第5話 うちの子にならない?
「まずはペダルをこぐ練習からね。直立台ついてるから、ちょうどいいわ」
希望子は、教え方がとても上手かった。
まず自転車を直立台で立たせたまま、ペダルをこぐ練習。そのあと自転車にまたがり、足で蹴って少し進むイメージを作ってから、本格的に走る練習をした。
「足元見ないで! 前見ながら走るのよ」
「ペダルは時計の二時のところから漕ぐ! 力入らないわよ!」
「止まるときはブレーキ! 足は最後につける!」
ポイントごとに指摘し、必ず絵美にやらせることで印象づけを行う。
これは希実子がバスケ部時代に養った経験からだった。運動が苦手な絵美は、ついていくのがやっとだったが、どんどん上手くなっていった。
二時間くらい練習して、絵美は庭の中なら自由に走れるようになった。
「やるじゃん! ま、高校生なんだからそれくらい、できるわよね」
絵美がポイントをクリアすると、希望子は必ず褒めた。そのおかげで、絵美の自転車に対する苦手意識は消えていった。
「次は道路走ってみようか。車とかいて危ないから、うちと一緒ね」
「……ちょっと休憩しない? もうお昼よ」
「ん、あ、そっか。うちは動いてないけど、あんたは疲れてるもんね」
絵美は希望子に冷たい麦茶を出した。希望子は「ありがと!」と言ってごくごくと一気に飲み干した。すごい、と絵美は思う。絵美はちびちびとしか飲めないタイプだった。
「お昼ごはんは?」
「お母さん夕方まで帰ってこないから、コンビニまで歩いて行くか、カップ麺でも食べるわ」
「えー、表通りのコンビニまで歩くの? 遠くない?」
「片道十分くらいよ」
「うちだったら自転車か、お母さんに車出してもらう距離だわ」
絵美は歩くのが普通だと思っていたが、たしかに自分以外で歩いている人をあまり見なかった。健康のための散歩をしている老人くらいしか、このあたりで徒歩移動する人はいない。
「そだ! あんた、うちに来なさいよ」
「えっ?」
「昨日お母さんがカレー作りすぎて、向こう三日間くらいご飯がカレーになりそうなの。だから食べるの手伝ってよ」
「そんな、迷惑よ」
「迷惑じゃないわよ! むしろ大助かりなんだから」
希望子は母親に電話して「昨日の子とお昼一緒に食べたいんだけど! カレー余ってるでしょ!」と一方的に話した。
「お母さん今から準備するって。自転車で一緒に行こ?」
「いい、の……? 私なんかがあなたの家のお昼ご飯にお邪魔しちゃって」
「遠慮しなくていいわよ。アルトの真由なんか、うちの家に遊びに来てお母さんのカレー二杯食べたことあるのよ。全然気にしないから、ほんとに」
こうして二人は、希望子の家へ自転車で向かう。
絵美の家と希望子の家はわずか数百メートルの距離だったが、初めて走る車道は絵美にとって苦労の連続だった。道はでこぼこで走りが安定しないし、自動車がものすごいスピードで通り過ぎる。希望子から道の左側を走ること、交差点では必ず減速することを教わり、なんとか走りきった。
希望子の家は、このあたりでは比較的小さめの一戸建てだった。小さめといっても4LDKで、駐車場はなぜか三台分もある。庭もついている。都内では大きなほうだ。
「綺麗でしょ。前はばーちゃんちに住んでたんだけど、去年新しく家買って引っ越したんだ」
「大きな家ね」
「いや、あんたんちの方が大きいわよ」
初めて入る、友達の家。
絵美は「おじゃまします」と小さな声でつぶやき、玄関から入った。
「あらー、いらっしゃい」
リビングに入ると、カレーの準備をしている希望子の母親が、なんでもないように挨拶しててくれた。鬱陶しく思われたらどうしよう、と絵美は内心、心配していた。
「もうすぐできるから、座って待っててー」
「拓真は?」
「朝から塾よ。夕方迎えにいくわ」
「ふーん」
「……拓真って、だれ?」
会話についていけなかった絵美が、ぼそりと希望子に聞く。
「ああ、うちの弟。小五なんだけど、うちと違って勉強が大好きなのよ」
「ふうん……」
きょうだいのいない絵美は、弟がどういう存在なのか、今この場にいなければどういう問題があるのか、イメージできなかった。
「はい、できたわよ」
しばらくすると、母がカレーを運んできた。
にんじんとほうれん草の和え物つきで、絵美にはとても豪華なものに見える。
「えっ、と……」
「どうしたのよ?」
「こんなに、食べられない、かも……」
カレーは標準より多めの量が盛られていた。希望子には少ないくらいだったが、絵美にとってはかなり多い。
「あらあら、育ちざかりだから食べられると思って、いっぱい入れちゃったわ。残ったら希望子が食べてくれるから、気にしないで」
「なんでうちが食べる前提なのよ!」
「いつも拓真が残したやつ食べてるでしょ」
相変わらず漫才のような親子の会話に、絵美は思わず笑ってしまう。
絵美はまず、にんじんとほうれん草の和え物を口に運んだ。東京で食べていた野菜よりずっとしっとりしていて、甘味があった。
「これ、おいしい……」
「えっ、そう? いつも食べてるからわかんない」
「東京には、こんな新鮮なお野菜、ないわ」
「それ、親戚の農家の人がタダでくれるのよ。ほうれん草とにんじん。だからいつも食べてる」
「タダ、で……?」
「欲しかったら分けてあげるわよー」
こんなにいい野菜がタダで手に入るとは。絵美は驚いた。しかも希望子の母親は、持って帰ってもいい、という。なぜじぶんがここまで施しを受けるのか、絵美には理解できなかった。
続いて食べたカレーも美味しかった。希望子は「肉が少ない!」と文句を言っていたが、絵美はそれよりもにんじんやじゃがいもの甘味が気に入った。
ただ、やはり少食の絵美にカレーは重く、半分くらいで満腹になった。
「あの……ごめんなさい、もうお腹いっぱいです」
「ええー、それでお腹いっぱいなの?」
希望子の母が驚いている。希望子や、その友人たちは食欲旺盛な子ばかりなので、女子高生はもれなく大食いだと思っていた。
「いいなあー。希望子と交換してうちの子にならない?」
「お母さん! もう!」
怒られると思っていた絵美だったが、全くそんな感じではなかった。残ったカレーは、希望子が全部食べた。
このあと、二人は腹ごなしにまた自転車で出かけ、御所高校まで往復し、絵美の家に帰った。
「うーん。やっぱりまだちょっと危ないわね。明日から、一緒に学校行きましょ?」
「えっ、いいの?」
「もう、遠慮しないの。あんたが自転車乗れないと、合唱部の練習出席率が悪くなるんだから。一人で行くのも寂しいし、一緒のほうがいいでしょ?」
絵美はこれまで、あまり友達と群れずに過ごしてきた。
美人で、頭がいい絵美だったが、他人と一緒にいるのはどこか苦手だった。合唱部に入ったのも、母親に言われて友達をつくれるようにするのが目的で、誰かと行動することに慣れていなかった。
一人でいるのは苦しくなかったが、一方で友達と一緒に過ごす日々に憧れはあった。
希望子と出会って、それが一瞬で実現した。
「……ありがとう」
「素直にそう言えばいいのよ」
ストレートにお礼を言うと、希望子は少しだけ照れた。その様子がおかしくて、絵美は久しぶりに、自然に笑った。
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