赤い小さなタンバリン
λμ
私は恵まれていると思う
銀杏並木が色づき、歩道が黄色く染まった頃だった。
コロナ・ウィルス騒動で心身に失調をきたした私は、会社に休職願いを出し、ひとまず実家に置かせてもらっていた。同僚も、家族も、みんな私に気を使ってくれていた。恵まれていると思った。
どこで聞きつけたのか、私が地元に帰ってきていると知った古い友人たちも、そのうちにお茶でも飲もうと誘ってくれた。恵まれていると思った。
こんなに恵まれているのにいつまでもダラダラしているわけにはいかないと、年明けに復帰しようと、そのためにリハビリがてら散歩にでようと決めた。
家族には、あんまり無理しないでね、と気を使われた。恵まれている。
心配をかけたくなかったので、三十分くらいにしようと思った。家を出て、商店街を抜け、公園の近くを回って、家に戻る。だいたい二キロくらいの、ちょうど家と駅、駅から会社の往復と同じくらいの距離だ。
食べてすぐ歩くとお腹が痛くなりそうだったので、昼食をとって少ししてから家を出た。
だいぶ日が落ちるのが早くなっていた。冬の細い光ではアスファルトも温まらないのか、例年以上に出歩く人が減っているのか、肌寒かった。
それでも、元気一杯に騒ぎながら帰宅する子供たちの姿をみると、不思議と暖かな気分になれた。偶然、近くの小学校の下校時間と重なったのだった。
下校のルートが決められているのだろう。私の腰くらいの背丈しかないちびっ子たちが、体に見合わないくらい大きなランドセルに振り回されながら、ほとんど一列になってはしゃいでいた。顔の半分がマスクで覆われていたが、それでも笑っているのが分かった。
私は気分をよくして、鼻歌でも唱ってしまいそうな心持ちで、ちょっとは大人らしく見せようと背筋を伸ばしたりした。
マンションに駆け込む子どもをこっそり見送り、保育園に向かうママさんたちの自転車に苦笑し、赤信号に足を止められ、仕方なしに落ち葉をくしゃくしゃと踏んでいると、
と、耳馴染みのない音が聞こえた。金擦れと窓を叩く音が混ざり合っていたのだ。
(……? ……どこだろ?)
首を振ってみたが、側にあるのは薄っすらと埃の積もった信号と、日に焼けて退色したクリーニング店の看板くらいだった。
なおも聞こえる音に耳を澄ますと、どうやらそれは上の方で鳴っているようだった。音の方に近づきながら、なんとはなしに空を仰ぐと、長細い建物の三階の窓から幼い女の子が私を見下ろしていた。ふっくらとした頬を不満そうに膨らし、子供用の小さな赤いタンバリンで窓を叩いているのだった。
少女――いや、幼女というべきか、三歳くらいに見える女の子は、私と目が合うと、空っぽの手を左右にゆらゆらと振りながら、タンバリンで窓を叩いた。
私は子供の頃に飼っていた猫を思いだし、ついつい笑ってしまった。私が学校から帰る時間になると窓辺に出て、姿を見ると肉球で窓ガラスを押すのだった。
私が手を振り返すと、幼女は少し表情を明るくし、タンバリンで窓を叩いた。
ふいに、ガシャン! と大きな音が聞こえた。びっくりして振り向くと、自転車のペダルを踏み外したらしいお婆さんが、ぐるぐると回るペダルを煩わしそうに蹴っていた。
(……これじゃ変人か)
どんなに広い街でも家の周囲に限れば狭い世間だ。見咎められれば噂になる。まして東京から帰ってきた人間が奇行に走っているとなったら実家にも迷惑がかかる。
私は背中が丸まるのを感じながら、見えないように小さく手を振り、その場を後にした。
まだ、タンバリンが窓を叩いていた。
このご時世、あのぐらいの子どもだと、人に会えなくて寂しいのだろう。
(また明日、来てみようかな……)
ぼんやりとそう思いながら、私は家に帰った。
翌日、私は同じ時間に散歩に出た。
この手のリハビリというのは毎日つづけるのが肝要だと思いこんでいた。その日は少し曇っていたが、子供たちの姿は春の日差しのように暖かだった。商店街の店先にも人が多く出ていた。
近々、年の瀬を前に商店街の祭りがあるらしかった。
私は昨日とまったく同じコースを歩き、同じように赤信号に止められた。
耳を澄ますと、
と、タンバリンが窓を叩く音が聞こえた。
古びたクリーニング店の向こうの家の、三階の窓。幼女が赤いタンバリンで窓を叩いていた。私に気づくと、細く小さな手をゆらゆらと左右に振った。
私は近くに人が居ないことを確認してから手を振り返し、笑顔になって前を通り過ぎた。
二度あることは三度ある。
その次の日も、次の次の日も、幼女は同じ場所で同じように、赤い小さなタンバリンで窓を叩いていた。
リハビリ目的の散歩は、幼女に手を振り返すのが目的になっていた。
六日目の散歩は、いつよもり人通りが多い代わりに、下校する子供の姿がなかった。なんでだろうと不思議に思いながら公園に差し掛かったところで、
「あ、休みか」
私は誰に言うでもなく呟き、苦笑した。当然のことが当然でなくなっていた。
これはリハビリに相当かかるかもしれないと自嘲しながら、私はいつもの信号に急いだ。その日は青信号だった。タンバリンのか細い音色と、弱々しく窓を叩く音は、今日も鳴っていた。
その音を聞くと、ほっと安心する自分がいた。
私のような、恵まれているのにダラけている自分にまで手を振ってくれる幼女の姿に、元気をもらっていたのだと思う。
私は自然と笑顔になって、手を振り返した。
次の日、古い友人からメッセージをもらった。
『今日という今日は逃さん。東京マネーでコーヒーを奢ってもらう!』
いや東京の方が何かとお金がかかるんだよと、貧乏なんだよと、内心で苦笑した。けれど、その友人の暖かさに、私は恵まれていると感じた。
東京では見かけないちっぽけな喫茶店で、懐かしい話をしてひとしきり笑いあい、
「――で、いま何してんの?」
と、尋ねられた私は、
「んー……散歩。癒やしを求めて」
「癒やしって」
優しく苦笑する友人に、ようやく冗談も言えるようになったと、私は安堵した。散歩って
散歩に行くといつも窓辺にいること。私を待っているのかいつもタンバリンで窓を叩いていること。手を振ってくれ、私も振り返すこと――そうして、少しずつ元気になっているのだと話した。
少し熱っぽく話してしまったかもしれない。
幼女のふっくらとした頬、赤いタンバリンの安っぽい音、小さな手、どれを見ても可愛く思えるのだと語りかけるように話していた。
困ったように微笑しながら聞いていてくれた友人は、言葉を選んでいるのかしばし視線を外し、やがて思い切って言おうとばかりに小さく息を吸った。
「そりゃ子供って可愛いけどさ、待っててくれてるってのはどうなん?」
「――え?」
まさかそんな反応をされるとは思っておらず、私は聞き返していた。
「いや、でも、タンバリンを鳴らしてて……」
「そうだろうけどさ。でも、最初は音に気づいて見上げたわけでしょ? だったら待ってはいないじゃん?」
「まぁ……それはそうだけど……でもほら、次の日も同じとこにいて……」
「次の日も来るとは限らないでしょ。いつもそこでそうやってるんじゃないの?」
「……手を振ってくれるんですけど?」
私は少しムっとしながら答えた。
友人が慌てたように体を起こし両手を振った。
「ああ、や、ごめんごめん。別に否定しようっていうんじゃないんだけど――けどさ、なんかほら、ちょっと……」
「ちょっと、何?」
つい、声が尖ってしまった。友人は気まずそうに固い笑みを浮かべた。
「なんかちょっと、怖くない?」
「――はぁ?」
イラっときた。子供に癒やされるのは東京にいるからとでもいうのか。まだまだリハビリが必要そうだとでもいいたいのか。それとも――
私は両腕を胸の下で組んだ。
「まさか、幽霊だとか?」
「幽霊って」
友人はぎょっとして背もたれを軋ませ、右手を曖昧に振った。
「そういうわけじゃないんだけどさ……なんか、こう、変じゃない?」
「変って、何が」
「あー……ごめん。変なのは私の方だ。ごめんね。忘れて」
「忘れろって言われても」
「ああ、ほら、ここ、私が奢るからさ」
「……奢れって言ったのそっちなんですけど」
「いいじゃん。地元に帰ってきた……なんだろ、お祝い? あれだ、引きこもりからの脱出祝的なアレ」
「何それ」
気を使わせてしまったことを申し訳なく思いながら、私は友人に伝票を預けた。久しぶりに人と話した疲れもあったので、そこで別れ、しばらくしてから店を出た。
(……散歩……)
言い訳をするように口の中で呟き、私はいつものコースを歩き出した。
寒いなか、歩道に面したアパートの管理人が落ち葉を掃除していた。透明のゴミ袋がは集めた落ち葉で満杯に膨らんでいた。
その日の信号は、黄色く光っていた。
聞こえてきた音に、不覚にも私は身を硬くした。変な話をしたばかりだからだろう。幽霊のはずがない。子供のやることだ。いつぞやの私のように曜日の感覚がなく、今日も私が通りかかると思ってタンバリンを鳴らしているに違いない。
私は半ば自分に言い聞かせるようにして顔をあげた。
幼女が赤い小さなタンバリンで窓を叩きながら、手を振っていた。
私を、じっと見下ろしていた。
元気をもらえるはずが、どういう顔をすればいいのか分からなくなった。やっとの思いで手を振り返し、私は家路についた。
翌日、迷ってはいたけれど、頑張りどころだと思って散歩に出た。
下校する子供の姿に安堵して、すっかり綺麗になった歩道を靴で叩き、信号を見上げた。青信号だった。
今度は自然に笑い、手を振り返せた。
次の日も、その次の日も、そしてまた歩道が黄色く染まり始めた頃だった。
昼すぎ、自分でパスタを茹で、たまたま家にいた母に東京でこんなおしゃれな料理をするようになったのねと大仰な関心をされ、箸でもっておしゃれを台無しにしながら頬張っていたときだ。
母がつけていたテレビの、地方局の、短なニュースだった。
「――あら!? あら~……怖いわねぇ……」
「……え? 何が?」
母の声に顔をあげた私は、パスタの飲み込み方がわからなくなった。
テレビに、見慣れた信号と、退色したクリーニング店の看板と、長細い建物が写っていた。右隅に、赤い四角の縁取りで、いつもみていた幼女の顔写真が写っていた。
幼女は、幼女ではなく少女だった。
三歳くらいだと思いこんでいたが、すでに六歳だった。食事は日に一回あればいいほうで、三日も四日も食べない日があったという。
私は箸を取り落した。
考えてみれば、窓辺に三歳の子供がよじ登っているなど、おかしな話だった。一回や二回ならまだしも、三度も四度もそうしていて、親が対策しないはずがない。対策されていないとすれば、そういう親だということだ。
下から見上げていれば、誰でも顔形が膨らんで見える。冬の細い光と、明かりのついていない部屋と、厚い窓ガラスのせいで、顔つきがはっきり分からなかったのだ。
友人が言っていたように、少女は私を待っていたのではなかったのだ。
誰でもよかった。
気づいてほしかったのだ。
唯一、手に取ることができた子供用の赤いタンバリンで、人通りの多い時間を狙い、毎日のように窓を叩き続けていたのだ。
気づいた私に手を振り、助けを呼んでいたのだった。
私は年明けを待たず逃げるように社に復帰した。同僚たちは、忙しくなる時期に戻ってくれたのは嬉しいが、くれぐれも無理をしないようにと言ってくれた。
私は、恵まれていると思う。
赤い小さなタンバリン λμ @ramdomyu
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