協会」人事局新人部部長となったばかりの矢部氏は、もうかれこれ数時間、清滝きよたき一家のアパートの前で、雨に打たれていた。今夜必ず現れるという魔を封じ、そして、新たな狩人ハンターを得るため、部下数名と張り込んでいるのだが、事務畑出身の氏にとって、こういった仕事は得手ではない。スカウトも仕事のうちなのだから、まあ仕方がないとは言え……

「お疑いですか?彼女たちの力を?」

 ぎょっとして、彼は声のした方を向く。いつ現れたのやら、そこには黒いワンピースをまとった女性が、やはり黒いスーツ姿の、一回り大柄な女性の従者のさす傘の下で、静かにたたずんでいた。


 タイトなワンピースに黒い手袋、黒いストッキング。目深にかむったつば広の帽子とベールのため、その表情は知る由もないが、わずかにのぞく血塗られたように紅い唇と、ぬけるように白い肌のコントラストは妖しくも美しい。

「いや、そういう訳では……」

 しどろもどろに矢部氏が答える。女は、灯りのともった窓を見すえたまま、

「彼女たちの清滝という名は、本当のうじではありません」

「と、言うと?」

あららぎ。それが本来、彼女達一族に与えられた氏です。蘭、とはあて字で、「荒らぐ」がなまった言い方です。昔から、鬼神も道をあける猛者、と恐れられたものです」

 紅い唇から流れる言葉は、まるで当時を知る者のそれだ。

「その蘭の娘達です。小娘といえど、あなどれませんよ」

「はあ……」

――あんな小娘が、ねぇ……――

 矢部氏は、アパートの窓を見上げ直した。


 かじかを寝かしつけたかおるが、居間に戻って来た。無言で、ともえは新しく茶を注ぎ直し、渡す。二人とも、あまりの事に一体何をしたらいいのか解らなかった。

 父と母が死んだ。その知らせを聞いたのは、どれくらい前だったろう。

 巴は、黙々とちゃぶ台の上を片づけて、台所に立つ。何かしていないと、気が狂ってしまいそうだった。今にも、足下が崩れそうだった。泣きたかった。大声で、誰はばかることなく。

 しかし、妹達の前ではそうはいかない。巴は、ただ耐えるしかなかった。

 馨は、声を殺して泣いていた。鰍の前でこそ涙は見せなかったが、もう限界だった。これ以上こらえようとも思わなかった。大声こそあげないものの、あふれる涙は止めようもなかった。


 当時、長女のともえにしたところで中学に上がったばかり、両親を一瞬にして亡くした彼女達の悲しみは、いかほどだったろうか。

 死因は不明だった。どこかの空き地で、おり重なるように、半ば肉塊と化した死体が転がっていたそうだ。凶器も断定出来なかった。相当鋭利な刃物で、人間ばなれした力で引き裂かれていたという。

 通夜の夜。今は白木の箱におさまった両親の前で、かおるは、ちゃぶ台に突っぷして泣いていた。歯を食いしばって。長い黒髪を振り乱して。畳に爪を立てて。憎かった。両親を殺した相手が。だが、その憎しみをどこへぶつければいいのか、馨は知らなかった。

 そして、それ以上に、悲しかった。

 洗い物をしていた巴の手が停まる。入ったばかりの中学の制服のまま、ただ機械的に通夜の支度をしていた巴の、その頬を涙がひとしずく、流れた。もう停まらなかった。ぽろぽろと涙が零れた。真新しいセーラー服の肩が、震えていた。


夢魅姫ゆめみひめ、一体、何者です?あの娘達の親を殺ったのは?」

 「姫」と呼ばれた、その女の乗ってきたリンカーンのリムジンの中で、矢部氏が聞く。冷たい雨にうたれ続けるのは、矢部氏にとって痛快とは言えなかっただけに、快適な車内は有り難かった。

「魔物、それも、ただの魔ではありません」

 夢魅姫と呼ばれた女は答えた。車の中だというのに帽子をとろうとはしていない。

「夢魔としての力をも持ち合わせた、少々やっかいな相手です。もっとも……」

 アパートに目を向ける。

「……それはあの娘達とて同じですけど」


 かじかは、夢の中に居た。泣き疲れて、制服のままで。

 何処とも解らぬ所を鰍は漂っていた。上下も、何も感じなかった。それ以前に、今の彼女には、何をしようという意思も、何を考えようという気もなかった。

――鰍。鰍……私の声が聞こえますか、鰍……――

 誰かの声がする。どこかで、聞いたような。姉の様でも、母の声でもないが、しかし、それに類する優しい女性の声。

――貴女は今、夢の中に居ます。判りますか?鰍……。貴女には、ここで、自分の、いえ、貴女達姉妹のルーツを知ってもらわなければなりません……――

「誰?あたしを呼ぶのは、誰?」

――見えてきました。あれが、貴女と、そして私の起源……――


 目の前のそれは、鰍にとって知識でしか知らないはずの平安京の、どこかの貴族の家らしかった。その庭には、士官や女房達が一人の姫を中心に集まっていた。そして……

 門の外には、やはり中心に姫を戴いた魑魅魍魎ちみもうりょう達が居た。


「何故じゃ?何故、わらわの邪魔をするのじゃ?麻那姫なまひめよ、何故?」

 魍魎の姫が問うた。麻那姫、と呼ばれた、士官達に護られた姫は、

「解っているはずでしょう?夢紡姫ゆめつむぎひめ?」

 よく見れば、夢紡姫と呼ばれたのは、尼そぎの髪も初々しい女童めのわらわである。ただ、その肌も髪も絹の様に白く、紅を引いているのだろう唇と、本来白いはずの白目の部分が、対照的に紅い。

「貴女達のような、人に災いをなす者を捨て置くことは出来ないのです」

「何をして災いと申すか?われら夢魔が人の夢を喰らうのが許せんと、そう申すか?」

「貴女達夢魔は、人が見た・・・・悪夢を喰らうのが本道のはず。何故人にあえて悪夢を見せて・・・・・・まで……」

「ならば、われらに飢えて絶えよと申すか?」

 ぐっと胸をそらし、相手を見下したその姿は、かぞえで十才になったろうかというその姿からは考えられない程迫力がある。

「われらが生きるためには、人に悪夢を見てもらわねばならぬ。さりとて、この太平の世においては、悪夢を見る人などそうそうありはせぬ。ならば、無理にでも悪夢を見せてやらねばなるまい?妾にも養ってやらねばならぬ民がおる由にな」

「そのために人里に魔を放ち、人を殺めたのですか?」

「世が乱れれば、人は再び悪夢も見よう。さすれば、われらも糧に苦労はなくなるというもの」

「……たった……それだけのために?」

 一瞬、麻那姫まなひめの気が散じた。その隙に付け入り、数匹の魔物が麻那姫めがけて陣中に飛び込む。

 疾風が、栗色のつむじ風が走った。治まってみれば、その数匹の魔物は見事に一刀両断されている。

 鰍は見た。つむじ風の正体を。十二単の重さをものともせず、右手の赤い鉄扇一本で魍魎を退けた、栗色の髪の美貌の女房を。

「……ママ?」

 その顔は、鰍の母親、しずかにそっくりだった。


「それ!その力よ!」

 声高に、夢紡姫ゆめつむぎひめが叫ぶ。

「麻那姫よ、では今度は妾が問おう。そこな九頭竜ども共々かつては神と崇めあがめられたそなた達が、何故なにゆえに人に組するのじゃ?しかも、そなたを邪神と退けた大和の民になど。何故じゃ?」

「人と魔物の、共に生きる術を探すためです」

「ほほう!これは異な事を!」

 言って、ひとしきり笑うと、夢紡姫は、

「そのようなおためごかしのために、魔物達をのみならず、今また我が姉上をたぶらかしたとぬかすか!」

夢魅姫ゆめみひめは、御自分の御意思で我々に組されたのです。たぶらかしてなど……」

 その時になって始めて、鰍は、麻那姫の影にも女童が居た事に気付いた。すっかり怯えきっているその顔その姿は、しかしながら、夢紡姫に瓜二つである。

――あれは、私。そして、あの栗色の髪の女房こそ、貴女達蘭一族の祖先、蘭典侍あららぎのないしのすけ……――

 再び、かじかのとなりで声がした。

「……祖先?蘭……?」

――そう。人狼の里を降りて、初めて蘭を名乗った女。そして、あの女童こそが……――

「ええい!聞く耳持たぬ!いずれにせよ同じ事、姉上、人に組するなど、夢魔のおさとしてあるまじき事!」

――夢魔の中の夢魔。数百年に一度、人の形で生まれる夢魔の長。そして、当今とうぎん姫皇子ひめみこ女東宮にょとうぐうでもある私、夢魅姫ゆめみひめ――

「!」

 やっと、鰍は自分のとなりに誰か居たことに気付いた。

「……夢魅姫……おひいさま……?」

――全ては、夢魔姫むまきが双子であった事がいけないのです……――


 車の中で、矢部氏は、今までの話を信じられないという顔で聞いていた。

「そ、それでは……」

「妹は、自分なりに一族の将来を考えていたのです。ですが、私には、もっと別の方法があると思えました。だから、麻那姫まなひめ達と手を結んだのです」

 矢部氏は、今すぐにでもここから逃げ出したくなった。目の前のこの女が、事もあろうに夢魔の長だと?冗談じゃない!

「現世の魔物が相手なら、九頭竜を筆頭とする強者達で充分以上に戦えます。ですが、夢の中では、いかに彼らとて手が出せません。それで、私は人の体をもった夢魔、ばくを率いる事にしたのです」

「……」

「あの娘、かじかは、その獏と人狼の合いの子なのです。本来呪的能力を持たない人狼が、呪術者としての力を持つ同族を得るには、混血を許すしか方法はありません。とはいえ、元来、子種の薄い人狼ですから、必ず純血の子を残す事が優先されます。さらに、混血児は子を成してはならないという掟と、混血を許すのと引き換えに女しか生まれないという呪いを受ける必要があり、あららぎはその役目を負った人狼の一族です。そして、合いの子が生まれる事自体、そもそも希ですから、今回のように一度に三人も娘が居るというのは、非常に珍しい事です」

――それに……――

 夢魅姫ゆめみひめには、しかし、一つ解らない事があった。

――今までなら、長女を純血としていたはず。なのに、今回に限っては次女が純血で、三女が獏。二人も純血を残す余裕は普通は無い、とすると、長女は、一体……――


 ちょうどその時、薄く開けたリンカーンの窓ごしに姫の従者が声をかけた。

「……来ました」

「奴ね?」

 姫が、従者に確認する。

「間違いありません」

「しばらく泳がせます」

 言って、姫は矢部氏に向き直ると、

「お客さんがいらした様です」


「姉上!改心なさらぬとおっしゃるなら、麻那姫ともどもねるが良い!」

 夢紡姫ゆめつむぎひめが叫ぶやいなや、巨大な、黒い影が麻那姫達をとり囲む。

「!……いやあ!」

 見る間に士官が、女房が白骨と化してゆくのを目の当たりにして、鰍は、たまらず悲鳴を上げた。

 その途端、今まで、こちらに全く気付いていなかった夢紡姫が、魑魅魍魎ちみもうりょうかじかの悲鳴に気付く。

「おのれ!そこにも!」

 姫が言うなり、何千という魍魎が鰍めがけて飛んだ。

「ひ!」

 悲鳴を上げる暇もあらばこそ、体じゅう、ありとあらゆる所を魍魎共が囓り、えぐる。声も出ぬほどの激痛と、嫌悪感。鰍は、気が遠くなりかけた。

――目を開くのです、鰍――

 三度みたび、声がする。開こうにも、眼球はすでに喰いつくされている。

――大丈夫、それは全てまぼろしに過ぎません。それが、夢魔のやり方なのですから――

 蛆の這い回る鰍の脳に、かろうじてその声が届いた。が……

――とはいえ、いかんせん、未だ早すぎますよね……鰍……貴女に奴と今すぐ戦えというのは……仕方ありません……


「何故じゃ、小娘!何故、おぬしは死なぬのじゃ!」

 確かに、殆ど白骨化し、その骨すら囓りつくそうとするこの期におよんで、死なないどころか、かじかの体は、今や加速度的に再生しつつあった。

――驚かれた様ですね。余計な事とは思いましたが、少し、私が力を貸しました――

「何?誰じゃ?今、なんと?」

――いつまでも、妹の姿を真似るのはお止しなさい。いくら妹の指図とはいえ、これ以上はお前の分を超えますよ――

「……貴様……そうか……我が姫の姉御前あねごぜとは……貴様の事か!」

 見る間に、夢紡姫ゆめつむぎひめの体は変化してゆく。どす黒い、見るも嫌らしい沸きたつ固まりへと。

――鰍、目を開けなさい。鰍――

「貴様、だとするなら何故、夢の中に直接介入する?今まで、ただの一度として貴様が動いた事は……」

――ここは鰍の夢の中ではありませんし、私は鰍に月を見せただけです。さあ、鰍、目を開けて、あなたの御両親のかたきをその目で見るのです――

「パパと……ママの……カタキ……?」

 今や、ほぼ完全に、いや、完全以上に再生した鰍が、ゆっくりと目を開いた。いつのまにか、犬歯が発達している。

――そう。御両親の敵。今、ここで果てるか、奴と戦う力に目覚めるか、選ぶのはあなたですよ――

「あたし、……死ぬの?……」

――戦わなければ、ここで殺されます――

「あたし……パパとママのカタキ、とりたい!アタシ、死にたくない!」

――ならば、目覚めるのです――


かじか!どうしたの?鰍ぁ!」

 ともえかおるは、あせりまくっていた。さっきまで、泣き疲れて眠っていたはずの鰍が、何かうわごとを言って急に苦しみ始めたのだから。

「どうしよう、お姉ちゃん?」

「どうしようって……どうしよう?」

 十二才と十一才の少女に、いきなり対応しろと言う方が無茶である。

 と、急に鰍が静かになった。ゆっくり、瞼が開く。

「鰍あ!」

「よかった……大丈夫?何ともない?」

「お姉ちゃん達……あたし……」

 何となく、呆けた顔のまま、二人の姉の顔を見ていた鰍だったが、はっと、我にかえると、

「お姉ちゃん!アタシ、戦わなきゃ!」

「へ?」

「た、たかう?」

 思わず、顔を見あわせた二人は、

「……馨、氷まくら」

「うん」

「ちがうー!」

 おかっぱ頭をふりみだして、鰍は何とか見てきた事を説明しようとした。その時……


「はあっ!」

 鰍の、体の奥が、火がついたように熱くなった。えもいわれぬ快感が走る。思わず閉じた瞼の裏に、月が見えた。

「どうしたの鰍!」

「おなか痛いの?大丈夫?」

――心配ありません――

「え?」

 頭の中に響いた声に、巴と馨は同時に答える。

「誰?」

――鰍は大丈夫。彼女の封印を解いているだけです――

「誰なの?」

「鰍を、どうしようってのよォ!」

――窓の外を御覧なさい――

 言われざまに、窓の外の、雨の中にたたずむ女を見た馨は、全てを理解した。

「くあっ!」

「馨?」

 外を見た途端その場に蹲った馨を見て、巴は声をあげ、駆け寄って抱き起こす。

「え?」

 巴は、馨の長い黒髪が、根元からだんだん栗色になってゆくのを見て、呟く。

「うそ……なんで……?」


 その黒い固まりは、今、夢魅姫ゆめみひめの前で雨にうたれていた。その全身から、どす黒い気を滲ませながら。鉤爪とも、触手ともつかぬ無数の器官を蠢かせながら。

「どうやら、抜け出せたようですね」

 夢魅姫が言う。

「良く出来ていたでしょう?私の造った夢時空は。鰍の夢だと、信じて疑わなかったのでしょう?あなたの造る悪夢などとは、比べものにならないでしょう?」

 返事はない。返事出来ないのだ。

「その様子では、体の大半をむこうに置いてきてしまったようですね。空間を閉じるのが、少し早すぎましたか?」

 返事のかわりに、低いうなり声。

「早急にこの場から立ち去りなさい。さもなくば……」

 姫が言い終わるより先に、が動いた。


 一瞬、は自爆したかに見えた。その実、は、無数の触手を四方八方へと延ばしていた。

 付近の家々が崩れ、電柱が倒れた。

 リンカーンのリムジンも、呆っ気なく串差しにされる。矢部氏は、その時、死を覚悟していた。固くつむった目を、恐る恐る開ける。と、少し離れた所にもはや鉄クズと化したリムジンが転がっている。あわてて周りを見まわすと、どうやら姫の従者が自分をかかえて躍んだらしい事に気付いた。


 やっとの思いで胸をなで下ろした矢部氏は、しかし、何かが不自然な事にも気付いた。

 よく見れば、車も、周りの家も、火災はおろか煙一つ、いや悲鳴すら聞こえないのだ。


「未だ気付かないのですか?」

 自分の目前の触手を、念障壁で押さえつつ、姫が言った。

「ここも、私の幽閉空間にすぎないのですよ?」


 さっきまで、清滝、いやあららぎ姉妹のいたはずのアパートの瓦礫が、わずかにゆらぎ、途端、その下から栗色の弾丸が二つ跳び出す。

「な、何ィ?」

 矢部氏は思わず我が目を疑った。

 それは、熊ほどもあろうかという、巨大な狼と、半獣半人の小柄な少女だった。


――美しい……――

 常識を超えた所で、矢部氏はそう思った。その、躍動する筋肉の一つ一つが、身をかわし、又、隙をついて爪と牙を振るう動きの一つ一つが。

 呆けたように人外の戦いに目を奪われていた矢部氏の横に、いつのまにか姫が佇んでいた。

「御覧になりまして?」

「え?あ、ああ。あれが……」

「そう。あれが蘭の娘達です」

「すごい……圧倒的じゃないか」

「ええ。しかし、を倒すことはかないません」

「?」

「圧倒的に見えますが、それはの力が殆んど失われているからですし、第一、は物理的ダメージだけでは封じられません」

 何故?と、矢部氏が問おうとした刹那、再び、瓦礫が崩れた。

かじかあ、かおるう……」

 矢部氏の期待をよそに、出来たのは巴――全く普通の人間とかわって見えない、栗色の髪の少女だった。

「あれは……」

「長女のともえです」

「彼女はあららぎではないのですか?」

「いえ、彼女も蘭ですし、封印は解かれています。栗色の髪が何よりの証拠」

 確かに、事前の書類と写真では、三人とも黒髪だった。

「どうやら彼女も混血の様で、何か別の封印がかけてあるようですが……もう半分の血が何かは、私も知りません……」

 言って、姫は従者に目配せする。頷いた従者はおよそ十メートル程の距離を一気に跳び、再び一跳びで巴を抱えて帰って来る。

「……おばあちゃん……?」

 自分を抱えて跳んだのが、両親の通夜の席で初めて会った、自分達の祖母を名乗る女性である事に気付いた巴が呟く。

 姫の従者、蘭円あららぎ まどかは、頷くと、低く優しい声で、

「さあ、しゃんとしてご挨拶なさい。姫の御前よ」

 そう言って、円は巴を姫の前に立たせる。

「……夢魅姫ゆめみひめ……」

 取り乱すより先に呟いた巴に、姫が答える。

「はじめまして。私は、夢魅姫と呼ばれる魔物。あなたは?」

「あたしは……私は、巴。清滝の、巴」

 まだ多少ぼうっとしているのか、巴は、夢見心地の様にぼそりと呟く。

「……やはり……」

「どういう事なんです?」

 ややじれたらしい矢部氏が、聞く。

「……巴は、やはり別の封印が成されています。この封印は、恐らく麻那姫まなひめにしか解けません……御覧なさい、巴」

 巴を胸元に抱きよせ、顔は奴の方を向いたまま、夢魅姫が諭す。

「あなたの妹達が戦っています。あなたも、戦うつもりでしょう?」

 巴がうなずく。小さく、しかし、しっかりと。

「ならば、左手を出しなさい」

 半ば機械的に差し出された左手の掌に、姫の右手の掌が合わさる。

 どっくん。巴の体が硬直した。何か、熱くて、堅い物が体内に侵入してくる。

「今のあなたの力は、殆ど封じされているも同然。ですから、これを貸しましょう」

 掌から掌へ。それは自らの意思をもって侵入して行く。

「使い方はそれが教えてくれます。あなたなら、使えるはずです」

 掌が離れた。ゆっくり、巴は歩みだした。に向かって。


 その巨大な気を感じて、かじかと、かおると、そしてまでもがともえを見た。

 巴は、ゆっくり近付きながら、右手と左手を合わせた。握った右手の中にあるのは、木の棒に見えた。

 一気に左掌から引き抜いたそれは、使い込まれ、黒ずんだ一振りの木刀だった。


「印を結びなさい、鰍」

 姫が声をかけた。

「巴の太刀と、馨の牙と、あなたの印を同調させるのです」

 うなずいて、鰍と呼ばれた半獣の少女は一歩後じさると、印を結び、言魂を吐き始める。

 だしぬけに、狼がへと飛ぶ。その白い牙が、深く、奴の体へ突き立つ。

 巴の太刀が一閃し、大気が裂ける。

 太刀から放たれた念は、馨をアンプに、牙をアースにして奴の体内を駆け巡る。

 馨が離れるのと、鰍が印を結び終えるのが同時だった。体内を駆け巡る念に苦しみもだえながら、は裂けた大気の間に消えていった……


 それから六年。鰍はもとより巴も馨も、今では狩人ハンターとして相応の働きをしている。もっとも、鰍以外は夢に入れないので、もっぱら現世の魔物が相手であるが。

 鰍と馨は、あれ以来、蘭の姓を名乗っている。巴は清滝のままだ。その事自体、ほんのちょっとしたこだわりだとしか本人も、周りも、思ってはいない。だが。

 何となく、鰍には判るような気がした。

 あの夢の中に、ヒントがあるように思えた。


――……アイツ……――

 外の雨をながめながら、鰍は思った。

――今度は、必ず、封じてやる……――

 そのために、狩人ハンターになったのだ。あの時は、を夢時空の間に吹きとばすのが精いっぱいだった。だが、今は違う。この六年は、無駄になってはいないはず。

――見ててね、パパ、ママ……――

 月に一度。両親の命日の夜。普段は離れて暮らす姉妹が昔、両親と住んだ家屋で再び共に過ごす夜。鰍は、改めて決心するのだった。


「……にしても遅いなあ、あのバカどこほっつき歩いてんだか……」

「どーせ馨お姉の事だもん、山田君とこにしけ込んでんでしょ」

「ったく……高校生だっちゅーのにあの娘は……」

「山田君てば純血だもん、しょーがないっしょ」

「……ま、いーけどね……」

「ねぇ、巴お姉、先に始めちゃおうよ、アタシお腹すいたぁ」

「そーすっかなあ……あ?」

「あ!帰って来た!」

 雨音の向こうから、BEETのクロスチャンバー付きのRZ350の排気音が近付いてくる。窓の下で、一発空吹かしをくれてからエンジンを切る。スチールの階段をかけ上がるリーガルのデッキシューズ。

「ひゃあーっ降られたあっ!」

 ドアを開けて、長身の少女がすべり込んでくる。

「遅かったじゃないのぉ」

「何よアンタ、その格好でバイク飛ばして来たの?」

「だって制服だもん、仕方ないじゃん」

「仕方ないったって、あ、こら、はしたない!」

「いーじゃん、自分ン家なんだから脱いだって」

「カーテンくらい閉めろ!」

「もー馨お姉ってば脱ぎちらかすから」

「お、美味そーな匂い!」

「早くなんか着ろ!」

「わあ、畳がビショ濡れになる!」


 ぶらとぱんつのみという出で立ちのまま、早速つまみ喰いしようとするかおると、窘めつつ馨の腰までもある濡れた栗毛をバスタオルでわしゃわしゃと拭いてやっているともえ

 脱ぎちらかしの制服を拾い集めていたかじかは、自慢の姉二人を見ながら、今ここにある、この瞬間のささやかな幸せを満喫していた。

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