彼らについて知っていること

サトウ・レン

第1話

 それは僕たちの前から姿を消した時の兄の年齢に、僕が追いついた日だった。


「じいちゃんが、消えた」


 市内にある会社に通うため、近くのアパートで一人暮らしをする僕の部屋にインターフォンの音が響き渡った。その音に叩き起こされるような形になった僕が不満とともに玄関のドアを開けると、そこには久し振りに会う父がいて、焦りの表情を隠すこともなく祖父が失踪したことを告げた。


 僕と父以外、このことはまだ誰も知らないらしい。


 慣れ、という言葉は使いたくないが、僕が父のその言葉に取り乱すことなく冷静に受け止められたのは、兄の一件を経ていたからなのは間違いない。家族がいなくなるのは二度目だった。


 取り乱すことはなかったが、その事態に動じていなかったわけではない。


「なんで、最初が僕のところ……?」


 本当に気持ちが平静だったなら、もっと先に別のことを聞いていたはずだ。すくなくともこんな人でなしのような言葉が口から出ることはなかっただろう。ただそれがやけに気になったのも本音だった。何故、母よりも先に離れて暮らす僕に伝えることを選んだのだろうか。


「すまん……。母さんに相談すると事が大きくなりそうだからな」

「でも何か事件に巻き込まれているのかも……。一応、警察にも相談したほうが……」

「警察には相談したくない。事を荒立てたくないんだ」父は何故か僕以外に祖父の失踪を誰にも伝えたくないことを強調する。「それに、あいつの時だって、何も動いてくれなかったじゃないか。……実は、行き先には見当がついているんだ」


 父が僕の前に差し出すように机の上に置いたのは、一通の白い封筒で、そこには〈家の者へ〉という言葉が雑に書き殴られている。筆ペンで書かれたその文字を見て、僕は祖父の文字だ、とすぐに判断できなかった。僕はそれまでほとんど祖父の字を見る機会がなく、その筆跡を知らなかったのだ。筆跡に限ったことではない。家族として一緒に暮らしながら、僕は祖父のことを、あまり知らない。


「これ、じいちゃんが?」

「あぁ、じいちゃんの部屋に残されていた」

「中身は?」

「見てくれ」


 封筒の中には三つ折りの紙が入っていて、そこにはただ一文、



〈復讐心、いまだ尽きず〉



 という言葉が書かれていた。


 僕が知っているのは、僕の人生だけだ。他人の人生をすべて知ることはできないし、すべてを知ったような気になるのはあまりにも傲慢だ。だけど僕はどこかで思っていたのかもしれない。僕を含む僕たち家族はどこにでもある平凡なものでしかなく、特別なことなど何もない、と。


 かつて兄が僕に『アンナ・カレーニナ』の一節を教えてくれた。



〈幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである〉



 俺は昔からこの言葉が嫌いなんだ。俺に言わせりゃ、すべての家庭はおもむきが異なっている。幸福か不幸か、っていうのは今の感情にしか過ぎなくて、どこにも同じものなんてあってたまるか。


 そんな兄の言葉を聞いた時、僕は、ふーん、と気のない返事をすることしかできなかった。


 それを言葉にする兄の気持ちが理解できなかったのだ。

 今ならすこしだけ分かる気がする。


 平凡な家庭とは幻想である。


 どこにも存在しないものを疑うこともなく平然と受け入れていた僕の目を開かせようと、兄はそんな話を僕に聞かせたのだろう。兄はずっと疑っていたのだ。


「俺には、すべてが俺よりも優れていた兄がいた。じいちゃん……いや……親父は、俺よりもずっとその兄を愛していた」


 祖父のいるだろう場所へと向かう車中、助手席に座る僕に、父が語って聞かせてくれたのは、父の兄、つまり伯父の話だった。


 父の話を聞きながら、僕の頭にはつねに僕自身の兄のことが頭に浮かんでいた。



     ※



 兄は裕一で、僕が裕二、という名前から分かるように、僕たちは、つねに兄が先にいて、それに続くようにして僕の存在が認められる、という関係だった。考え過ぎだと思うひともいるかもしれないが、兄ありきの自分という思いが一度でも頭を掠めてからは心の奥底にこびりつき離れなくなった。


 兄が姿を消した時の、素直に悲しむことができず、そんな自分にもやもやとする感覚は今もはっきりと覚えている。


 消えた兄の件で警察に捜索願を出したその帰り道で、僕が思い出していたのは兄がまだ高校一年生で、僕が中学二年生だった頃のことだ。口数のすくなく寡黙な兄が僕の部屋に来て、なぁ裕二、これを見てくれないか、と僕にパソコンの動画を見せてくれたのだ。それは二十代なかばくらいの作業着の女性が、すこしたどたどしく喋っている印象を受ける、インタビュー動画だった。その女性の背後には農地が広がっていて、陽の光に照らされて伸び切った稲の群れと彼女の顔からとめどなく流れる汗が、僕に暑い季節を想像させた。



〈こうでなければならない、と、誰に言われたわけでもないのに、自分自身で決めているひと、って多いと思うんです。こう言う私も、かつてそうだったのですが……〉



 俺もこう言えるひとになりたいんだ、と動画が終わった後、僕にそう言った。


 僕にはそれがよく分からなかった。その映像の中の、どこかの大学の女性講師の言葉の意味ではなく、兄が僕にそれを語る理由が。


 幼い頃、小説ばかり読み、ときおり至言に満ちたような言葉をつぶやき、それがさっぱり僕には理解できなかったけれど、理科の成績だけはつねに当時の兄に勝っていた。それが兄に対して持つ、僕の数少ない優越感だった。そんな兄は高校二年になるとともに理系のクラスに進級し、これは僕以外の家族を驚かせた。


 兄はその動画に感化されたのだ、と僕はぼんやりと思うだけだった。


 そのまま兄は地元にある国立大学の農学部に入学した。あの動画のインタビューでたどたどしく話していた女性は兄がその大学に入学した時には、その大学の最年少准教授として、その容姿を含めて地元ではちょっとした話題の人物になっていた。


 確か兄の卒業直前だっただろうか、僕に『アンナ・カレーニナ』の一節を聞かせてくれたのは。


 兄の難しい読書趣味のことを僕は上っ面しか知らない。今はもう誰も使うことのなくなった兄の部屋に入って、そこにある本棚でほこりを被る本の背を眺めながら、あぁこんな本を読んでたのかぁ、とぼんやりと思うだけだった。ドストエフスキー、ヘミングウェイ、フォークナー、ジョイス、ピンチョン……名前を聞いたことのある作家もいたが、聞いたことのない作家のほうが多かった。


 ただ兄にとって、トルストイの『戦争と平和』が特別な作品だということは知っていた。それは兄の口から実際に聞いたことがあったからだ。だけど同時に、『アンナ・カレーニナ』が嫌いだとも。


 兄の一件があるまで僕も知らなかったのだが、毎年八万人を超える行方不明者が出ている日本で、若者の家出なんて特にめずらしいものではなかった。だから警察の反応はとても冷たく通り一辺倒で、父はその態度に腹を立てているみたいだったが、僕はそんなもんだろうなぁ、とおそらく警察よりも冷めた気持ちでその光景を見ていた。その時には兄が消えた、という驚きも落ち着いていた。


「事件の可能性だってあるのに……」


 家に帰った後も怒りの収まらなかった父の言葉に、心の内で、きっと大丈夫だよ、と返していた。


 その大学に同時期、兄の他にもうひとり姿を消した人物がいた。それが例の准教授だった。同じ大学で、ふたりの人間が同時に姿を消す可能性はすくない。だから父は事件の可能性を想像していたみたいだけど、僕は、ふたりは不倫の末に、どこかで一緒に暮らしているんだろうな、くらいに考えていた。


 こうであるべき、という考えをひどく嫌う兄にとって、そういったものを感じさせないあの動画の中の准教授の姿は、好み、だったのだろう。思春期のただ中で彼は、映像の先の女性に、憧れ、恋をしたのだ。


 彼は、いつだってそうだ。いつも僕の前を歩いていて、その距離はどんどん遠く離れていく。何をやっても勝てないし、勝手で、自由だ。必死に追い掛けているのに、最初から僕なんていないものと思っているのか、後ろを振り返ることすらしてくれない。


 僕が大学進学を早々に諦め、就職を選んだのは、これ以上、知識の面で兄との差をまざまざと見せつけられるのが嫌だったからなのかもしれない。無理に兄から離れたところに身を置こうとする態度は、結局何よりもその存在に縛られていることに他ならない。


 俺には、すべてが俺よりも優れていた兄がいた。


 僕が一度も会ったことのない父の兄、徹伯父さんの話を聞いた時、僕たちの関係と父たちの関係は明らかに違うけれど、そこにある感情は似ている、と思った。

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