夢魂 ~万裏~
歓声が響く保育室で、
ふぅ、と溜息をつく。心配そうに覗きこんだ園児に、慌てて笑顔を作った。いつもの「万裏先生」に安心したように去っていく。情けなさがこみ上げた。
最近、疲れがとれない。早出遅出の不規則なシフト、持ち帰りの業務も多い保育士はハードな仕事だ。加えて、感染症対策としての消毒作業。行事も中止だリモートだと、前代未聞の出来事に振り回されている。
万裏の場合、さらに頭を離れない悩みがあった。
「……ックシュ!」
小さなくしゃみに反応したのは和真だったからだ。ティッシュを取りに来た和真はマスクを外し、鼻をかんだ。万裏は顔が強張るのを感じる。
「和真くん、一緒にあそぼ」
友達に声をかけられ、嬉しそうに駆けていく和真。後ろに、置き忘れたマスク。
既視感を覚えた。前にも、こんなことがあった筈。けれど違和感よりも切迫感が強い。万裏は駆け寄り、小さな手を強く引いた。
「ダメ! マスクつけて!」
険しい声に自分でも驚く。和真は慌ててマスクを取りに戻った。自分を見上げた顔は、怯えていた。万裏は取り繕うこともできず、唇を噛み締める。
ダメだ、これでは……。
青い夜の中で目覚めた。またあの夢だ、と思う。夢の自分は気付かず、同じことを繰り返す。同じ過ちを。
あの日、お迎えに来た母親に和真は言った。
「マスク外して先生から怒られた」
万裏は怯んだ。大人しくて滅多に怒られない和真は、ずっとそれがひっかかっていたのだろう。けれど母親は、万裏を責めることも息子を慰めることもせず、淡々と答えた。
「マスクは外しちゃダメ。特に、和真はね」
和真は母親の言葉を胸に落としこむように頷く。親子は普段通りに頭を下げて去っていった。
万裏はしばらくその場に立ち尽くした。
お前はマスクを外してはいけない。静かに念押しした声が、却って胸を
自分の不安は、見抜かれている。
来年度の入園申込時期が近づくと、園には問合せの電話が増える。今年はその中に「医療従事者のこどもが通っていますか」という質問が混じった。「個人情報なので回答できない」と対応しながら、万裏は引き裂かれる思いがした。切羽詰まった声の主を、諫める資格が自分には無い。
感染症の最前線で闘う医療従事者。万裏達保育士には彼らを支える義務がある。医療従事者のこどもの保育に配慮するよう、通知も出た。
一方で、医療従事者がこどもの登園を断られたという報道もあった。許されないことだ、と呟く理性は食い破られる。近隣の保育園も感染で臨時休園になった。次は自分の番かもしれない。不安と焦燥感が渦巻く。彼らを避ければ、助かるのではないか。とうに擦り切れたお守のような考えにすがってしまう。
和真の母親は、感染症の受入病棟で勤務している。万裏は、その事実を片時も忘れることができない。
今日は和真の体温がいつもより高かった。万裏は祈るような思いで、体温測定を繰り返した。和真には何の症状も無い。頭では分かっていても、不安は消せなかった。
迎えに来た母親には、今日も疲労が滲んでいた。それでも伝えずにはいられなかった。大丈夫なのか、と。
明日は休ませます。そう言われて安堵した。激務が続くのであろう母親が、果たして休みをとれるのか危惧しながらも。
明日は和真がいない。この不安から解放される。
……自分は、酷い人間だ。醜い人間だ。
降園後の消毒をしながら、万裏は涙を堪えた。本当に泣きたいのはあの母親の筈なのに。こんな自分が「先生」と呼ばれることに吐気がした。自分の弱さが、尚更許せなかった。
浅い夢はどれも、得体の知れぬ不安を孕み万裏を惑わす。
想いが過った。
私は、既に病を患っているのではないか。
治療法も無く薬も望めぬ、取り返しのつかぬ病を。
万裏は、夜の中に堕ちていく。
どこかで水音がした。
塗り込められたような闇だった。目を開けているのか閉じているのかも定かでない。体を押し潰すような圧力を感じる。逃れようにも逃れられない。
もがきながら、光が近づいてくるのに気付いた。
淡い光に照らし出されたのは、異形の姿。白い腕には長いひれ、顔には嘴。人と動物の間の子のようだと思ったが、三つ又の尾は万裏の想像を越えていた。燐光を放ち佇む姿は厳かで、古代の獣神を連想させた。
けれど一瞬、自分とかけ離れた姿を醜悪にも感じた。輝く瞳はどこまでも透明で、清らかだった。自分の全てを見透かされたように感じた。
万裏はもがくのを止めた。それはもう触れられるほど間近に迫っていた。自分はどうなるのだろうと思ったが、同時にこれは罰なのかもしれないと思った。
白い腕が万裏を捕らえ、闇の中で閃光が走った。万裏は固く瞳を閉じた。
気付くと、柔らかな光の中にいた。身動きできぬ圧迫感から解き放たれ、万裏は深く息を吐いた。
「どうして……」
鱗に覆われた顔は仮面のようだったが、その瞳は慈しむように万裏を見ていた。白い腕がゆらゆら舞う度、万裏を包む光が増した。
万裏は堪らず顔を覆った。一度罰を受けて帳消しになるなら、その方が楽だ。無かったことにはできない。この業を背負って生きていかねばならない。そう思いながらも柔らかな光が心地よい自分がいて、それが許せなくて嗚咽をあげた。
嘴が開き何か囁いたが、その声は届かなかった。見詰める万裏の前に差し出された手が、そっと左胸に触れた。
いつもの保育室で、和真が友達と遊んでいる。
「はい、もう大丈夫ですよ。お大事に」
お医者さんごっこ。和真は必ず看護師役になった。甲斐甲斐しく患者を世話し、優しい笑顔を向ける。
「和真君、さすが。お母さんのこと、よく見てるのね」
万裏が声を掛けると得意気に笑った。
「うん! お母さん、すごいんだよ。皆を元気にしちゃうの」
「そうだね。先生も、和真君のお母さんはすごいなぁと思う」
和真が嬉しげに頷く。夜勤もこなす母親は多忙に違いなかったが、お迎えに来た時は必ず息子に笑顔を向けた。手を繋いで帰っていく二人を、万裏はずっと見守ってきた。
これからも、きっと。
万裏は差し出された手を握りしめた。嗚咽をあげる自分を、あたたかな瞳が見つめている。
逃れることはできない。けれど、逃げ出したくはないのだ。
これからも繰り返し夜の中を彷徨うだろう。弱く醜い自分のまま。
それでも、此処に辿り着けたら……。
目覚めると涙が零れていた。微かな夢の記憶を手繰り寄せると、あたたかな光が零れた。万裏は余韻に浸るように、瞳を閉じた。
夢はもう遥かに遠い。けれど眼差しを感じた。誰だったかは思い出せない。透き通るような瞳。
立ち上がってカーテンを開けると、清らかな光が満ちた。そのまま窓を開け、何物にも染まっていない空気を吸い込む。
繰り返し世界に光は満ちるのだと思った。これからも、きっと。
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