第6話 岸田先輩、サイッテー!

希実子が絵美と一緒に通学を始めたころ、とある日の練習後のこと。


「あれ、男声遅いなあ」


 皆で練習後ミーティングが始まるのを待っている時、歌音がつぶやいた。

 ソプラノ、アルトがアンサンブル室に戻ってきた後、男声パートがなかなか現れなかった。

 パート練習が終わった後、夕方六時前にアンサンブル室にみんな戻ってくるのだが、この日は男声パートがなかなか戻ってこなかった。

 あまり遅れると、練習後ミーティングの時間が遅くなる。

 

「どうせ遊びよるんだろ」


 隆子がやれやれ、と肩をすくめながら言う。

 希望子はこれまでアルトパートの練習ばかりしてきたので、男声のパート練習を見たことがない。根本的に音域が違うため、パートごとの練習では一緒にならないのだ。

 今まで知らなかったけど、男声パートはろくに練習もせず、遊びほうけているのだろうか?


「うち、男声見てきます!」


 そう疑い始めた希望子は、自分で確かめることにした。


「えー、そのうち戻ってくるよ」

「大丈夫です!」


 体育会系的な心得をもつ希望子は、部のためなら使いっぱしりも苦ではない。男声パートがいつも練習している教室へ、駆け足で向かった。


「時間ですよ!」


 勢いよく教室に入った希望子。

 そこでは、異様な光景が広がっていた。

 机と椅子がすべて壁の端に寄せられ、部屋の真ん中に一台だけ、机が置かれている。

 その上に、二年のベースパートリーダー・宮本剛が乗っていた。

 剛は一九◯センチを超える巨漢で、手足は太い筋肉で覆われている。その剛が机の上に立つと、まるで仁王様がこの世に君臨したかのような威圧感があった。

 剛は目を閉じ、何かに集中している。

 そして突然、目をカッ、と開き、机の上から思い切りジャンプした。


「ハッ!」


 落下中、剛は勢いよく声を出した。教室どころか中庭まで響き渡る、大砲の発砲音のような重低音が放たれる。「ハッ」と声を出したと同時に、剛はぱんと手を叩いた。

 希望子には、その行動が全く理解できなかった。何かの儀式にしか見えなかった。


「……何、してるんですか?」


 呆気にとられている希望子に、裕一郎が話しかける。


「今、横隔膜を動かす画期的な方法を思いついたんだよ」

「おう、かく、まく?」

「ああ、一年の小川さんはまだ知らんだろうな。説明しよう!」


 裕一郎は得意げに、黒板に書かれていた人間の肺の絵を指差しながら語りはじめる。


「人間は、肺を広げることで空気を吸い込み、縮めることで空気を吐き出す。その動きをするのが、横隔膜という筋肉だ。具体的にいうとここだ」


 肺のいちばん底のところが、黄色いチョークで塗られ『横隔膜』と書かれている。


「合唱部では毎日ブレストレーニングや発声練習をしているが、とにかくこの横隔膜を動かして声を出すことが大事なのだ。だが、横隔膜は日頃、意識して動かすような筋肉ではない。横隔膜を動かせ、と言われても難しい。だから体感できる方法を考えた。人間が重力に従って落下する時、この横隔膜は自然に動くらしい。だからジャンプして、落下している時に声を出せば、それが横隔膜による発声なのだ!」

「へ、へえー」


 音程を確かめるだけのアルトパートの練習とは似ても似つかない、自由過ぎる男声の練習。隆子に「遊んでいる」と言われるのも無理はないな、と希望子は思った。

 ただ、どうやら裕一郎の言うことは間違っていないし、慣れない音取りをずっと続けるよりも基礎トレーニングをしたほうが上達するのでは、という気持ちもあった。


「次、少年」

「はい!」


 裕一郎が言うと、『少年』と呼ばれた一年の安倍光輝が、おもむろに机の上に立った。


「少年、ってなんですか?」

「最近僕たちが安倍につけたあだ名だ。いかにも少年、という感じだろう?」


 光輝は背が低めだった。その前に剛が立っていたこともあり、とても貧相に見える。一方、光輝はとても合唱に熱心で、中学三年間を通して合唱を続け、その後も合唱をするために御所高校を選んだ。顔立ちはそれなりに良く、何より希望の光を持ったキラキラした目をしている。『少年』と言われて、希望子は妙に納得してしまった。

 

「いけ! 少年!」

「はい! ハッ!」


 光輝は剛と同じように、ジャンプしながら「ハッ」と声を出した。剛ほどの勢いはなかったが、立派な重低音だった。『少年』というあだ名からは似ても似つかない、男の強さがある声だ。


「ちなみに、手を叩くのはなんでですか?」

「気合が入るだろ」


 気になったところを希望子が聞いたら、裕一郎がそう答えた。そこは適当なのか、と希望子は思った。


「これ、うちもやってみていいですか?」


 希望子はこの練習法に興味を持った。剛や光輝があれだけ立派な声を出しているから、自分も真似すれば上手くできるかも、と思ったのだ。


「構わん。やってみろ」

「やってみます!」


 裕一郎に許可をとり、希望子は同じように机からジャンプして声を出した。


「どうでした?」


 華麗に着地を決めた希望子。周りを見ると、なぜか男声の皆が目をそむけていた。


「いや……もっと腹の底をドン、と突き動かす感じで声を出すべきだ」

「わかりました! もう一回やってみます!」


 裕一郎の指摘を受け、希望子は再度チャレンジした。すると一回目のほうが良かったような気がしてきて、また同じ動きを繰り返す。

 自分が納得いくまで、希望子は何度も繰り返した。

 

「今の、どうでしたか!?」

「あ、ああ、よかったと思うぞ」


 一番よかった、と感じた時に裕一郎へ確認すると、なぜか歯切れの悪い答え方をされた。周りを見ると、光輝だけ顔が真っ赤になっている。その他は知らんぷり、と言った感じでそっぽを向く。

 何がおかしいのだろう? と希望子は思う。


「きしだくーん?」


 教室の外から、歌音の声が聞こえた。

 男声を呼びにいったはずの希望子が帰ってこないので、歌音がやってきたのだ。


「キミコちゃんにそんなはしたないことさせてええと思っとん?」

「あ、いや、これは小川さんが自主的にやったことで、あああああ」

「男声、アンサンブル室戻りなよー」


 歌音は裕一郎の耳を引っ張りながら、教室を出た。他の男声たちも慌てて続く。


「なんで岸田先輩あんなに怒られてんの?」


 アンサンブル室に戻るまでの間、希望子は一緒に歩いていた光輝にこっそり聞いた。


「……見え、てた」

「見えてた……あっ!」


 やっと希望子は気づいた。

 希実子がジャンプするたび、盛大にスカートがめくれ上がっていたのだ!

 いつもスパッツを履いているので、パンツまでは見えなかったのだが、それでも男子高校生たちには刺激が強すぎた。

 裕一郎は、それに気づいていながら何度も希望子にジャンプさせたのだ。


「岸田先輩、サイッテー!」


 歌音に引っ張られている裕一郎に向かって叫ぶと「気づかないお前が悪い!」とさらに最低な言葉が返ってきた。そのあと裕一郎は歌音にローキックを食らい、すねを押さえながら悶絶していた。さすがは部長、やんちゃな男声を取り仕切るだけの力を持っている。


「ってか、少年も見てたんでしょ! 止めてくれればよかったのに!」

「いや、練習したそうだったから」

「そうだけど~、もう、男声ってみんなアホ! あんた顔真っ赤になってるわよ! 恥ずかしいなら見なきゃいいのに!」


 この時光輝が顔を赤くしていたのは、希望子のスパッツを見てしまったからではなく、生まれて初めて女子にあだ名で呼ばれたからなのだが――希望子はそんなことに気づく訳もなく、ずかずかとアンサンブル室へ戻っていった。

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