泡と声

真花

泡と声

 喋り過ぎた日には私が空っぽになってしまって、これ以上何かを出すと私の命が傷付きそうになるから、補充しなくちゃ、大人になっても私はこんなときおばあちゃんの家に行く。ペラペラと声を発し続ける女が嫌いだし、キンキン声を撒き散らす女も嫌。無理に話題を持ち出して話を繋ぎ続ける男も嫌いだ。客相手の仕事だから話すことは業務の根幹にあって、それだけじゃなく同僚や上司とも「コミュニケーション」を断続的にしなくてはならない。会話の量が増す毎に私が擦り減って、喋ることが呼吸のような彼らとは違うから、私は私の身を切って売るように声を出して、きっと払った分は戻っては来なくて、それはもうずいぶん前に分かっていたことだから、おばあちゃんの所に行く他に選べない。

「来たよ」

「ん」

 おばあちゃんはマリオカートをしている。私はソファに横になる。それで、何も言わない。おばあちゃんも何も訊かない。喉が渇いたから起き上がって冷蔵庫の中のグァバジュースを飲んで、またソファに転がる。おばあちゃんはクッパが好きで、必ずクッパで、前に理由を訊いたら、ファンキーじゃん、とトゲトゲの背中を指差した。今日もクッパを操縦している、いや、クッパで操縦している。携帯は見たくないから鞄の中に入れっ放しのまま、天井を見詰める。私の中の言葉が枯れている。命が脅かされるってことは、言葉は命から生まれるのだろるか。

「よし」

 おばあちゃんのガッツポーズが目の脇に映り込む。ハイスコアが出たときのポーズだ。滑らかに次のコースに進んで、体を左右に揺すりながらおばあちゃんは集中している。ここに居ると滋養するように磨耗した私が元の形に近付いてゆくのを発見したのは中学生のときだった。親と喧嘩して家を飛び出したはいいけど行く宛もなくて、チャイムを鳴らした私をおばあちゃんは何も訊かずに部屋に入れてくれて、私を放ってそのときは映画の続きを観ていた。見たこともない洋画のアクションだったけど、何となく横で途中から、最後まで観た。観終わったらおばあちゃんが、腹減っただろ? と訊いているんだか決め付けてるんだか判別しかねる調子で言って、返事を待たずにチャーハンを作ってくれた。皿の脇に紅生姜があって、そんなのは初めてで、でもおばあちゃんが美味しそうにそれを米に加えて食べるからやってみたら、初めての味、私はすっかり紅生姜派になった。それからおばあちゃんはマリオカートを始めて、私は今と同じソファの上で横になって、暫く寝た。起きたら、何となくさっきよりも大丈夫に近い気がして、おばあちゃん私帰るね、と言ったら、ん、とだけ返された。以来、おばあちゃんのところに逃げ込むことが私の生活に、紅生姜と同じように、食い込んだ。

「おばあちゃん、今日は私が作っていい?」

「お、いいね」

 画面から目を外さずにおばあちゃんが、口許を緩ませる。チャーハンを作る。野菜は米は卵は、沈黙のまま言葉ではないものを私に投げ入れるから、料理は空っぽのときに向いている。二人分に紅生姜をたっぷり添えて、おばあちゃん出来たよ、声を掛けると、もうちょい、と言って、だから私は待って、何がしかの面をクリアした画面のままおばあちゃんはテーブルに来た。食べ始めて少ししたら空腹を抜けたせいなのかここに暫く居たせいなのか、ずっと訊いてなかったことを問うてみようと、ふと急に思った。

「おばあちゃんって、若い頃何してたの?」

「バンドのヴォーカル。今もだけど」

「え? ヴォーカルなの?」

「そうだよ」

「寡黙なのに?」

「ただ喋るのと、命を捧げて歌うのは、全く別だよ」

 歌うときのために命を貯めているんだ、私の仕事生活とは真逆だ、そっちの方が素敵だ。

「それってプロとしてなの?」

「そうだよ。ヒット曲も何曲かあるよ。死んだおじいちゃんが作曲したんだよ」

「え? バンド名訊いてもいい?」

「その当時のはZarame。おじいちゃんが死んでから、他のバンドと今はやってるよ」

「知ってるそのバンド。おばあちゃんだったんだ」

「ん。昔の話だからどっちでもいいよ。今のバンドのC D貸すから聴いてみてよ」

「うん」

 どうしてだろう。おばあちゃんと話しても自分の中身が取られる感じがしない。むしろ逆に充填されてゆく。洗い物をしている間にもおばあちゃんはマリオカートに没頭して、私は、帰るね、と言って家を出た。


 おばあちゃんのヴォーカルは格好良かった。声ではなくて彼女の一部を切り出してぶつけているみたいで、ビリビリと体の芯が震える。こっちが本物、私の日々は偽物なのかな。でも生きてく必要がある。私が私の声を売ってお金を貰うと言う構図を早く抜け出さないと、私がなくなってしまう。

 おばあちゃんの家に行ったら、珍しくマリオカートを切り上げて、テーブルに座れと言う。

「どうしたの?」

「癌になってて、あと数ヶ月で死ぬ」

「え? 手術とかしないの?」

「手術はしない。治療もしない。自然に任せると決めていたから」

 おばあちゃんの生き方の問題であって、私が口を出す内容ではない。死に方を選べるなら、選ぶのは他の誰でもない本人じゃなきゃいけない。

「分かった」

 今までのように来ていいか訊くのはがっかりさせるような気がして飲み込んだ。

水底みなぞこから立ち上がった泡が水面みなもに弾けるまで」

「泡?」

「人生ってのはそんなものってこと。その間に何かを成さなくちゃならない」

 私は緊張しながら次の言葉を待つ。

「十分に成した。孫のお前が息災だし、歌は多くの人に届いた。満足ばかりの人生だ」

 よかった、半分こころの中で半分口に出す。隠した方の半分は、おばあちゃんがこれから死ぬのを受け入れられない私が腹の中に引っ張り込んだ分、渡した半分はおばあちゃんが十分だって生きたことがすんなりと受容出来た分。おばあちゃんは微笑んだらすぐに立ち上がって、テレビの前でクッパに戻った。平熱で動くおばあちゃんが無理をして格好をつけているようには思えなくて、きっと最後の日まで当たり前の自分をする、それはいつも全部自分で生きているからなのだ、若い頃にどうだったかは分からない、苦渋も辛酸もあったと思う、だけど彼女は自分の人生を手に入れている。華美だったり派手だったりする生活ではないけど、不自由もいっぱいあるだろうけど、彼女は、おばあちゃんは、自分の声で生きている。唐突に理解する、だから私はここに通うのだ。この空間自体がおばあちゃんの声で、その声には嘘がない。何一つ欺瞞がない。何も会話をしなくても私はおばあちゃんの声をずっと聞いていたんだ。そうなんだ。その場所がなくなる。その場所を生んでいるおばあちゃんが居なくなる。死ぬ。あと数ヶ月? 嫌だ。やだよ。言葉が出ない代わりに涙が出て来て、だっておばあちゃんが死んじゃうなんて嫌だ、どうして生きてくれないの? やろうと思えば出来るじゃない。背中姿のおばあちゃんはクッパを美しく運転しながら体を左右に傾けている、まるでテーブルに置いて来た悲しみなんて見なければないものだと言うように。私の底から泡のように、そんな柔らかくない、ジェットバブルのように声が立ち上がって、今にも口から出そうになるのを押し留める。この場所に居る以上は守らなくてはいけないルールとして、マリオカートの途中に声を掛けてはいけない、でも、止まらない。

「おばあちゃん!」

「ちょっと待って」

「でも」

「でもじゃない」

 鋭い声。私は怯まない、勢いよくおばあちゃんの横に行く。彼女はいつも通り真剣に、クッパを走らせている。その顔を見たら、やっぱり待とうと思う。でも数分が長い。画面を見たら自分の中にある声の質がほんの少しだけ劣化するような気がして、ずっと彼女の顔を見る。レースが終わって、彼女がコントローラーを置く。

「何?」

「私やっぱり、おばあちゃんに死んで欲しくない」

「そう」

「ここがなくなるのが嫌だって思った、けど、そうじゃない、おばあちゃんが居なくなるのが嫌」

 おばあちゃんは私の方に向き直って、私の頭を撫でる。撫でられたのは初めてかも知れない。私の涙は加速がついて、それはこころの底と直線で、泡で、繋がっていて、でも顔を下には向けたくなくて頬をどんどん流れていく。彼女はさっきよりもずっと、天使に近い顔で笑って、頭を暫く撫でたら手を引っ込めて、たま、私の名前を呼ぶ。名前を呼ばれたのも初めてかも知れない。おばあちゃんは私の名前を覚えていないのではないかと思うくらい名前で呼ばれて来なかった。おばあちゃんは私の名前を覚えていた。

「私は嬉しいよ。お前がこころからの声を出してるってことが、嬉しいよ」

「こんな、なのに」

「お前がここに来て、今日が最初だよ。ずっと待ってたよ、きっとそう言う声を出せるようになるって」

 そんな話をしに来たんじゃないよ、おばあちゃんを死なせたくないんだよ、ねえ、生き残る話をしようよ。想いが巡るのに、口からは、あ、あ、としか言えなかった。おばあちゃんが口許を引き締めて、私の眼をじっと見詰める。強い眼、不確かな言葉が全て引っ込む。

「本当の声には、本当の声で応えないと」

 私はただ頷くしか出来ない。おばあちゃんが大きく息を吸って、吐いた。外の夜は全部が真っ黒で、ただ一つ火の灯っているのはこの場所で、世界の中で二人だけが息をしている。だからここが海の底であっても一切の違和感はなくて、許された言葉は本当の声だけ、それが泡になって誰かの人生として水面みなもに弾けて終わるまで。

「死に方は決めたことだ、もう変えるつもりはない。でも、珠と会えなくなることだけは、辛い」

 涙が、さっきとは別のところに由来する涙が、全ての顔の濡れているのが塗り替えられるくらいに溢れて、おばあちゃん、って辛うじて出せた声に彼女はにっこりと笑ってから、小さな雫を目の端から落とした。彼女の声を聞いていたら彼女の意志を覆すことが不可能なことが、胸の中にドスンと結果だけを置かれるように理解されて、それ以上に翻意させようとする努力自体が本当の声に対する醜い行為のように思えて、意味がないのではなくてしてはいけないこと、違う、したくない、私はそんなことをおばあちゃんにしたくない。

「分かった」

「うん」

 多分、おばあちゃんの中に私が居ることが分かったから、納得したのだ。私の中の彼女と非対称ではなくて、同じだけ。だから、十分だと思ったのだ。彼女の声はそれを十全に伝えて、私はもっと泣いたけれど、おばあちゃんは私が泣き止むのを待ってくれて、何も言わずに、マリオカートもせずに、じっと私の前に座っていた。

 いずれ涙が小休止をしたときに、帰るね、と言って、ん、と返されて、帰った。帰路でも散々泣いて、まるで泡が通過する水は涙で出来ているんじゃないかってくらい泣いて、家でもお風呂で泣き、トイレで泣き、それでも、いや、だから疲れ切ったのか、枕を濡らす予定があっと言う間に寝た。


 おばあちゃんの家に行く頻度は変わらずで、私は仕事を続けて、おばあちゃんは多分ヴォーカルをしながらマリオカートをして、仕事での声に本当の音を入れることはやっぱり難しくてだから何かそう言う声を出せる場所を探そうと思った。でも見つからないまま、おばあちゃんに見付けた報告が出来ないまま、その日はやって来た。

 具合が悪そうに見えるのに彼女の行動は全然変わらなくて、その日もマリオカートをしていた姿を横で見ていてら、おばあちゃんが横向きにどさりと倒れた。驚くより早く、ああこの日が来たな、と思って、おばあちゃんの脇に座って呼び掛けても返事はなくて、脈は取れなくて、彼女はこのまま朽ちることを望むのだろうか、いや、死の確認はしてもいい筈だ、救急車を呼んだ。煩いサイレンが到着するまで、私はおばあちゃんの脇に座っていつもの通りにぼうっとしていた。彼女が保つ最後の空間を味わっていた。おばあちゃんの手を初めて握った。救急隊はあまりに無遠慮で、場のこととか全然分かってなくて、でも乱されてもそれはすぐに排除されるから大丈夫、息の止まったおばあちゃんをストレチャーに乗せて私は付き添って救急車に乗りながら両親に連絡をして、病院で落ち合う手筈となった。

「死亡されています。ここからの救命行為はご遺体を傷つけるだけです」

 救命救急の先生があっさり言ったことを私は、そうですか、本人の意志もそうでしたので救命行為はしなくて大丈夫です、と親族代表で応えた。霊安室に移されたおばあちゃんがそこに横たわっていても、何だか私の中のお別れは前に、たくさん泣いた日に済んでしまっていて、しめやかな両親を脇目に穏やかだった。葬式にはバンドの仲間と言う人達が来て、盛大に泣いて、財産の処理の後、おばあちゃんが住んでいた場所に私が住むことに、強引に持って行った。中はでも改装して、新居のようにした。おばあちゃんの居ないおばあちゃんの部屋は嫌だから、でもおばあちゃんの声の染み込んだ場所はきっといいから。


 おばあちゃんの跡地に越して三年が経った。私は相変わらず同じ職場に居たけど、おばあちゃんと同じように歌うことを自分の人生に組み込んでいた。いつも本当の声が出せる訳ではないけど、あの日おばあちゃんに教えて貰ったから、ときに出せたときにはそれに気付けるし、そう言う時間を増やせればいいと思う。多分それには、他のところで無駄に声を出すことを減らした方がいいのだろうけど、仕事で出す声は仕方ないと受け入れている。

 恋をして、未婚のまま妊娠した。これを機に籍を入れることを彼に迫ったが、それを拒否された。

「どうして? 籍を入れないとこの子が可愛そうだよ」

「いや、俺は君とは結婚出来ない」

「何で?」

「もう家庭があるから」

「だったらそっちと別れて来てよ。そんな軽い女じゃないから」

 彼は私の腹を何度も殴り、子供は死んだ。そのまま連絡が付かなくなった。お腹から子供が居なくなって、彼も居なくなって、仕事では声を振りまかなくてはならなくて、おばあちゃんはもう居なくて。私は海に向かった。

 夏であっても夜の海は人が殆ど居ない。私は海に一歩ずつ入ってゆく。水の感触が素肌に通って、何でこんなことやってるんだろう、私は大切と思っていた人に裏切られて、これから大切にしようとした人を殴られて失って、怒ってるんだけど、多分怒ってるんだけど、どうしてだろう、私の全部が終わっちゃったみたいに、だから私を終わらせてもいいかなって、そうする方が正しいのかなって、水のところを歩いている。歌も歌ったよ、でも届かない、三年じゃ届かないのは当たり前なのかな、分からない、やっぱり私、おばあちゃんが居るところに行きたい。あの世がそうだって言うのなら、行ってもいいでしょ? 私と会えないのが辛いって、おばあちゃん言ってたじゃない。三年も会ってないんだ。少しだけ声が進んだから、他の話はいつもの通りで何もしなくていいから、そこだけは聞いて欲しい。少し、本当の声になったんだよ。おばあちゃんにいつか並びたいな。

 膝が浸かる。水と自分しかない。やっぱりおばあちゃんが生きてたらこんなことにはならなかったのかな。悪い男に騙されるのは私の責任だけど、その後に海に来ることはなかったのかな。それとも、一人でちゃんと出来るようになってないから、ここに居るのかな。悪いのは彼じゃなくて私なのかな。

 腿を越える。終わってしまえば何もなくて、そうは思えないけどおばあちゃんにはきっと会えて、そのために進んで来た訳じゃないけど、ここまでで、いいよ、それしかない、私に選べるものは、それしかない。

 泡。

 水面に泡が来る。

 弾けて、消える。

「泡?」

水底みなぞこから立ち上がった泡が水面みなもに弾けるまで」

 おばあちゃんの声が確かに聞こえた。

 人生ってのはそんなもの、それは、人生を延命して空中まで泡を保たないし、途中で泡を消さない。おばあちゃんはだから致死的な病に命を任せた。だから、おばあちゃんは、自分で命を終わらせることを、拒否するだろう。

「私は、……私は」

 おばあちゃんと同じ哲学で生きなきゃならないことはない、そうだけど、私は私の哲学からこの死に方を選んだ訳ではない。でも、でも、おばあちゃんに誇れる生き方をしたい。このまま私が前に進んで、海底に沈んだら、水底に横たわる私の口から出た泡は誰かの人生になるだろうか。ならない。そんな泡じゃない。あの日腹の底から湧き上がった、熱い泡、人生になるのはそっちだ。諦めと逃走から腐食して生まれる方の泡じゃない。

「人生になる泡を、きっと声に繋がるそれを、出してから、死ななきゃ」

 それを最低限の矜恃にしたい。おばあちゃんに胸を張ってまた会うにはそうしたい。踵を返そうとしても抵抗があって、それでもゆっくりと岸を向く。水と私だけじゃない、他にもたくさんのものがある、目に飛び込んで来る、海に向かっていたときには意識から外れていたものだ。一歩、一歩、徐々に歩き易く、不格好なリズムで浜に上がる。もう一度海を振り返れば、海にだって多くのものがあって、私は何もないと思い込んでいた。

 悲しい。行動にずっと遅れてその感情が私に追い付いて、暗い浜辺で一人で泣いたけど、その涙は冷たくて、ひとしきりの後にはまた歩き出してびしょびしょの下半身のまま家に帰った。

 おばあちゃんが住んでいた空間に自分の空間を入れ子しているこの場所。匂いも気配も全部私のものになっている。でも、おばあちゃんじゃなくても、私はこの部屋が私の、声の詰まった場所になっているんだ、そう気付いた。シャワーを浴びて、それでも今日だけは、おばあちゃんがマリオカートをしていた場所に座る。頭の中でおばあちゃんと対話でもしてみようか、そうしたら何か変わるかも知れない、でも、やめた。もう十分に言葉は貰っている。私は自分の足で歩ける。私は自分で考えられる。大丈夫。私の泡と声を生み出すまでは、死ねない。



(了)

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泡と声 真花 @kawapsyc

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