アマビエ
プラナリア
クイ
目覚めた時、漆黒の闇に居た。意識の不透明な混沌の中で、自分を見つめる瞳に気付いた。
透き通った湖のようだと思った。あまりに透明で、深淵を感じさせぬ。瞳は光を宿し、闇の中で灯火のように輝いていた。
「クイ」
静かな声がして、それが自分の名だと分かった。曖昧だった自らの輪郭が形作られ、全身を痺れるような歓びが貫いた。瞳から零れ落ちる、あたたかなもの。
「……アマビエ様」
此の方が主なのだ。此の方のために生を受けた。言葉にならぬまま零れ落ちる涙を、暗闇から伸びた手が掬った。徐々に明瞭になる視界に、一対の光る瞳と
「アマビエ様」
声が虚ろに木霊していく。海底の洞窟。両手足で岩をすり抜け、長い尾を一振りして辿り着いたのは、奥まった闇。クイは、祈るように呼び掛けた。
「……クイ」
黒々とした闇から低い声がして、クイは握りしめた指をほどいた。返事も無いことが続いたから、久々に聞いた主の声が胸に沁みた。
「アマビエ様。彼方の
声が震えるのを堪える。短い沈黙の後、主は淡々と答えた。
「……いずれ、人間の力で薬ができよう。私はもう、病を治せぬ。お前も知っている筈」
クイは息を呑んだ。流行病の度に彼方に心を寄せてきた主。それが姿を見せぬ理由を、突きつけられた気がした。
主と人間との繋がりは、失われようとしている。
古の時代、人間がまだ獣に近かった頃。山奥に棲むアマビエは、人間と共に在った。母の腕の中で病に喘ぐ幼子。流行病の度、苦しむ彼らの前に姿を現し、為す術の無い病を治した。
けれど時が進むにつれ、人間は変わった。美しいさえずりを奏でる嘴、俊敏に山を駆ける三本の足。天がアマビエに与えた姿を、異形の化け物と蔑む。一方で、病を治す力を知れば捕らえて独占しようとした。
アマビエはさえずりを捨て、人語を話すようになった。けれど言葉無き彼らとは通じ合えたものが、言葉を重ねても今の彼らとは通じ合えなかった。次第にアマビエの声を聞ける者の数も減っていった。
アマビエは海底に逃れ、暗闇に生きるようになった。長い歳月の間に足は尾に変わり、体中が鱗に覆われた。病んだ体を治す力は、いつしか失われていった。
「それでも、もう一つの病がありましょう。薬では治せぬ、アマビエ様が寄り添われた病が」
沈黙を破り、クイは叫んだ。
「彼方は苦しみに満ちております。アマビエ様、彼らの声をお聞き下さいませ」
木霊する声は、返事無きまま闇に消える。クイは再び指を握りしめた。
病は、人間の本質を炙り出す。
誰もが体の変質を拒み、死を恐れる。病者は隔離されると共に、関係をも断絶されていく。
病を広げぬために。為す術無き時代もあった。しかし人々の不安が渦巻き、強大な力となって病者を襲った歴史もあった。
故郷を離れて彷徨う病者の孤独を、病者を排除せずにはいられぬ恐怖を、アマビエは見つめた。地上を追われたアマビエと人間は、夢で繋がった。深海の底に人々の夢魂が湧き、アマビエはその声なき声を聞いた。
けれど今、主は現れない。
クイは毎晩、湧き続ける夢魂を見つめた。触れようとしても、夢魂はクイの手をすり抜ける。クイは主のように夢を渡ることはできない。闇の中で仄かに光る夢魂は、朝になれば現へと還る。夜の中を彷徨う想いを、クイは両手を広げて抱き締めた。
古来より人間と病を見つめ続けた主。主はもう、人間を諦めたのかもしれぬとクイは思った。それは今初めて浮かんだ想いでは無い。暗闇の沈黙に向き合う度、クイの中に降り積もった疑念が確信に変わっただけだ。
「もう、お姿を見ることは叶わぬのですか」
自分は何故、生まれたのだろう。クイは何度となくその問いを繰り返してきた。答を知っているであろう主は、沈黙を守っている。
「……もう、私のことも必要無いのですね」
握りしめた掌を自らに向けて突き出す。その中には、冷たく光る石の刃があった。
何故、生まれたのだろう。返事無き主を想いながら石を研いだ。一人、深海の暗闇の中で。
クイの下半身は鱗に覆われているが、上半身は柔らかな人間の女体であった。主より人間に近いのだ。それはひどく哀しいことに思えた。
刃の切っ先を左胸に当てる。誰に教えられた訳でもないけれど、そこに命の源があると知っていた。
「最後に一目、お会いしとうございました」
クイは瞳を閉じた。主の優しい微笑みが浮かんだ。
そのまま両腕に力を込め、一思いに刃を撃ち込んだ。
衝撃が走った。
渦に巻き込まれたように身動きがとれぬまま、気付けば岩壁に打ち付けられていた。クイは身を起こし、弾き飛ばされた刃を見つめた。
目の前に主がいた。瞬く間に海底から海上へと駆け昇る三つ又の尾。その全力でもって、自分を止めたのだと知った。
乱れた髪に隠され、主の顔は見えない。その白い腕が伸びて、クイの涙を掬った。いつかのように。
「アマビエ様……」
優しい手を握りしめて、クイは嗚咽をあげた。
何故生まれたのかは、分からない。
それでも、この手のために生きているのだとクイは思った。
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