アマビエ

 クイと主は夢盤に佇んでいた。円形の巨大な岩は、中心に深い穴が穿たれ彼方へ繋がっている。そこから彷徨い出た夢魂は、今宵も夢盤から溢れるようだ。一つ一つ異なる色は、闇に消えたかと思えば仄かに光り、ひたむきに明滅を繰り返す。

 主が両手で抱いた夢魂がひときわ輝き、不意に消えた。彼方へ還ったのだ。同時に、主の体が揺れて崩れ落ちる。クイが抱き止めると、主は瞳を閉じて低く呻いた。

 夢の渡りはアマビエの心身を削る。弱まる燐光、くすんだ鱗に見える傷。俊敏な尾は力なく項垂うなだれ、クイに背負われるようにして夜明けと共に住み処へ帰りつく。再び夜が巡るまで暗闇にうずくまり、深く眠る主。一夜毎に死と再生を繰り返すようだとクイは思った。

 こんな夜をもう幾夜繰り返しただろう。

 「アマビエ様」

 呼び掛けると、主はうっすらと瞳を開いた。視線の先には、零れ落ちるような夢魂。

 「直に夜が明ける。果てし無いことだ。所詮は一夜限りの夢、目覚めれば無に帰すだけ。繰り返し現れる魂の中には、さらに病を深める者もいる。歳月が流れても変わらぬ、人も、人の世も。……なぁ、クイ。我々は、何のために存在するのだろう」

 自嘲めいた呟き。クイは主を支える腕に力を込める。手伝うこともできず、傷ついていく主を見守るしかない無力さ。

 途絶えることの無い嘆きが、怒りが、哀しみが、二人を包み明滅を繰り返す。巡る夜の中で、彷徨う魂は増えるばかり。

 疲れ果てた横顔に、もうよいのですと囁けたら。このまま主と共に、元の闇に溶けることができたら、どんなに安らかだろうかと思う。

 それでも、クイの中には消えない光があった。

 クイは夢魂を見つめた。同じ過ちを繰り返す人間を、愚かだと笑うことができない。むしろ、知古のような懐かしささえ感じる。

 目覚めた時の闇。あの闇を抜ける前、もしかしたら自分は人間だったのかもしれぬとクイは思った。

 自分は、主と人間を繋ぎ止める、杭なのかもしれぬ。

 クイは主を見据えた。震える声で呟く。

 「アマビエ様。人間は……愚かな生き物です。弱く、醜い。けれど」

 主の苦しい息遣いを感じながら、クイは血を吐くような思いで叫んだ。

 「愚かだからこそ、人間は己の答を求め、悩み続けるのではないですか。弱いからこそ、強く在りたいと挑み続けるのではないですか。自らの醜さを知っているからこそ、人間は……己の醜さに向き合うからこそ、美しいのではないですか」

 主は沈黙したままだ。夜明けが近い。彼方へと消え始めた夢魂に、クイは手を伸ばす。

 「信じて下さいませ。……どうか、信じて下さいませ」

 手のひらをすり抜ける夢魂。

 闇に消えゆく魂を、輝く腕が抱きしめた。振り返れば、最後の力で夢を渡る主の姿があった。

 闇の中で、クイは祈る。

 光を。人の心に、我らの光を。



 カーテンを閉めた室内は、外の喧騒から切り離された静けさに包まれている。午睡の間に連絡帳を記入していた万裏は、異変を感じて顔をあげた。微睡む園児達の中で、むくりと上半身を起こしたのは和真だ。そのままぼんやりと佇んでいる。

 「和真くん、どうしたの」

 近づくと、和真は万裏に顔を向けた。その瞳がいつになく強い光を放つ。

 「先生、お絵かきしたい。もう眠くないから、いいでしょ」

 万裏は気圧されたように頷く。いつもはおっとりしている和真が、急き立てられるように道具箱を漁って絵を描き始めた。何事かと驚きながらも、これが回復の兆しであればと万裏は願った。

 猛威を振るった感染症は、治療法の確立と予防接種によって沈静化していった。街は平穏になり、人々は元の日常を取り戻したように見える。

 けれど、その爪痕は今も残っている。

 人々が素顔を取り戻し、母親が通常勤務に戻った後も、和真はマスクを外さなかった。他の園児から、まだマスクをつけるのかと尋ねられても頑なに外すのを拒む。

 もともと繊細な子だった。母親の変化や万裏の緊張を人一倍感じていたのだろう。黙って小さな体で背負っていたものを思うと、万裏は申し訳なさで胸が張り裂けそうだった。

 「無理に外させるのは良くないと思います。自分から外すのを待ちましょう。和真くんが安心できるよう、考えます。私に出来ることを」

 心配する母親に、万裏はそう言って頭を下げた。

 「申し訳ありませんでした……」

 何が、とは言えないまま、顔を上げられずにいると柔らかな声がした。

 「先生のせいじゃありません。私も自分のことで精一杯だった。今、この子に向き合わないといけないのでしょう」

 母親は帰り支度を終えて駆け寄る息子を、あたたかく抱きしめた。瞳を合わせ、万裏は頷く。寄り添いながら去っていく二人を見つめ、両手を握りしめた。


 和真は一心不乱に画用紙に向かっている。静寂の中で、力強くクレヨンを走らせる音が響く。

 「何を描いてるの?」

 覗きこんだ万裏は首を傾げた。長い髪に覆われた顔には、嘴。魚のような三つの尾。見たこともない生き物なのに、黄金色で描かれた瞳に微かな既視感があった。

 「夢で会ったんだ」

 和真は画用紙いっぱいに黄や橙を重ねた。カーテンの隙間から零れた光に照らされ、輝くようだ。

 「どんな夢?」

 「海で一緒に泳いだんだよ。僕、泳げないけど、アマビエとならどこまでも泳げた。きらきらした光に囲まれて、すごく楽しかった」

 「アマビエ?」

 「そうだよ」

 アマビエ。呟くと、記憶の片隅で黄金色の光が零れた。胸にあたたかなものが満ちる。

 できた、と和真は笑顔を見せた。ずっと不安気だった和真の、久しぶりに見る心からの笑顔。

 「この絵、持って帰っていい?お母さんに見せるんだ」

 万裏は頷く。この笑顔を、母親にも見てほしいと思った。

 「ね、和真くん。よかったら、もう一枚描いてくれない? 先生も、アマビエの絵欲しいな」

 「うん! ちょっとお茶飲んでくるね」

 和真は水筒に駆け寄り、マスクを外してお茶を飲んだ。急いで戻り、新たな画用紙に線を走らせる。

 万裏は息を呑んだ。

 水筒の横には、置き忘れたマスク。

 そっと和真を窺ったが、絵の世界に没頭した彼は楽しげな笑みを浮かべたままだ。やっと見ることができた素顔に、万裏は涙を堪えて微笑んだ。


 ありがとう、アマビエ。


 胸の中で呟く。

 幼子の絵の中で、アマビエは優しく微笑んでいる。



 弘化三年、肥後国。

 闇夜の波間に現れた青白い光。

 鱗に覆われた体に三本足、嘴を持つ異形の姿。


 ……我はアマビエ。病が流行れば、我の写絵を見せよ。


 人々に言い残し、海へ消えた。


 我を写せ。

 ……我を、心に刻め。

 

               <終>

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アマビエ プラナリア @planaria

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