第2話

 祖父が父の車とともにいなくなったのは、その日の早朝のことだった。父はいつもリビングに車の鍵を無造作に置いていて、他の家族が勝手に使うこともできないわけじゃない。


 父は祖父の出掛ける様子に気付いていたが、最初はホームセンターに行ったくらいにしか思っていなかったそうだ。しかし一言もなく勝手に車を使うことにめずらしさを感じた父は、祖父の部屋に入った先で、祖父の書いた〈復讐心、いまだ尽きず〉と書かれた手紙を見つけ、それが失踪に気付くきっかけだったみたいだ。


 それからタクシーを使って、まず僕のもとへと来たらしい。


 僕が通勤用に使っている車を、運転が不慣れな僕ではなく父が運転して、父の心当たりがある、という場所へと向かうことになった。目指しているのは車で一時間ほど掛かる隣県の大きな工業地帯らしく、僕は初めて訪れる場所だったが、父は慣れ親しんだ場所を行くように車を進めていく。


「俺はこの近くで育ったんだ。お前には言ったことなかった、っけ?」

「多分、初めて聞いた」


 目的地は車に乗ってすぐに教えてくれたけれど、それ以降の僕たちの間には長い沈黙があり、それが破れたのは、僕の体感で言うなら目的地まで残り半分くらいの距離になった段階だった。沈黙を破ったのは、父の言葉だった。


「ったく、あの親父は……。悪い。本来なら巻き込む気はなかったんだが、辿り着くための足がどうしても必要だったんだ」

「それはいいけど……、じいちゃんの復讐、って、どういうこと?」


 祖父は僕の兄に似て、寡黙な、そして庭いじりが好きな老人で、明るい性格ではないかもしれないが、どちらかと言えば、穏やか、と分類されるほうだ。家族である贔屓目を抜きにしても、復讐という言葉は似合わない。


 そして父は、


「俺には、すべてが俺よりも優れていた兄がいた。じいちゃん……いや……親父は、俺よりもずっとその兄を愛していた」


 という言葉とともに、徹伯父さんのことを語り始めてくれた。


「兄……。父さん、兄弟なんていたんだ」

「あぁ、お前が生まれるよりもずっと前に死んでしまった」


 父に、もう会うことのできない兄がいた、という事実は、僕に思いの外、大きな驚きをもたらした。死んだ理由も時期も何も知らないこの段階で、僕に伯父さんがいた、というだけに過ぎないにも関わらず、その事実に受けた衝撃は今も心の奥深くに沈殿している。


 祖父と父の間にあるわだかまりのような微妙な距離感には鈍感な僕でも気付いていたが、それと同じく、僕自身にも父との間に、はっきりと言葉にできないような距離感があった。兄と父の間にはそんなものが感じられず、幼い頃は、それを羨むこともあった。


 父と諍いが表立ってあったわけではなく、父との喧嘩は兄のほうが明らかに多かった。それでも底の部分で繋がるような感覚は僕のほうが間違いなく稀薄で、仮に失踪していたのが僕だったとしたら、父はあんなにも落ち込まなかったのではないだろうか。


 自分自身を形成する底の上で、父と繋がるものをかすかに見つけたような気がして、狼狽えてしまったのだ。


「それは僕が聞いてもいいの?」

「伯父のことも、親父のことも……聞いてくれるなら、話すよ。だけど耳障りな話にはなる。それでもいいのなら」


「教えて欲しい。何も分からないまま、ってのは、やっぱり気持ち悪い」


「どこから話をはじめるべきか……意外と悩むな……」と父は困ったような表情とともに小さく口の端を上げた。「長い話になるけど、すべて聞いてくれないか。もうこんな話、誰にもできないような気がするから。さっきも言ったけど、俺たちは今から行く工業地帯近くの町で育ったんだ。そこは市町村がくっついたりしたから、もう町の名前も残っていないようなド田舎でな。徹は……、あぁ兄のことを、それなりの年齢になってからは、そう呼んでいたんだ。なんか気恥ずかしくて、な。徹は年齢が俺よりもふたつ上で、俺と違って何でもできる兄だった。それは俺と相対的に見て優れている、というよりは、誰から見ても何でもできる周囲からも一目を置かれる存在だった。あのぐらい狭い地域だとあまりにも特別な雰囲気を持つ人間は極度に敬遠されるか、あるいは神童と持て囃す傾向がある。徹は後者で、物腰の柔らかな性格も相まって、家族からも周囲からも愛されていた。別に俺が嫌われていたなんてことはないが、あんなにも持て囃されている存在が近くにいると、どうしてもやさぐれた気分にはなる。何かひとつでも勝っているところがあれば、俺の青春はもっと違うものになっていたんじゃないかな、とさえ思えてきて、恨みや妬みを抱いていた時期は長かった」


「そんなひとだったんだ……」


 その言葉を聞きながら、僕が思い出すのは自分の兄のことだった。今まで繋がりの見えなかった父の過去に、僕は自身の感情を投影していく。


「学校の成績はつねに一、二を争っていて、俺はいつも平均点の周辺。部活は中学、高校と、あいつは野球部のエースで、高校三年目の夏は地区大会で準優勝。甲子園には出られなかったけど、複数のプロ野球の球団から話が来るくらいの選手だったんだ。俺はサッカー部の補欠だった。家にスカウトのひとが訪ねてきたのを偶然見掛けて、胸の内に広がった苦い感情は今も忘れられないよ。もし俺が野球部だったら、家出していただろうな。卒業したら絶対に地元を離れようと思っていた。多分、徹や、徹のことを知るすべてのひとと会いたくない、っていう気持ちがあったからだ。だけど俺が地元に残ることになり、地元にいることを望んでいた徹は、東京の有名な私立大学に入学した。野球の推薦じゃなくて、一般入試で合格しているところをぼんやり見ながら、また俺は嫉妬心を抱いていた。俺にもプライドがあったからさ。それを周りには、ばれないようにしていたんだけど、やっぱり目敏いやつはすぐ気付くもんだ。それとなく、そんなに気にし過ぎるなよ、と伝えてくれるひともいたけれど、一緒に暮らしていない他人だったらもっとすぐに諦めていたよ。でもあれだけ身近な存在になると、どうやって逸らそうとしても目に入ってしまう。徹が大学に入った時はほっとしたよ。すくなくとも目には入らなくなる。あいつのことは嫌いじゃなかった。だけど……それでも俺にはつねに疎ましい存在だったんだ」


 父は運転する手を止めることなく、手元に置いていた自分の二つ折りの財布を僕に取るように求めた。


「どうしたの。急に」

「中、開けてみてくれないか?」


 二つ折りの財布を開けると、そこには僕と兄、そして父と母、祖父、そしてもう死んでしまって久しい祖母の六人が揃った写真が入っていた。


「家族写真?」

「あぁそれもそうなんだが、その写真を抜いてみてくれないか?」


 その写真を抜いた先にあったのは、色褪せ、古びた写真だった。学生服を着た高校生くらいの男子とその顔に似た白いシャツ姿のもうすこし大人びた男性、そして明らかに若かりし頃の祖父と一目で分かる男性の三人が写っていた。


「これが父さんと徹……伯父さん?」

「そうだ」


「格好いいひとだね」


「顔の造り自体は似ていると思うんだが、顔のほうも、こっちばかりが親父の悪い部分を引き継いでしまったのかな。実際女性からもすごくモテていたはずだよ。実際にそういう話を徹としたわけじゃないんだけど……。それに、あれだけ何事にも秀でていて、性格も穏やかなら、別にずっとモテない青春を送ってきた俺と似た顔の造りをしていても、俺とは、まったく反対の結果になったとしても、おかしくはないか。まぁ、いいや……、そんなことは……。うん、それで、だな。徹は大学を卒業した後は、家電業界の誰もが知る大企業に就職したよ。そこまで来ると、さすがに今までのような強烈な嫉妬心に苦しむことはなかった。もう離れて暮らしているから、他人という気持ちが強まってたし、ちくり、と一瞬だけ針に刺された痛みがあったくらいかな。……でも」


 言い淀むように、言葉がふいに止まったので、

「どうしたの?」

 と、僕が先を促すと、

「……あぁ、いや。難しいもんだな。もうあんなに昔の話なのに、今でもあの時の感情が今のものに思えてきて、すごく怖くなるんだ。なぁお前は小学生の時、俺がお前たちふたりに『モモ』を読むように薦めたのを覚えているか?」


「そんなことあった、っけ……?」


「あぁ。お前は途中で止めて、最後まで読んで『楽しかった』って言っていた裕一はその後、色々な本を読む、本の虫になった。ふとそんな裕一の後ろに、徹の影を見たことがあったんだ。裕一は俺よりも徹に似ていて、途中で止めたお前は俺に似ている。そんなこと言われても、まぁお前は嬉しくないだろうが」意外な言葉に返事ができなかった。「だから、裕一がいなくなった時、過去から罪が追い掛けて来たのか、と思ったよ」


「罪……」


「徹は、ある日突然、その会社を辞めた。それは俺たちにとって寝耳に水だっただけで、きっと徹にとっては悩みに悩んだ挙句の決断だったはずだ。徹の言葉の端々から察するに周囲との蹴落とし合いが横行するその企業の空気が合わなかったんだろうなぁ。俺はその頃、色々なアルバイトを転々とするフリーター生活を送っていたから、大企業特有の空気なんて分かりようもないし、想像するしかできないんだけどな。とはいえ徹がはっきりとそれを口にしたわけじゃない。実際のところは徹にしか分からない話だ。その後、徹は俺たちのいる地元に戻ってきたわけだ。親父は徹に一緒に住まないか、って提案したみたいだけど、徹が断ったらしい。安いアパートにひとり住んで、近くにある工場に働き始めたのは聞いていたけれど、具体的にどんな仕事内容だったのか、そして徹の置かれていた状況までは分からなかった。それを知ったのは、だいぶ後のことだった。なぁ裕二、お前は年間の自殺者数って知ってるか。行方不明の数ほどじゃないけど、数万単位の人間が命を絶っている。それは俺にしてみれば、あまりにも多い数だ。人生でふたりくらい周囲に自殺者が出たって不思議じゃない。正直に言うとな。裕一のことがあった時、俺の頭によぎったのは、徹の一件のことだった」


 ふぅ、と父がひとつ息を吐く。その息にためらいの色が混じる。


「もういいよ。無理しなくて」


「いや、別に無理なんてしない。言えて、ほっとしてるんだ。俺の正直な気持ちを誰かに伝える機会なんて、今まで一度もなかったからな。安堵なんてしていいものではないだろうけど、な。後から知ったことなんだけど、その工場は今で言うなら、いわゆるブラック企業のような場所だったらしい。徹が死んだ後、職場の環境は関係ない、という工場側の回答に親父は納得が行かなくて、俺とふたりで職場環境を調べたことがあるんだ。日常的に暴力や罵倒が飛び交うかなり悲惨な現場だったみたいで、一度、工場長を問い詰めに行ったことがあるんだが、特に強面なその工場長は当然、認めてくれなかったよ。認めるわけ、ないよな。だってそいつが誰よりも率先して暴力に訴えていたんだから。素人でしかない、当時の俺たちにできることなんてたかがしれている。証拠が無いって言われれば、それまでだ。あの頃はパワハラなんて言葉もなかった時代だ。『もうやめよう、親父』って、俺の言葉に俯く親父と顔を覆うことも忘れて泣き続けるお袋の姿はいまだに忘れられないよ」


「無念を晴らせなかった後悔が、じいちゃんの復讐心に繋がる、っていうこと?」


「多分、そうだと思う。もちろん俺だって親父の人生のすべてを知っているわけじゃない。だけどすくなくとも俺の知っている限り、他に思い付く親父の復讐なんてものはない」


「今、目指しているのが、そこなんだよね。工場なんて普通には入れないんじゃ」


「普通の工場ならな。そこは廃工場になって久しい場所だよ。もう誰も使っていない。多分復讐、というのは――」父はそこで言葉を区切った。「もう着く。あぁ、あそこだ。あのぼろぼろの工場が目的地だ」


 父はその廃工場に近付くにつれ速度を緩やかにし、そしてその建物の前で車をとめた。


「何よりも最低なのは、その時の俺の感情だ。俺は、……最初に徹が死んだ、って聞いた時、喜んでしまったんだ。人生は公平に出来ている、ってな。本当に最低だな。軽蔑してくれていい」


 僕は何も言葉を返せなかった。それはもちろん軽蔑ではない。感情の揺れが、似ている、と思ったのだ。


 姿を消した兄に対して抱いた感情が。その後にせり上がってくる自己嫌悪まで含めて。

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