夢魂 ~表子~
どこかで、これは夢だと知っていた。当番の前日、こんな夢を見る。抑えつけていた不安が意識を食い破るのだ。
場面が変わる。目の前に患者がいた。不安気な女性は、表子と変わらない年齢に見えた。防護服を見て強張る顔。表子はいたたまれなさに苛まれる。
防護服越しにしか接してもらえない。それは、この人にとってどれだけ苦しいことだろう。
医療従事者として、自らが感染することは許されない。病院でクラスターが発生すれば、治療が滞りさらに患者を苦しめることになる。頭では分かっていても、許されるなら直接患者の手をとりたいと思う。シールド越しにではなく、直接声を掛けたいと願う。
「アッ……」
目の前の彼女が目を見開いた。表子を指す指が震えている。背中、という呟きに自分の背に手を回して息を呑んだ。指が防護服の破れ目に触れる。思わず悲鳴が漏れた。
瞬間、彼女の顔が苦痛に歪んだ。哀しみとも怒りともつかぬ感情が浮かび、その瞳から零れていった。
自らの悲鳴で表子は目を覚ました。まだ心臓の鼓動が早い。青白い薄闇で夜明け前と知る。隣では4歳の息子が安らかな寝息を立てている。蹴とばされた布団をかけてやって、表子は深い溜息をついた。
治療法の無い感染症が拡大し、表子の日常は激変した。看護師として勤務する病棟が、感染症患者の受入先となったのだ。慣れぬ防護服の着脱を練習し、交代制で患者の対応にあたる。常以上に神経の張る仕事となったが、表子が眠れぬ夜を過ごす理由は他にもある。
昨日のこと。いつものようにギリギリで保育園に駆け込んだ時、担任に声を掛けられた。
「和真くん、少し熱が高めだったんです。37.5℃は越えなかったので、ご連絡はしなかったのですが……大丈夫でしょうか」
まだ若い担任は緊張した面持ちだった。表子に駆け寄った息子はきょとんとしている。見たところ普段と変わりない。発熱した訳でもないのに、どうしろというのか。疲労と相まってこみ上げた怒りは、やるせなさに変わった。後ろめたさに目を伏せた担任の顔。
「……大事をとって、明日は休ませます」
そう言うと担任は安堵の表情を浮かべ、慌てたように付け加えた。
「季節の変わり目で、疲れが出てるのかもしれないですね。お家でゆっくりするのもいいと思います」
曖昧な返事をして頭を下げた。明日は夫の実家に預かってもらおう。うまい言い訳を考えなくては。躊躇する義母の顔が浮かび、溜息が出た。和真の手を引き足早に去る。最近は知り合いの母親に会っても、俯いて通りすぎた。和真も感じ取るものがあるのだろう、黙って表子に続く。自分の手を握りしめる息子が哀れだった。
表子の勤務先が感染症の受入病院であることを知り、態度が変わる人もいた。和真の担任もそうだ。表子に会うと、一瞬緊張が走る。その度、表子は考える。もし自分が感染したら。家族が感染したら。
病院から退院していく患者の顔には陰りがあった。彼らが戻る日常は、もう元の日常ではない。
病は平等に訪れ、感染は誰のせいでもない。それでも病によって日常が破壊されていく。感染源を伏せてはいても、残された爪痕から人は渦の中心を探し、自然と一点を指さす。何故こんなことになったのか。行き場の無い感情が、出口を求めてほとばしる。
果てし無い夜の中で、表子は溜息をつく。担任を責めることはできない。夢が甦る。破れ目に気付いた瞬間の恐怖。結局、自分も同じ穴の
何度目かの寝返りを打つ。朦朧とした意識の中で、不意に想いが過った。
私たちが向き合っているのは、本当に病なのだろうか。
体が癒えたとして、患者の苦しみは続く。
私は、何と闘っているのだろうか。
気付くと、表子は暗闇に包まれていた。水中のようだが不思議と息苦しさは無く、吐く息が泡となり揺らめいた。手足を動かそうとして、体に何か巻き付いているのに気付く。動く度、細い糸のようなものが食い込み鋭い痛みが走った。
前方に仄かな明かりが見えた。ゆっくりと近づいてきた人影には、鱗に覆われた尾。燐光に照らし出された嘴。
何故か恐怖は感じなかった。それが発する光は、幼い日に見た蛍火を思わせた。水晶のように輝く一対の瞳。そこには憔悴した己が映っていた。
闇の中で、白い腕が表子に差し出された。腕には長いひれがついていて、舞のようにひらひらと揺れた。手のひらが、そっと表子の肩を包む。触れた先から光が零れて、表子の体は柔らかな光に包まれた。
自分を縛る糸がほどけるのを感じた。強張った手足に自由が戻り、体がふわりと軽くなる。深く息を吐いた。
あぁ、こんなに安らかなのは久しぶりだ……。
ポロリと涙が零れた。白い腕が労るように表子を撫でる。堪えきれぬ想いが込み上げ、子供のような嗚咽が漏れた。
変わり果てた日常。誰もが必死で、自分の内に目を向ける余裕は無かった。目の前に苦しむ患者がいる。弱音を吐いてはいけないと思っていた。けれど、自分はずっと泣きたかったのかもしれないと表子は思った。
断絶の中で、差し出された手のあたたかさが沁みた。
慈愛に満ちた瞳。白い腕が表子の左胸に触れた。そこで初めて、胸に傷があるのに気付いた。幾重にも切り裂かれ、血が滲んで水に溶けていく。
細い指が傷をなぞると、血は消えて光が零れた。無残な傷は黄金色に輝き、勲章のようだと表子は思った。
光は永遠ではないと分かっていた。それでも表子は願った。
今を生き延びれば、その先で繋がる未来がある。この苦しみを、断絶を、無かったことにはできない。それでも、心からの微笑みを取り戻すのだ。再び、私たちは繋がるのだ。そのための寄す処を。
この世界に、光を。
目覚ましの音で目を覚ますのは久しぶりだった。いつもはその前に目覚め、まんじりともせず朝を待つ。こんなに深く眠ったのはいつぶりだろうと表子は思った。
夢の残滓が過る。そっと左胸に手を当てた。
カーテンの隙間から、朝陽が見えた。果てしない夜は続く。それでも陽は昇る。闇に包まれた世界も、いつかは光が満ちる筈だ。伸ばした腕の先で、朝陽が零れるように煌めいた。
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