尼僧の話

ロッドユール

尼僧の話

 私の兄は時給八百三十円で死んだ。それはその地域の最低賃金だった・・。


 私は一人、このまま別の世界まで行ってしまいそうな、もうすでに日本からしたら別の世界なのだが、ひたすら果てしない山道を歩き続けていた。

 雄大なヒマラヤの山々が、私を見守るようにその雄姿を眼前いっぱいに広げている。大自然をさらなる大自然が包み込む。空気はどこまでも澄み、空は果てしなく青かった。そこには自然だけがあり、人間など蚊ほどの存在感もなかった。

 コンビニでバイトをしていた兄は、万引きした少年を追いかけ、追い詰めたその先で、少年に持っていたナイフで刺され、死んだ。

 少年の万引きした商品は九十八円のカップヨーグルトとプッチンプリンだった。

 人は本当に悲しい時、涙を流せないのだと、この時私は知った。

 麓の村で知り合った少女の言っていたお寺は、少女の村から約三十キロほど山頂に向かって歩いた広大な平原の中にぽつんと建っていた。

「ふぅ~」

 私は滲む額の汗を拭った。早朝から歩き続け、すでに八時間以上が経っていた。

 辿り着いたそのお寺は日本のお寺とはまったく違って、建物自体がとても大きく、赤を基調としたカラフルな装飾が施された外観は、ミニチュアにした中国にある昔のお城みたいだった。

「よくこんなすごい物をこんな辺鄙な場所に造ったな・・」

 私はお寺を見上げ感嘆せずにはいられなかった。

 古びた巨大な門をくぐって中に入ると、思いがけずたくさんのお坊さんたちがいて驚いた。

「子どもが多いんだな」

 温かくなってきたとはいえ、まだまだ寒い中、小豆色の布一枚で覆っただけの恰好でお坊さんたちはニコニコと生活していた。

 私が高校生になった頃、少年院を出た元少年は弁護士になっていた。弁護士は兄が目指していた職業だった。弱い立場の人や貧しい人たちを救いたいのだと、兄ははにかむように私に語っていた。

 私は許せなかった。堪らなく許せなかった。

 突然事務所に現われた私を見て、元少年は少し驚いた表情をしたが、すぐに元の落ち着いた表情に戻った。

「家族の方ですね」

「はい」

「いつかこういう日が来ると思っていました」

 元少年は私の予想に反して、まったく動揺しなかった。

「そこにお座りください」

 元少年はソファーセットを指差した。私は、真っ黒いふかふかのソファーの真ん中に座った。元少年も私の向かいのソファーに座った。

 隣りの部屋から真っ赤なスーツを着た秘書がお茶を持って入ってきた。その女性は恐ろしく美人だった。

「どうぞ」

 お茶が静かに私の前に置かれた。秘書の女も落ち着いていた。私はなぜかその事に怒りを覚えた。

「よくここが分かりましたね」

 私が黙っていると、元少年が最初に口を開いた。

「あなたはとても不幸な境遇に育った」

 私は鋭く元少年を睨み据えた。

「私の事を調べたんですね」

 元少年は力を抜き、目をつぶるとソファーの背にゆっくりと背をもたせかけた。

「父親はあなたを虐待した」

 元少年は何も言わなかった。

「そして、同じく暴力を受けていた母親は自殺した」

「・・・・」

「家も貧しかった」

 元少年は黙ったままだった。

「そして、あな・・」

「ある日」

「?」

「ある日、おやじにハンガーで殴られたんです」

 元少年は突如私の言葉をさえぎり、目を開けた。

「ハンガー?」

「そう、あの百均で売ってるようなやわいやつじゃないですよ。木で出来たもっとこう堅いしっかりしたやつね」

 元少年は上体を起こして乗り出すように顔を私に向けた。

「相当強く殴ったからでしょうねぇ、殴った拍子に木で出来たカバーがぶっ飛んで、針金の部分が私の頭のてっぺんに突き刺さりましてね」

 元少年はそこで噴き出すように少し笑った。

「血が出たんです。頭のてっぺんからこう、ぴゅーっとね。血が噴水みたいに」

 元少年は手で頭から血が吹き出る様子をジェスチャーしながら、溢れる笑いを必死で噛み殺した。

「血がぴゅーっとね。噴水みたいに勢いよく吹き出るんです。ほんとにこう、ぴゅーっとね」

 元少年は自分で話しながら、遂に堪えきれなくなって笑い出した。

「その時、私は自分で自分の様子を鏡で見たんです」

 元少年の笑いは更に勢いを増した。

「それが、おかしくておかしくて」

 元少年は、笑い過ぎて涙目になった目を指で必死にこすりながら苦しそうに言った。

「こう、ぴゅーっと勢いよく出るんですよ。笑ってる場合じゃないんだけど、なぜかおかしくてね。で、笑うとまた勢いよく出るんですよ。こう、ぴゅーっと、それがまたおかしいんです」

 元少年はひたすら血が出る様子をジェスチャーしながら、再び一人狂ったように笑い続けた。私はただ茫然とそんな元少年を向かいのソファーで見つめた。

「客観的に見たら、ほんと悲惨な状況なんですけど、おかしくておかしくて一人で血をぴゅーぴゅー出しながら、笑い転げてました」

 ひとしきり笑うと、元少年は苦しそうに大きな息を吐き、ゆっくりと天井を見上げた。そこで一瞬の静寂が出来た。

「私には弟がいたんです」

 元少年は未だ湧き起こる笑いを打ち消すため、もう一度そこで大きな息を吐いた。

「あいつがね」

 そこで元少年の声のトーンが急に落ちた。

「プリンが食べたいって言ったんですよ」

「プリン?」

「プリンです」

 元少年がその切れ長の目で私を見た。

「母がね。母がまだ生きていた頃。風邪をひくと買ってきてくれたんです。普段そんなもの絶対食べさせてはもらえないんだけど、風邪をひいた時だけ、何かあった時だけ、特別に買ってきてくれるんです。それが子供としては無上の楽しみだったんです」

 嫌な予感がして、私は何かをしゃべらなければと思ったが言葉が出なかった。

「あの日、弟はそれが食べたいと言った」

 元少年は絞り出すように言った。

「弟は苦しそうだった」

「私は必死だった」

 私は何かを必死でしゃべろうと思ったが、金縛りにあったみたいに、やはり何も言葉に出来なかった。

「どうしても、プリンが必要だった」

 そこで元少年は頭を抱えた。私は必死で何かをしゃべろうとした。そうしなければいけないと感じた。でも、その時、どうしても言葉が出なかった。何か得体のしれない恐怖が私を包んだ。

「弟は死にました」

「そんなの関係ない」

 私はとっさに元少年の言葉を遮り叫んだ。気付くと私は立ち上がっていた。叫び声を聞いて、秘書の女が何事かとドアを開けた。

「なんでもない」

 元少年が女を見て言った。女は不審げに私を見つめながらゆっくりと静かにドアを閉めた。

「そんなの関係ない」

 私はもう一度叫んだ。

「あなたの不幸なんて、私に関係ない。あなたの事情なんて関係ない」

 私は何かを打ち消すように更に叫んだ。元少年は体を起こすと、再び目を閉じソファーの背に深く身を預けた。

「私はあなたが不幸であって欲しかった」

「惨めであってほしかった・・・」

「立ち直ってなどいないでほしかった。悪い人間であり続けて欲しかった。社会のゴミであって欲しかった・・・」

 元少年は何の抵抗も無く静かに私の叫びを聞いていた。

「そして、そうであると思っていた・・・、だから・・、だから・・・、」

 込み上げるものを感じて、私は必死にそれをこらえた。

「でも、あなたは更生してしまった・・・」

 部屋の中は、全てが静かだった。

「そして弁護士にまで・・」

 私は小刻みに震えていた。

「わたしはあなたが許せない」

 私の口元からねっとりとしたよだれが流れ落ちた。

「私にどうしろと言うんです」

 元少年は突然激昂し、机を思いっきり叩いた。

「しょうがないじゃないか。こうなってしまったんだから」

 しょうがない?しょうがない?その言葉が私の頭の中でリフレインし、私の思考はフリーズした。しょうがない?

 元少年は黙って立ち上がると、小さなアタッシュケースを持ってきた。

「ここに一億あります」

 開かれたアタッシュケースには札束がびっしりと詰まっていた。それを元少年は私の胸に押しつけるように無理矢理持たせた。

「私だって苦しんだんだ」

 その後、最後に元少年がそう言ったことだけは覚えていた。

 私は元少年に持たされたアタッシュケースを胸に抱え、よろよろと歩いていた。どうやって事務所から出てきたのか、どうやってここまで歩いてきたのか思い出せなかった。ただ私は、気付くとアスファルトの上を彷徨うように歩いていた。

 歩きながら私は堪らえきれなくなって泣いた。惨めだった。堪らなく惨めだった。行き交う人たちが、みんな奇妙に泣いている私を振り返るのを感じた。でもそんな事はどうでもよかった。悔しかった。悔しくて悔しくて堪らなかった。元少年に対してではない。自分を取り巻くどうしようもない、どうする事も出来ない何か、巨大な抗いえない強大な何かが、悔しくて悔しくて堪らなかった。どうして私はこの私なのだろうか。どうして私はこの私という私を生きなければならないのか。

 私は河川敷の土手に座って泣いた。泣いて泣いて泣き潰した。私は私という絶望を生きなければならない。私は私という孤独を生き続けなければならない。私は泣いて泣いて泣き汚れた。

 顔を上げるとバカでかい夕日が真っ赤に燃えていた。その下でガキんちょたちがコロコロと遊んでいる。今日も私じゃない世界だけがのどかだった。

「ここは貧しい家庭の子の受け皿でもあるのです」

 いつの間にか私のすぐ横に、メガネを掛けた若い僧侶が立っていた。若いが凛とした落ち着きのある雰囲気がその僧侶にはあった。

「近隣の村々の貧しくて子どもが育てられない家庭の子が、ここで僧侶になるのです」

「そうなんですか・・」

 私は改めてまだ幼さの残る子どもの僧侶たちを見つめた。小さいながらに一生懸命修行に励んでいる姿が何ともかわいらしかった。

 その時、どこからともなく鐘の音がお寺全体に響き渡った。鐘が鳴ると、僧侶たちは托鉢にでも行くのだろうか、小さな鉢を持って、お寺の外へとぞろぞろと出かけて行った。僧侶たちはまだ雪が残るその上を裸足で平然と歩いて行く。 

「あなたはここに何かの答えを求めて来たのではないですか」

「えっ」

 若い僧侶は何とも言えない目で私を見つめる。

「はい・・」

 なぜ分かったのか驚き、戸惑いながら私は答えた。

「丁度よい方がいますよ。さあ、どうぞこちらへ」

 そう言って、また何とも言えない柔らかな笑顔を浮かべると、若い僧侶は建物の方へと歩き出した。一人行ってしまう若い僧侶の後ろを、私は慌てて追いかけた。

 若い僧侶はそのままお寺の中に入って行った。私もそれに続いて中に入った。

「わあぁ」

 中の光景を見て私は驚く。お寺の中も、見事なカラフルで精緻な装飾が施されていた。

 しかし、それに見惚れている暇も無く若い僧侶は先へ先へと容赦なく行ってしまう。私は僧侶の後を追いかけた。

 若い僧侶は落ち着き静かに歩いているのにも関わらず、なぜかなかなか追いつくことが出来なかった。

「な、なぜだ」

 私は早歩きから、もはや軽い駆け足になっていた。

 若い僧侶はまったく無駄のない動きで、そのままするすると流れるように本堂を抜け、さらに奥のそのまた奥の長い廊下の奥にある薄暗い一室に入っていった。

私も遅れてその部屋に入った。

「・・・」

そこは窓の無い真っ暗な部屋に、無数のロウソクの明かりだけがほの白く輝いていた。

「あの方です」

 よく見ると、奥に一人、僧侶らしき人が座っていた。

「こんにちは」

 美しい声が響く。

「あ、こ、こんにちは」

 それは女性だった。

「どうぞ、お座りください」

 尼僧は、私が来る事をあらかじめ知っていたかのように、目の前に置かれた座布団を手で示した。

 私が彼女の前に座ると、私を案内してくれた若い僧侶は静かに部屋から出て行った。

 尼僧は溢れるようなやさしさと穏やかな雰囲気に満ちていた。私はなぜか初対面のこの尼僧に強い、母親に守られているような、なんとも言えない安心感を感じた。

「あなたの心は怒りに満ちている」

「えっ」

 突然発したその声は落ち着き、やはり美しかった。

「かつての私もあなたと同じ目をしていたのかもしれません」

 薄闇の向こうに見える、そう言って私を見つめる尼僧の左目はつぶれていた。

「・・・」

「あなたはとても遠いところから来たのでしょう?」

「は、はい」

「不思議な縁ですね」

 そこで尼僧は静かに笑った。その場の空気と一体になっているような穏やかな笑いだった。

「前世のどこかでお会いしたのかもしれません」

「前世・・・、ですか・・・」

「ふふふ、こんな事を言っても分かりませんよね、ふふふ、ごめんなさい」

 私をやさしく見つめる尼僧の右目は、限りなく青く澄んでいた。

「私は二十年以上前、チベットからこの地に亡命して来たのです。その時、私は今のあなたと同じくらい若かった」

 尼僧は昔の自分を懐かしむように遠い目をした。

「私にも若い時があったのよ」

 尼僧は冗談ぽくそう言って笑った。まるで純真な子供のような笑いだった。

「あなたはとても辛い経験をされた」

「えっ?」

「もしかしたら私の話しがお役に立つかもしれません。私の話しを聞いて下さいますか?」

 尼僧は、なんとも言えない温かい微笑みを湛えたまま、目の前に座る私をどこまでも落ち着いた目で見つめた。

「は、はい」

 私は引き込まれるようにそう答えていた。

「チベットは今とても過酷な状況に置かれています。あなたもご存じでしょう?」

「はい、なんとなくは・・」

「今のチベットは地獄そのものです」

 尼僧は少し悲しそうに遠くを見つめた。

「ある日、中国の警察官が突然うちへやって来ました」

 尼僧はその澄んだ右目で再び私を見つめ、ゆっくりとそして穏やかに語り始めた。

「本当に突然でした。そして、警察官たちはいきなり私がテロリストだと言いだしました。最初、この人たちは一体何を言っているのだろうと、全く意味が分かりませんでした。それまでは、少し貧しかったけれど飢える事も生活に困ることもなく家族と仲良く平和に穏やかに普通に暮らしていました。もちろん警察に厄介になるようなことなど無縁でした。当然私にはなんの身に覚えも無い事です。家族もみんな茫然としていました。しかし、彼らはそんなことお構いなしでした。有無を言わさず私はたった一人、父や母が追いすがるのも無視して、そのままわけも分からず警察に連れていかれてしまいました」 

「警察に連れていかれた私は狭い無機質な部屋に一人押し込められました。そこで、見も知らない大人たちが私を取り囲みました。まだ大人になりかけの私には、抗う術も、力も無く、ただただ恐怖に震える以外何も出来ませんでした。一体自分の身に何が起こっているのか、それすら整理して考えることができませんでした」

「そんな私を取り囲む大人たちは少し笑っているように見えました。子供が持つ好奇心に残酷さを含んだような、何かこう、これからどうとでもできる小動物を前にして軽く興奮しているようなそんな笑い方です」

「私はただ恐怖に震え、そんな大人たちを怯えた目で卑屈に見上げていました。私は弱すぎて、何もできなかった。何も。私にできる一切が無力でした」

 そこで、尼僧は少し黙った。

「それはなんの躊躇も容赦も無く始まった。最初から決まっていたみたいに」

 再び話し始めた尼僧の声は少し厳しさを含んでいた。

「いえ、それは決まっていたことでした。彼らはただ暇つぶしがしたかった。それだけだった。最初から、私に何かを聞きだすなんてことは考えてもいなかった。そんなことは分っていたから。私が、テロリストなんかじゃないってことは十分すぎるほど分かっていた。彼らはただ暇を潰したかった。何か面白い遊びで」

「・・・」

「私はただそれに選ばれた。たまたま、どこかで目に付いたのでしょう。ただそれだけだった」

「・・・」

 よく見ると、薄闇の向こうの尼僧の顔にはあちこちに傷跡があった。

「彼らはとても楽しそうでした。私が泣いたり、叫んだり、呻いたり、悶えたりする度に、本当に楽しそうに笑うのです。煙草とお茶でどす黒く黄ばんだ歯と、それに反して妙に血色の良い赤に近いピンク色の歯茎をチンパンジーみたいに剥き出して、本当に楽しそうに笑うのです」

「苦しかった。本当に。苦しかった。泣いても叫んでも、何をしても何を言ってもやめてくれなかった。それは続くのです。ただ続くのです・・」

「・・・」

「それが毎日毎日、彼らの気の向く時牢から引きづり出され、彼らが疲れ、飽きるまで続くのです」

「・・・」

「彼らはもはや何かの線が切れていたのかもしれません。人としてとても大切な、人が人であるということの証のような大切な何か。でなかったら、あれほど人を残酷に傷つけることなどできなかったでしょう」

「牢屋に戻されほっとした時でさえ、また、突然引きずり出し、意味も無く殴るのです。彼らはどういう時に人が傷つくか知りつくすほど知っているのです。終わったと思ってほっとしている時にまた地獄に落とされるほど、残酷なものはありません」

「・・・」

 尼僧の顔がロウソクの明かりでゆらゆらと揺れた。多分、拷問を受ける前はとても美しかったのだろう。そんな気がした。

「まだ十代だった私は、男の人を知りませんでした」

 尼僧はまっすぐ私を見た。

「男の人が女性に対して行うこと。分かりますね」

 私はゆっくりと頷いた。

「男たちが全てに飽きた時、それは始まりました。腐ったドブ川のような匂いが、私の体を這いまわってきました。そして、あまりにおぞましい身の毛もよだつ感触の連続が、私の全身全霊を襲いました」

「あまりの、あまりの辛さに、あまりの気持ち悪さに、あまりの苦しさに私は私であることをやめようと思った。でも、どうあがいても私は私から逃れようもなく、そこでそうされているのは紛れもなく私だった・・」

「・・・」

「一通り満足すると、彼らは遊び飽きたおもちゃをほっぽらかすように私を突き放しました。そして、彼らはしばらくお茶を飲んでバカ話をして笑っていました。私は何をすることも、何も考えることもできず、ただその場にうなだれ放心していました。とにかく終わった。それだけが頭の中にありました」

「しかし、終わってなどいなかった」

「・・・」

「その時、その中の一人が、何かを思いついたように、私をにやりと見たのです」

「彼らは電磁棒を持っていた。警棒のような形でボタンを押すと強烈な電気が流れるのです。拷問する時、彼らはそれをよく使った」

「・・・」

「そして、それを手に取った」

 私は息を飲んだ。

「それを彼らは私の中に突っ込みました。私の意識が一瞬吹っ飛びました」

「内側から肉が焼けるのを感じました」

「頭の内側で強烈な電流が暴れまわっていました。私は気が狂いそうでした。いえ、もう半分狂っていたのかもしれません。叫んでも叫んでも、そこには苦しみしかなかった」

 とても辛い話をしているはずなのに、私を見つめる尼僧の目は相変わらずどこまでも穏やかに青く澄んでいた。

「私はもう子供を産むことはできません。肉体的に」

 尼僧は静かに言った。

「・・・」

「このままではあなたは殺されてしまうと、私は支援者の方の働きで亡命する事になりました。しかしそれは雪のヒマラヤを歩いて越えるという、想像を絶する過酷なものでした。十分な装備も何もありません。まして、私は子供で、傷つきボロボロだった。でもそれしか道はなかった。このままではどのみち死ぬのです」

「寒さと疲労と空腹と、正に極限の旅でした。途中何人も仲間が倒れ、死んでいきました。私たちはそんな仲間を見捨て、ただひたすら歩きました。助けている余裕など無かったのです。その人たちを助けていたら私たちが死んでしまう。歩きながら私は自分を呪いました。中には私を助けるために自分を犠牲にして死んでいった仲間もいたのです。私はその人たちも見捨てたのです」

「もう訳が分からなかった。溢れそうな怒りと憎しみ、悲しいのか怒っているのか、もう私は気が変になりそうだった。なぜ自分がこんな目にあっているのか、私はただ穏やかに平和に暮らしていただけなのに・・」

「血の涙が私の頬をつたいました。怒りに食いしばった歯の間から、血が滲み出ました」

「・・・」

「人は本当に怒り、人を憎んだ時、鬼になるのです」

「鬼?」

「私は鬼になっていた」

「怒りと憎しみが全身を覆い、私はそれそのものになっていた。私はなぜ自分が今生きているのか、生きようとしているのかさえ分かりませんでした。私を動かしていたのは怒りと憎しみだけ。復讐だけが私を動かしていた」

「私を犯した中国人たちの汚い笑みが私の意識にこびりついていました。絶対に殺す。絶対に殺す。そして自分も死のう。そう呪文のように唱えながら私はこの地まで歩いて来たのです」

「私がこのお寺に着いた時にはあまりの疲労と衰弱のため瀕死の状態でした。もう、自分で生きているのか死んでいるのかも分かりませんでした。その後一週間、私は生死の境を彷徨いました。私を支えていたのは憎しみだけでした。復讐しないうちは絶対死ねない、そう思ったのです」

「私は奇跡的に回復しました。凍傷で右足首と手足の指を何本も失いましたが、命だけは助かりました」

 尼僧の手を見ると、確かに指が何本か無くなっていた。

「しかし、体は回復しても、私の心は壊れたままでした。私はどうやって復讐しようか、朝から晩までその事だけを考えていました。あの憎い中国人たちをどうやって、傷つけ苦しませようか、毎日毎日そのことだけを考え続けました。でも、私のような小さく非力な女に何が出来るというのでしょう。そのうち私は毎日毎日死ぬ事を考えるようになっていました」

「そして、ある晩それを実行したのです。夜中にみんなが寝静まった頃、講堂の太い柱にロープを括りつけ、そこに首を掛けました。自分は死ぬのだな。何も出来ず無力に死ぬのだな。そう思って体と心が冷たくなるのを感じました。でも、同時になんとなく冷静だったのを覚えています。足を椅子から離せばそれで死ぬ。楽になれる。全てが終わる。後はそれだけ。なんだか現実感のないふわふわとした死が目の前にありました。私は虚しかった。ただ私のこれからの人生が虚しかった。そこには最早、悲しみすらもなかったのです」

「その時、私の足元に誰か立っているのが目に入りました。私はとても驚きました。その人が近づいて来ている気配さえ全く気が付かなかったのです。その人は私に何を言うでもなくただ私を見つめていました。私もただ黙ってロープに首を掛けたままその人を見下ろすように見つめていました。ただ不思議とその人の目にどこか温かいものを感じていました」

「あなたは死ぬのですか?その人は言いました。とても穏やかで落ち着いた声でした。私は死にます。そう答えました。その人は、それ以上何も言わず、ただ黙ってそんな私を見つめていました」

「ただ、その人は微笑んでいました。母親が自分の子供を見守るように温かく、どこまでも温かく微笑んでいました。そんな場面でも状況でもないのに、その人は微笑んでいました。彼の浮かべるそのなんとも言えない温かな微笑みを見ていたら、私は堪らなく泣けてきたのです。私は泣きました。私は泣いて泣いて泣きじゃくりました。私はゆっくりとロープから首を外し、何を言われたわけでもなく椅子から下りその場に崩れ落ちました。そして、私は溢れ出るがままにその人に今までの全てを話しました」

「「許すのです」ただ黙って穏やかに話を聞いていたその人は、私の話しが終わると、ただ一言、穏やかにそう言いました」

「私は最初意味が分からなかった。この人は少しバカなのかとさえ思いました。頭がおかしいのかと・・。許せるわけがない。許せるはずがない」

 尼僧は、そこで少し微笑んだ。

「慈愛」

「慈愛?」

「その人は言いました。慈愛こそが、ありとあらゆる怒り憎しみに勝つ方法なのだと」

「そして、許すことこそが、最大の復讐なのだと」

「許す・・」

「それから幾日も経ちました。その人は毎日私と向き合って話をしました。でも、私は、その人の言っている意味がやはりさっぱり分からなかった・・」

「でも、その人の話す何とも言えない慈愛に満ちた話し方、表情、全身から溢れ出す何とも言えない温かなやさしさを私は感じていた」

「・・・」

「ある日、思ったのです。多分この人は、たとえ私が理不尽にこの場で殺したとしても、私を許すのだろうなと。当たり前みたいに、許すのだろうなと。私が、突然、ものすごく卑劣で残忍な方法で、人としてとても大切な部分を滅茶苦茶に傷つけたとしても、この人は許すのだろうなと・・、当たり前みたいにそんな私を許すのだろうなと」

「・・・」

「私は大切にしていた長い髪を落とし、出家しました。女性が髪を失うということの意味は分かりますね」

 私は頷いた。

「その時、私の持つ美しさはもう、その長い髪しかありませんでした」

「・・・」

「私は生きることを決めました。いつかは死ぬその日まで・・」

 穏やかに晴れ渡ったゆるぎない目で、尼僧は私を見つめていた。

「その方に私も会えますか?」

「あなたはもうすでに会っていますよ」

「え?」

「あなたをここに連れて来た僧侶です」

「でも、あの・・」

「あの方はもう九十をとうに過ぎていますよ」

「えっ!」

 あの青年が!

「あなたの心は昔の私のよう」

 尼僧は私を改めて見つめた。まるでやさしい母親が愛おしそうに我が子を見つめるような目だった。そして尼僧は言った。

「許すのです」

「絶対に無理」

 私は叫んだ。

「そんなの絶対無理」

 私は立ち上がり、尼僧を上から睨みつけた。尼僧は私の剣幕にもただ落ち着いて、穏やかな表情のまま座り続けていた。

「私は・・、私は・・・、とてもとても大切な人を殺されたんだ」

 私は怒りに震えていた。

「とても、とても・・・、とても大切な人だったんだ」

 もう泣くまいと思っていた私の目から、つーっと涙が流れ落ちた。

「家族も無茶苦茶になって・・・」

 もう、感情が溢れて止まらなくなった。父は酒におぼれ、母は怪しげな新興宗教にのめりこんで、訳の分からない人になってしまった。

「私はとても辛かったんだ。ものすごく傷つけられたんだ。滅茶苦茶に、滅茶苦茶にされたんだ。私の大切な大切な・・・」

 尼僧はやさしく、そんな叫び狂う私の目を見つめた。その目は、どこまでも深く深く慈愛に満ちていた。

「わたし・・・」

 その目を見た瞬間、私はそれ以上何も言えなくなった。

「亡命する直前の事です」

 尼僧は再び遠くを見るように語りだした。

「私は一時的に収容所から解放され、家に帰る事が許されたのです」

 その表情はやはりとても穏やかだった。

「私は痛む全身を引きずって喜び勇んで家に帰りました。待ち焦がれた我が家。やさしい両親に祖父母、たくさんの兄弟たち、それを思うだけで、今までの全ての苦しみがなんでもないように思えました。本当に飛ぶように走って行ったのを覚えています」

 家族を思い出しているのだろう。尼僧の表情は一層温かなものになった。

「でも、家には誰もいませんでした。いつもうるさいくらいに誰かがいて何かしている家の中が引っ越しした後のように静まり返っているのです。人の気配どころか生活の気配すらが無いのです」

 そこで尼僧は再びあのやさしい目で私を見た。

「家族は全員殺されていました」

 私は立ちつくし、動く事も出来なかった。

「誰一人として生き残っていなかった」

「・・・」

「小さな弟もです」

 尼僧は目を細めた。

「とてもかわいい弟でした。まだ本当に小さかった。いつも私の後をついてきて、私の姿が見えなくなると泣くのです。本当にかわいかった」

 弟を思い浮かべる尼僧の目は、本当に愛おしそうだった。

「これはその弟の仏像です」

 尼僧は背後から小さな仏像を一つ手に取って来て、愛おしそうにやさしく撫でた。よく見ると、薄暗い尼僧の背後には何百体もの仏像が並んでいた。

「これ・・」

「そう、これは全て私が彫ったのです。全ての人々の幸せを祈って」

 そこで尼僧は、また背後から別の仏像を数体手に取った。

「ここにあるのは、私を拷問した中国人たちの仏像です」

「う、嘘だ」

「悪業を積むと、その人は不幸になってしまう。彼らはこれから大変な悪業を背負う事になる。私は彼らの幸せを祈らずにはいられない」

「う、うそだ・・・」

 しかし、尼僧の目はどこまでもどこまでも深く深く慈愛に満ち、一点の曇りもなく澄みきっていた。

「うっ・・うう・」

 私は膝から崩れ落ちた。私の心は何だかよく分からない敗北感でいっぱいだった。

「許すのです」

 うなだれる私に、尼僧がもう一度言った。

「あなたには出来る。時間は掛かるかもしれないけれど―――」

 尼僧の声はどこか遠いところから響いているようだった。

 私はふらふらと放心したまま、雄大なヒマラヤの山々をバックにもと来た道を下っていた。

「・・・」

 私の心の中は、あの時感じた訳の分からない敗北感でいっぱいだった。私は大きな、とても大きな何かに敗北していた――。。

「許すのです」

 頭の中でまた尼僧の声がした。

「許すのです」

 私は、真っ青に晴れ渡った雄大な空を見上げた。そんな私を一陣の風が吹き抜けていった。私はその時、ちっぽけなとてもちっぽけな存在だった――。

 





                          おしまい

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