第4話
人生で初めてのフェリーを降り、人生で初めての離島が目の前に広がる。人口が五百人にも満たないこの有人島に、彼は今もちゃんといるのだろうか。不安を抱えながらも、大丈夫だ、と僕は自身に言い聞かせる。
暑い季節と静かな気配に満ちた光景の中で、陽の光はどこまでも映えている。僕が育ってきた環境とはひとつも似ていないのに、その島を歩きながら僕は懐かしさを覚えていた。だから彼らもここを選んだのだろうか。家屋がぽつぽつと距離を置きながら点在していて、あまりひとの姿は見つけられない。ひとを頼りにして彼らを探そうとしていた僕にとって、最初から躓いてしまったような気分だ。ようやくひとを見つけ、僕は、その女性に声を掛ける。
「あっ、すみません……」
声を掛けられた女性は、突然のことに、すこし僕を警戒しているようだったので、怪しい人間だと思われないように、出来る限り柔らかい表情を心掛ける。「あの、実はですね……」と身振り手振りを交えながらしどろもどろになっていると、向こうも悪い人間ではない、と判断してくれたのか、くすり、と笑って、
「どうしましたか?」
と答えてくれた。
「実はひとを探していまして」
当然、まぁ今まで見つからなかったくらいだから、兄を探すのは簡単ではなかった。それでも元々依頼していた調査会社だけではなく、その数を増やし、僕自身も兄の通っていた大学に頻繁に足を運んで聞き込みをするなどして、すこしでも兄の情報を得ようとした。それでも成果の無いまま、一年近く経ってしまった。もう諦めの気持ちが大半を占めていた頃、友人から一本の電話があった。協力をお願いして、兄の写真を渡していた友人からだった。
離島を紹介するテレビ番組で、裕一によく似た顔が写っていた。そう聞いた僕はその番組のホームページから動画のバックナンバーを探し、確認すると、そこには間違いなく兄の姿があった。
未公開の映像を放映する回で、すこし古い映像のようだったので、実際に彼が今もこの離島にいる保証はなかったけれど、必ず兄はここにいる、と信じて。
両親には言わなかった。まずひとりで会おう、と思った。それは兄のためでもあり、僕のためでもある。
「宮里裕一さん、って、僕の兄、なんですけど……」
「裕一くんの弟さん!」
びっくりした表情を一度、浮かべた後、その女性は嬉しそうな表情をした。
「聞いてるよ。家出したから、もう会えないけど、俺には自慢の弟がいるんだ、って言ってたもん。ちょっと待っててね」
そう言うと、その女性は僕のもとを離れて、どこかへ行ってしまった。距離の広がっていくその背中を見ながら、その先には田畑が広がっている。その農地の真ん中に誰かがいる。兄ではない。目を凝らして、その正体に気付いた僕は、思わずどきりとした。
それはもちろん恋愛感情なんかではない。ただ一目見たかったひとに、ついに会えた、という気持ちは大きい。
女性に手を引かれ、僕のもとに来たのは、あの動画の頃よりも年齢を重ねた准教授だった。……いや、もう准教授ではないのだから、この言い方は正しくない。
「瑠未ちゃん。ほら、裕一くんの弟さん。ちゃんと謝るのよ。……じゃあ、後はふたりで話しなさい」
そう言ってその女性は僕たちから離れていく。瑠未さんは僕の顔を見ながら困ったような表情を浮かべている。
「あなたが裕二くん……」
「はい」
「ごめんなさい。彼は何も悪くないんです。私の勝手に付き合わされただけで……」
「大丈夫です。父や母はどう思っているか分かりませんが、僕はあんまり怒ってないんです。いや、まぁ、探すの大変だったなぁ、とかはありますけど……。実は羨ましかったりもするんです。こうやって自由に行動できる兄のことが」
「……似てますね。裕一くんは逆のことを言っていました」
「逆、ですか?」
「あなたが、羨ましい、と言っていました。『俺は生まれた時から、なんとなくこれから進んでいく方向を緩やかに決められている感覚がある。別に誰から言われたわけでもないけれど、勝手に自分で自分を縛ってしまう感覚なんだ。それは俺がすこし勉強ができたからかもしれないし、もともとの性格のせいかもしれない。俺にはこれが苦しい。弟は、こうならなければ、という感覚に縛られていなくて、自由で、それが羨ましい』と」
僕はその言葉に驚いていた。僕からすれば、兄のほうが自分勝手で、自由で、僕こそ兄のそれらが羨ましくて仕方なかった。
兄も父も、そして会ったことのない徹伯父さんも、今日初めて会った瑠未さんも、僕が彼らについて知っていることは、おそらく僕自身が思っているよりも、ずっと、すくないのだろう。分からないことばかりだ。
当然のことなのかもしれない。僕が歩んでいるのは僕の人生で、彼らの人生ではないからだ。どれだけ距離が近くなろうと、たとえ家族であっても、他人のすべてを知ることはできない。人間関係の土台はいつだって不完全で、ぐらぐら、と揺れている。
でも、それでいいのかもしれない。
分からないからこそ、分かろうとする。離れても、また繋がろうとするのは、不完全な土台の上で成り立つ僕らにしかできないことだ。
「兄と、会えますか?」
「はい。もちろん」
「あの、ちなみに不躾なことを聞いてもいいですか?」
「答えられることならば」
「ふたりは、結婚って?」
「していません。私には、する資格がないのです。だって私はまだ夫と離婚が成立していませんし、それに仮に成立していたとしても私と彼がそういう関係になることはない、と思います。彼は、私を助けてくれたに過ぎないんです」
どういうことですか。そんな質問を僕は声にする前に飲み込んだ。僕からは聞かない。
「詳しくは聞きません。僕は、たとえ兄が自由に生きたい、と思ったとしても、兄やあなた――初めて会ったのにこんなことを言うのは僭越かもしれませんが――が、他人を振り回して大丈夫なひとには思えません。だからすくなくとも僕に関しては、これ以上、深く事情は聞きません。ただ……もうひとつだけ、教えてもらえませんか?」
「なんですか?」
「今の暮らしはあなたにとって、以前よりも幸せですか?」
「それは……、多分幸せではあると思います。でも幸福や不幸、というのは一時の感情だけの話で、これまでも、そしてこれからの人生も、両方とも私の人生であることに変わりはないんだと思います。今、幸せであることと、以前の私を否定することは、繋がらないのかな、と」
似ているんだろうな、と思った。兄も同じ質問をすれば、似たような答えが返ってくるだろう。
「あなたと話していると、兄とも話したくなってきました」
その言葉に瑠未さんがにこりとほほ笑む。
そして僕は彼女に連れられて、兄のいる場所を目指す。久し振りだ。本当に。まず何から話せばいいだろうか。父と母が会いたがっている、と伝えるべきだろうか。それとも会った瞬間、デコピンでも食らわせてやるべきか。
いや……何よりも、祖父の死は伝えなければならない。怒っていない、とは言ったけれど、祖父の葬式の場に兄がいなかったことには、すこし怒っている。
まぁでも、とりあえず……、
第一声は、
「久し振り」
と言おう。
なんか声が上擦りそうな気がするけれど……。
彼らについて知っていること サトウ・レン @ryose
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