第3話
この工場はどのくらいの怨念をその場に残し、存在する意味を失ったのだろうか。父の話が、苦しんだ人々の声を想像させる。
「俺も実際にここに来るのは二度目だ」
僕を車に残してひとりで工場に入ろうとした父に、一緒に行きたい、と呼び止めたのは、祖父への心配と事の成り行きを最後まで見届けたかったのも、もちろんある。だけどもしかしたら一番強かった感情は、父と伯父の物語を、自身と兄の物語に重ねて抱いた義務感だったのかもしれない。
ふたつの物語はまったく別物だが、僕は父と伯父の関係に、近い未来やって来るかもしれない僕たちの物語を想像していたのだ。
「じいちゃんはなんで、ここに?」
「親父の犯そうとしている罪は――」小走りの僕と父の靴音が交互に、静寂の中でやけに響き、不快さとともに耳に残った。「親父の憎しみが向かう先は工場長ひとりだよ。俺たちが工場で働いていたひとたちに聞き回っていた時に、自殺の直接の原因は工場長ただひとりだと分かっている。なんで今なのかは俺にも分からない……。だけどすこしだけ想像はつく。まぁそれは今言う話じゃない。まずは親父を止めよう」
「もうすべてが遅かったとしたら……」
「だとしても俺たちがするべきことは親父に会うことだ。そのことに変わりはない。あそこだ」そう言って父が指したのは、前方のすこし離れた先にある扉だった。「昔、あそこは懲罰室って呼ばれていて、不手際のあった人間はそこに呼ばれ、長時間、叱責されたらしい。いや実際には暴力も振るわれていたわけだから、叱責、なんて軽い言葉で括るわけにはいかないな。多分あそこにいる」
ふと僕の頭に嫌な想像が浮かんだ。それはひとつの部屋に倒れる顔も知らない男の姿と、それを見下ろす祖父の姿だった。
「うぅ……」
身体がわずかに震える。
「大丈夫だよ。多分……。親父にそんな真似はできないよ。本当に復讐するつもりなら、あんな手紙は残さないさ」
元・懲罰室の前に立った僕たちがその扉を開け放つと、そこにいたのは祖父……ただひとりだけだった。
「親父、ちょっと遅くなったけど、迎えに来た。もう帰ろう」
※
父は、工場付近に置かれていた車に祖父を乗せ、僕は父と乗ってきた車を使って、僕たちは実家のある方向を目指した。ひとりになった車中で、僕は先ほどまでの光景を思い出していた。事前に知っていたのなら言ってくれればいいのに……、と父に対してもやもやとした気持ちがないわけでなかったけれど、しかし祖父の状況が分からない以上、こうするより他になかったのだろう。だけど……。
殺すつもりだった。殺せなかった……。だからここで死のうと思った。だけど死ぬこともできない。本当に哀れな、哀れな老いぼれだ。
僕たちの姿を見た途端、祖父は身体を震わせ、崩れるように膝を付いた。
俺が来ると思って、待ってたんだろ? 帰ろう。
父は身体を震わせ続ける祖父の肩を抱き、立ち上がらせた。泣いている祖父を見るのはそれが初めてだった。僕よりも体格の良い祖父の姿が今はひどく小さく見えた。祖父を車に乗せ、そしてまだ困惑している僕にひとりで運転して実家に向かって欲しいと言った後、父が耳打ちをするように続けて、
すまん……、実はもうすでに――。
と、それまで一切僕に語らなかった真相を教えてくれた。
実家に戻ると、事の経緯を何も知らないけれど、何かがあったことだけは察してくれていた母が僕たちに心配の混じったほほ笑みを向けた。
「お前も、ありがとう……」
静かだけど、祖父はしっかり通る声を僕に向けた。気付けば僕は祖父の手を握っていた。その手はまだかすかに震えを残したままだ。その手の震えには悲しみや不安だけじゃなく、安堵もあったに違いない。
僕と父は、祖父を母に任せて、僕の住むアパートへと向かうために車に乗ろうとした。父まで付いていくことに対して、母が不思議そうに首を傾げていたけれど、僕にはまだ、最初から真実を教えてくれなかった父を問い質すという仕事が残っている。
「今日は、ちょっと裕二の部屋に泊めてもらおうと思ってな」
本気か冗談か分からないような口調で、父が母に言った。
今度は運転を僕が、父には助手席に座ってもらった。
「本当に悪いとは思っているが、親父がどうしているかは、なんとなく想像できたんだけど、絶対にそう、と確信も持てなかったから、別の誰か――例えば工場長の家族とか――に復讐するとか、親父が自殺をする可能性だってあったわけだし、緊張の糸だけはお互いに緩めるわけにはいかないな、って思ってたんだ」
「その理屈は分からないわけじゃないけど……。なんか、納得できない。もう、その工場長が亡くなってる、って知ってたのなら、さぁ……」
「親父がいなくなったのを知って、まず工場長の身の安全を考えたんだ。昔、調べたあの工場長の自宅の連絡先が、今になってこんなところで役に立つとは思わなかったよ。引っ越しもしてなくて、家族の方から聞かされた。もう死んだって……。連絡したのは、もちろん工場長のためじゃなくて、親父のためだ。親父を殺人犯にしたくはなかった……、まぁ仮に生きていたとしても、親父は殺さなかった、と思う」
「そうだね……」そうであって欲しい。父の言葉に、僕は頷いた。「だから最初にアパートに来た時、事を荒立てたくない、って言ってたんだ。じいちゃんが罪を犯す可能性が低い、って思っていたから。……というか、そもそも余裕がなかったら、僕のところなんて来ないか。一刻を争うと思うなら、タクシーに乗ってひとりで行ってただろうし……」
「あ、いや……。多分、それでもお前のアパートに行っていた、と思う。ひとりであの場所にいる親父と向き合える自信がなかった。一緒に行くなら誰か、と考えた時、お前しか思い浮かばなかった」
僕の住むアパートへと向かう途中の景色は薄暗かった。夜の闇に包まれる中で、僕たちは話題を失い、それ以降、アパートに着くまで僕たちは一言もしゃべらなかった。
駐車場に車を置いて、「着いたよ」と僕が父に声を掛けると、
「なぁ裕二」と父が目を閉じて、静かに言った。「まだ言ってないことが、ひとつだけあったな」
「何だっけ?」
「なんで親父が、復讐にこの時期を選んだのか……って話だよ。あの時は答えなかったけど、どうする? あくまでも俺の想像でしかないが、聞くか? それは楽しい想像なんかじゃない」
「ううん……いいよ、言わなくて。多分僕も見当がついた」
祖父の弱々しかった手の感触を思い出す。もう一度、僕が生きた祖父の手を握ることはあるのだろうか。
「そうか……、じゃあ父さん、今日は帰るわ」
「えっ。泊まっていく、って、言ってなかった? 帰りは、どうするの?」
「足なんて電車を使えばいいさ。来る時だって、タクシー使ったんだから。足なんてそこら中に転がってるさ。それに帰ってやらないと、さ」父がそこでひとつ言葉を切った。「じいちゃんが、心配だからな。……あっ、後、もうひとつ……、もうひとつだけ言い忘れてた」
「何?」
「誕生日おめでとう。すまん……今、思い出した。用意もないうえに、とんだ誕生日にしてしまって……」
「いいよ、別に」
想い出として残りそうな、忘れられない誕生日になりそうだから。
そう言えば、呼び方が親父からじいちゃんに戻っている。その声の穏やかさを聞きながら、僕は祖父と父の間にあったわだかまりのような距離感が縮まったのだ、と思った。廃工場から実家へと向かうふたりだけの車中で、どんな会話があったんだろう。
気にならない、と言えば、それは嘘になる。
だけど僕には聞けないし、聞く気もない。
「はぁ、疲れた……」
と僕は部屋のベッドの上でわざとついた大きな独り言とともに、僕自身の兄弟の問題に対峙する覚悟を決めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます