第7話 腰の中になんか別の生き物入ってますよ!

 四月の終わりに近づいたころ、歌音が練習を休んだ。軽い風邪だ、と副部長である裕一郎が説明した。


「あいつがんばりすぎるからな。今日は休め、と言っておいた。発声は僕がやる」


 練習はいつも発声練習から始まる。歌音が簡単な音階のピアノを弾きながら、その音程に合わせて声を出す。声の出し方はハミングだったり、「まー」という簡単な声だったり様々だ。

 岸田がポロロン、とピアノを奏でる。この人ピアノ弾けるのか、と希望子は驚いた。合唱部へ入ってからというもの、周囲の幼少期のピアノ履修率に希望子は驚いている。希望子自身は全く弾けないのだ。

 

「うーむ、腹式呼吸が意識できていない。筋肉が使えてないぞ」


 声を出している時、裕一郎がピアノを止め、仰々しく立ち上がった。


「男声には教えたが、女声には教えていなかったな」


 裕一郎はアンサンブル室のホワイトボードに人間の肺を書いた。横隔膜の話だ。希望子は一度聞いていたが、他の一年生の女声は初耳で、真面目に聞いた。


「いいか、この横隔膜を動かすのに大事なのは背筋だ。吹奏楽部や合唱部では息を強く出すために腹筋ばかりしがちだが、合唱の場合、横隔膜とリンクしているのは背筋だ。腹筋は、背筋と同じくらいのバランスでつけるだけでいい」


 背筋を動かす、というイメージは希望子にできなかった。腹筋は、お腹をへこませることで動くが、背筋を意図的に動かしたことはなかった。


「岸田先輩、背筋ってどうやって動かすんですか」

「うむ、口で教えるより実際に感じたほうが早い。剛、見せてみろ」


 裕一郎が促し、二年のバスパートリーダー、剛が希望子の前に来た。

 百九十センチを超える長身、大きな山のような肩幅。女子では背が高いほうの希望子も、見上げなければ剛の顔が見えない。

 仏頂面のまま剛が迫ってくるので、思わず希望子は後ずさりした。

 剛は希望子の前まで来て、くるりと回れ右。希望子に背中を向けた。


「ここを、手で押さえろ」

「えっ?」


 剛が両手を腰にあて、希望子に手を出すよう促す。

 いきなり先輩の、それもごつい男子の身体を触れと言われて、希望子は少し戸惑った。


「男声はみんなもう触ってる。二年の女声も、去年触った。あと触ってないのは一年の女声だけだ。これは君たちが腹式呼吸のイメージをつかむために必要なことだ、恥ずかしがらなくていい」


 裕一郎がそう言って、希望子はとりあえず言われたとおり、剛の腰を両手で押さえた。


「いくぞ」


 剛はスーッ、と音を立てながら息を長く吐いた。これはいつも発声練習のときに行うブレストレーニングで、呼吸を一定の強さで長時間吐き出すためのもの。希望子も毎日やっている。

 息を出しながら、剛の腰の筋肉がどんどん縮まってゆく。

 剛は立派な胴回りを持っているが、ウェストにくびれができているのではないか、と思えるほどきつく腰周りが絞られてゆく。


「そろそろくるぞ」


 裕一郎が言ったあと、剛がハッ、と一気に息を吸った。

 息を出すのは長時間かけるが、吸うのは一瞬。これは基本だ。吸う行為は、音を出すための行為ではないから、より早く息を補給する必要がある。


「ぎゃっ!」


 剛が息を吸った瞬間、絞られていた剛の背筋が突如、膨張した。

 膨張というより爆発した、と言った方が近いくらいの勢いだった。希望子の手は押し返され、剛のベルトと筋肉の間に指がはさまった。


「あいたっ!」

「うおっ、すまん」


 あわてて剛が力を抜き、希望子の指を離した。


「どうだった?」と岸田が言う。

「す、すごい……これが背筋……」


 希望子はバスケ部での練習で、身体の使い方には自身があった。だから剛の筋肉の強さはよくわかった。背筋だけをここまで鍛えるのは、かなりの努力が必要だ。


「剛は毎日腹筋二百回、背筋二百回やって鍛えてる。本気で上手くなりたかったら、それくらいやることだな」


 岸田の説明に、他の女声から「えーっ」という声が上がる。スポーツ脳の希望子だけが「確かにそれくらい必要だな」と勝手に納得していた。

 その後、一年女子たちで交代しながら、剛の背筋を触った。


「えーっなにこれ! 宮本先輩、絶対腰の中になんか別の生き物入ってますよ!」


 真由はきゃあきゃあはしゃいでいた。同じアルトの中川瑞希は、照れてしまって剛の腰をなかなか触れず、希実子に手を持ってもらって、一緒に触った。

 この後ソプラノの一年も触ったが、剛は表情一つ変えず、ただ背筋をふくらませることだけに集中していた。 

 皆が触ったあと、裕一郎が得意げに話しはじめる。


「ちなみにだ、一般に男声は腹式呼吸が得意だが、女声は胸式呼吸になりがちだ。なぜだかわかるか? 女は、胸が重いからだ。まあ重くない奴もいるが」


 希望子はイラッとした。希望子の胸はあまり重くなかった。絵美が自分の重そうな胸を気にしていて、余計に腹が立った。


「だから特に女声は、腹式呼吸を意識して声を出すこと。慣れないうちは、お互いの腰を押さえながらやってみるといい。現に男声は練習の時、そうしている。僕からは以上だ、パート練習に移ろう」


 この後、アルトでは先輩と後輩でペアを組み、お互いに腰を押さえながら歌う練習をした。手の力で無理やり押さえることで、希望子にも背筋を動かす感覚がつかめてきた。

 希望子が真面目にやっている裏で、真由は「合法的おさわりタイム!」とはしゃいでいた。


* * *


 四月も終わりに近づいた頃。学校生活が始まってから最初の連休であるゴールデンウイークが迫っていることもあって、クラスじゅう浮足立っていた。

 帰りのホームルーム。希望子は担任の長原先生の言葉をいつもどおり聞き流していた。長原先生は三十代前半の独身男で、いつもジャージにサンダルという農家のおっさんのような出で立ち。担当教科は数学。この先生はとにかく面倒くさがりで、ホームルームは連絡事項だけ言ってすぐに終わらせる。生徒の素行や学習態度に釘を刺すようなことは一度もない。生徒からすれば、担任に色々干渉されるより楽なので、歓迎されていた。

 ホームルームが終わると、希望子はうきうきしながらアンサンブル室へ向かう。合唱を始めてから、毎日色々なことを知り、バスケ部時代とは別の成長をしている。歌音の歌声には遠く及ばないが、それなりに充実した日々だった。


「はい、ゴールデンウイークでお休みになる前に、一回『夜もすがら』合わせてみます」


 発声練習が終わった後、歌音がそう言った。いつもパート練習でそれぞれの音程を歌うだけだったが、全員で合わせて歌う、という。

 希望子は不安だった。アルトパートの音程は、一人で歌ってもしっくりこない難解なもの。他のパートと一緒に歌ったら、絶対、混乱してしまう。

 だが部長の指示を無視する訳にはいかない。

最初の音だけがピアノで弾かれ、合唱が始まる。


 よもすがら ひとりみやま みやまのあきのはに つのる ありあけの ありあけのつき


 生まれて始めて混声合唱を歌った希望子は、身体が震えるほどの心地よさを覚えた。

 『夜もすがら』の詩は、『方丈記』を書いた鴨長明の作品。かつて神社の跡取りとして育った鴨長明は、そうなれずに別の道を選んだことについて、秋の山の中で一人、嘆く短歌だ。

 その言葉に、和風とも洋風ともいえない、幻想的なメロディと和音が組み合わさった名曲だ。

 アルトパートだけを歌っていた時は、わけがわからなかった。楽しくないな、とすら希望子は思ったことがある。

 だが全パート揃えて歌うと、重厚なバスの低音に支えられ、ソプラノが躍動的に明るいメロディを歌い、その中間のテノールとアルトの存在によって、幻想的な和音が構成される。

 混声四部合唱の醍醐味を、この時、希望子は知った。

 歌いながら自分の音程を見失わないか、希望子は不安だった。だが問題なかった。合唱をする前、歌音の発案で一年生と二年生が交互に横並びになるよう、並びを変えていた。そのおかげで希望子は両隣から二年生の安定した歌声を聞き、それを真似すれば、音程を外すことはなかった。

 

「あら、意外とうまくいったなあ。今年の一年は優秀やな」


 歌音がぱちぱち、と手を叩きながら言った。天使のような笑顔で、満足そうだった。


「男声は、僕が鍛えてあるからな」


 裕一郎が得意げに言う。確かに、男声パートは終始安定していた。ただ女性パートが全員平均的な声質なのに対して、テノールは裕一郎、バスは剛の声量が突出しており、他の一年生の声はその影から支えているような感じだった。


「みんな経験者やけん元からうまいんだろ」

「まあな」

「いや、岸田先輩のおかげです」

 

 部長と副部長の会話に割って入ったのは、『少年』というあだ名の光輝だった。


「僕ら、宮河内中の時はほんまに音取りが苦手で、何回やっても先生に満足されんかったんです。それに比べたら、岸田先輩や宮本先輩の指導のおかげでだいぶ上手くなれました」

「少年、そんなに褒められると照れてしまうぞ」


 裕一郎がキャッ、と女子のように顔を手で押さえ、皆が笑う。


「本気ですよ」

「僕が宮河内中の丸山先生よりいい指導者だとは思えんが……まあ、そういうことにしておくか」

「確かに。丸山先生ってすごいもんな」


 歌音が同調している。希望子は初めて聞く名前だった。部活はどこも指導者が大事なのは、希望子も知っている。だから、なんとなく裕一郎や歌音の言いたいことはわかった。


「ほな、もう一回通してみよ」


 こうして、この日は『夜もすがら』を何度も歌った。細かいところはできていなかったが、初めて混声合唱ができたこと、その一員として声を出せたことに希望子は満足した。


「はい。練習終わり。これなら『夜もすがら』は六月の合唱祭までに間に合うかな。実はコンクールの自由曲、先生に決めてもらったんよ。いまから楽譜配ります」


 歌音が皆に楽譜を配りはじめる。まず男声が受け取ると、裕一郎が曲名を見ただけで「うおおおお!」と頭をかきむしりながら発狂していた。他の男声たちも楽譜をめくるにつれ、表情が険しくなっていた。


「鈴木輝昭作曲の『曙』。これをコンクールの自由曲にします」


 音楽初心者の希望子は、楽譜を読んだだけでは何もわからない。わかったのは『夜もすがら』と違ってピアノ伴奏がついていることくらいだ。

この曲が御所高校合唱部に惨劇をもたらすなんて、夢にも思っていなかった。

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アルトでも歌姫になりたい! ~御所高校合唱部の日常~ 瀬々良木 清 @seseragipure

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