帰ってきたら知らない美女が居たらどうする?

Cipec

知らない美女が居たら……

 防寒具を羽織らないと肌身が暖を求めるような肌寒い季節になった頃。

 空は暗闇に染まり、満月は美しく輝き、人の気配を感じなくなる時間帯。

 終電ギリギリに残業が終わり、何とか日を跨ぐ前に家に到着出来るかなとふと思った。


 足取りは鉛のように重く、ふらつく身体に鞭を打ち、帰宅する。

 その最中に呟く言葉は今の仕事場の現実を物語っていた。


「あのクソ上司、本気で辞めねぇかな……」


 勤めている仕事場は世間のブラック企業のレベルを超えていると思う。

 残業代なんて存在しない、上司は部下に仕事を丸投げして定時に帰る、後輩は役に立たない等、言い出してたらきりが無い程、沢山の愚痴がある。


 と言っても、今更解決出来る問題でもないし嘆いていても仕方ない。


 それより明日の休日を如何に充実に過ごせるかの方に思考を変えよう。久しぶりの休日をだらけて無駄にするのは勘弁だ。夜を迎えた頃に後悔の念に襲われるのは嫌だから、経験者として。


 ✴✴✴✴


 駅から歩いて数分後、自宅のアパートに到着した。このアパートは外観は古びているけど、内装はしっかりしている。加えて、家賃も安くお財布に優しい有り難い物件である。決して幽霊物件ではないぞ。


 階段を上り、自宅のドアノブに手を掛ける。すると、『ガチャ』と開いたのだ。


「あれ?朝鍵閉め忘れたっけ?」


 少し疑問に思ったが、何せもう今朝の記憶が曖昧になっているのでよく分からない状態になっている。


「まあ、この部屋に金になるような代物は無いからな……。どっちでもいいっか」


 そして、特に何も考えずに扉を開けた。


「ただいま」


「おかえりなさい。久遠さん」


 部屋の奥から表れたのは天使のような美女だった。長く整った黒髪に若干な幼さを感じるが綺麗には変わりない小顔に平均的な身長等と容姿は完璧に整っていた。


「ご飯とお風呂どちらにしますか?」


「えっと……じゃあご飯にするよ」


「分かりました。お手洗いをしてきてから来てくださいね」


「分かったよ。ついでに荷物も片付けてくるよ」


 そう言って、スーツや防寒具をハンガーに掛け、鞄の中身を整理して片付ける。


 手洗い、うがいを済ませてリビングへと向かう。近づく度に鼻を擽る美味しそうな匂いが漂ってくる。

 その匂いに導かれるようにリビングに足を踏み入れた。


「今日の夕食は久遠さんが大好きな唐揚げですよ」


 既に準備は終わっており、席に座れば食べられる状態になっていた。


 一言お礼を言って席に着いた。


「いただきます」


 まず、唐揚げを一口。すると、大量の肉汁が溢れてきた。料亭の料理と競べても遜色ない美味しさだった。


「美味しいよ」


「あ、ありがとうございます。頑張ったかいがありました……」


 感想を言われて照れたのか頬がほんのり赤く染まっていた。


「そ、それじゃあお風呂を入れてきますね。おかわりはあるので自分でお願いします」


 恥ずかしかったのか、この場から逃げるように去っていった。


 一人になっても、夕食を噛み締めていた。


 すると、突然箸を置いた。一人になって気づいたことがあった。


「あの子誰?」


 違和感が無かったから普通に接していたけどよくよく考えたら変だ。逆に違和感しかなかった。


 僕は彼女とは何も面識はない、初対面だ。

 名前も知らない。知っていることは一つもない。

 でも、彼女は違う。


 ーー僕の名前を知っている。

 ーー話したこともないから本来知るはずもない好物を知っている。

 ーー迷うことなく移動している時点で部屋の構造を理解している。


 なら、どうやって部屋に侵入したんだ?考えると直ぐに答えは浮かんできた。


「鍵を開けたのかな?僕が鍵を閉めていたならそうだけど、でもな……」


 分からない、分からないから確証がない。


 でも、この部屋で何かをしたのは分かる。

 その理由は簡単だ。何せゴミ屋敷のように汚かった部屋が誇り一つない部屋に生まれ変わっているのが何よりの証拠。


 普通なら一瞬で気づく筈なのにそんなに疲れていたのかな?初対面の美女と会話して違和感一つ覚えない時点で心身共に疲弊していたのだろう。


 でも、気づいたのなら警察に通報しなければならない。

 例え、美味しい料理を作ってくれたとしても、部屋を綺麗にしてくれたとしても、駄目なものは駄目なんだ。

 しかし、指は言うことを聞かない。幸福を一度経験してしまったからそれを失うのが怖かった。だから、躊躇してしまった。


 ふと、寒気を感じた。視線を上に上げると彼女が居た。彼女の視線は僕のスマホに向いていた。


 この時ほど恐怖を感じたことはない。全身から冷や汗が止まらない。手は震えて、歯軋りが止まらなかった。


 そして、彼女は僕の正面に立った。


「久遠さん……」


 僕は覚悟した。目を瞑り、恐怖から逃げた。

 彼女は僕の手を握り、手に持つスマホを奪った。


 恐怖が全てを支配していた。悪事がバレて怯えるモブのような動きをしていた。


 そんな僕の動きとは対照的に彼女は僕に何もして来なかった。手を出すことを想像していたがそんなことは全くなかった。むしろその行動に少し唖然としてしまったほどだ。


「全く、食事中にスマホは駄目です!私が預かりますから!」


 何故か怒られた。いや、普段なら怒られても不思議じゃないけど……でも、今は違うだろ。他にやることがあるはずだろ?


 そんな心の中のツッコミは彼女にら伝わなかったようで、頬を膨らませながら再び部屋を出て行った。


「一番風呂は頂きますから」


 と言い残して……。別に良いけどさ……。


 彼女の姿が見えなくなった頃、体の力が抜けた気がした。手は手洗いしたかのようにびしょびしょになって、冷や汗でシャツはすっかり肌に張り付いていた。


 今まで生きてきた人生で一番死の危機を感じた。残った食事も申し訳ないけど喉に通ることはなかった。食欲は失われ、一安心といった感情が身を包んでいた。先ほどの数分間の出来事で数年分老けた気がした。


 想像していない出来事の連続で疲れと疲労がピークに達していた。安心感なのか睡魔が襲いかかってきた。今寝てしまったら駄目なことは分かっていた。それでも睡魔には勝てなかった。虚ろな瞳の視線の先で彼女は笑っていた気がした。でも、そんなわけないただの勘違いだと理由を正当化した。そして意識を深く沈めた。


 ✴✴✴✴


 次に目が覚めた頃にはカーテンの隙間から朝日が覗いていた。僕はあのまま寝落ちしてしまったらしい。夕食は片付けられており、辺りを見回しても彼女の姿はなかった。


 ひとまず汗を流そうと風呂場へと向かった。シャワーで素早く汗を流し持ってきた着替えを着ると、再びリビングへと向かった。


 戻ってきても彼女の姿はなかった。昨日の出来事は夢だったのだろうか。そんな思いが脳内を交錯する。


 一応、部屋全体を見回っても彼女の姿は発見できなかった。昨日のは夢だったんだとほっと胸をなでおろした。


 そしてリビングに戻ってくると一枚の折り畳まれた紙が置かれていた。ふとそれを手に持ち開いてみると文章を書かれていた。


 そこに書かれていたのは……驚きの内容だった。


『昨日はお疲れ様でした。今日もまた行くのでよろしくお願いしますね。このことは他言無用でお願いします。もし、言ったらどうなるか分かってますよね……?』


 どうやら昨日の出来事は現実だったらしい。そして彼女は今日も来るらしい。


 僕は全て知ってしまった。その事を彼女は知っている。だからこそこの手紙があるのだろう。


 普通なら何かしらの行動が出るだろう。恐怖に怯えて暴れたり、警察に通報したりなどするはず。


 でも、僕は何もしなかった。


 僕は彼女を来ることを心待ちにしていた。


 昨日のたった数時間ではあったけど、彼女と一緒にいた時間は楽しかった。だから僕は彼女が来るのを待っている。


 それが今日でも明日でも、僕は彼女をいつまでも待っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

帰ってきたら知らない美女が居たらどうする? Cipec @Oboromaru01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ