レモンの香る頃、きみと

青桐美幸

レモンの香る頃、きみと

 隣の家の庭からレモンの香りが漂ってくると、冬の到来を実感する。

 朝家を出る時、学校から帰ってくる夕暮れ時、リビングの窓を開ける休日の昼下がり。

 ふとした瞬間にすっと鼻を通るような匂いを嗅ぎ、そろそろ寒くなってくる時期だと気づく。それを合図に、寝具を変えたりコートを出したりすることも珍しくない。毎年欠かさず実がなるおかげで、すっかり季節の変化をはかるバロメーターになってしまった。

 同じタイミングで、お隣さん同士の恒例行事が行われる。

 いわゆる『おすそ分け』というやつだ。

 インターホンが鳴り、扉を開けると隣家の家人が立っている。手には収穫した生のレモンや手作りのジャムを抱えており、ありがたく頂戴する。軽い世間話として、「急に寒くなったね」「風邪に気をつけて」なんていうありふれた会話を展開させるところまでがセットだ。

 そしてその恒例行事には、それぞれの家の子供達が駆り出されるのもお決まりのことだった。


 高い頻度でおすそ分けを渡しにくるのは、同い年の幼なじみだった。

 幼い頃ならいざ知らず、思春期に突入した中学生にとっては、玄関先でのちょっとしたやり取りでも妙な気恥ずかしさを伴う。

 女子である私でさえそう思うのだから、男子であるヤツはもっと強く感じているんじゃないかと年々邪推するようになった。

 その証拠に、いつも不機嫌そうな面持ちで目を合わさずに袋を差し出してくる。

「これ、母親が持っていけって」

「ん……、おばさんにありがとうって言っておいて」

 味も素っ気もない伝達事項を済ませ、三十秒もしないうちに我が家の玄関先から去っていく。

 お返しとして、こちらから何か持っていく時に出迎える相手がヤツだった場合も同様だ。話しかけてもぶっきらぼうに返事をするだけで、自然と用件しか伝えなくなった。

 昔はもっと屈託のない笑顔を向けてくれていた。

 学校なら、異性が近しい距離で接するとからかわれる対象になるかもしれないと危惧するのもわかる。対して、家なら誰の目もないのにどうしてそこまで頑ななのか。

 問いただしたくても、怒りを抑えたように引き結んでいる口元を直視したら、そんな度胸は表明する前に散ってしまう。

 聞きたいのに聞けない。何を考えているのかわからなくて不安が這い上がる。

 ヤツに淡々とした対応を取られるようになってから、少しずつ胸が疼くようになった。

 痛むほどじゃない。ただ、喉が詰まったようなもどかしい違和感と、心臓の奥が静かに冷えていく恐れを無視できないだけで。

 それがどうして発生するのかは、敢えて追究しようとしなかった。


      ***


 朝晩の気温が下がり、手先の冷たさを自覚するようになった頃。

 受験勉強真っ盛りの私は、帰宅早々今年の洗礼を浴びることとなった。

 ちょうど母が夕飯の用意をしている最中、今まで以上に怖い表情でヤツが軒先に現れたのだ。

 何か嫌なことでもあったんだろうか。

 対峙する時は大抵機嫌の悪そうな空気を醸し出しているけれど、今日はいつもの比じゃなかった。

 内心首を傾げつつ、無言で手渡されたレモンを受け取り相手を見返す。

 あとは、「母親から頼まれたから」とか「持っていけって言われたから」とか、耳慣れた台詞を受けてお礼を言えば終わりだ。

 こちらは既に準備ができている。にもかかわらず、ヤツの口から例年の決まり文句が出ることはなかった。

 それどころか、外れることのない予想が思わぬ形で裏切られた。

「ちょっと外出られるか」

 あまりに意外で、でもそう告げたヤツの眼差しがやけに真剣で、魅入られたように頷くことしかできなかった。


 連れ出された先は、歩いてすぐのところにある小さな公園。

 何年か前まで、泥だらけになりながら一緒に遊んだ懐かしい場所。

 ゲームでも競争でも、勝ち負けがあるものは何でも張り合った。女子相手にも容赦のないヤツの攻撃と、男子相手でも一歩も引かない私の気の強さが、いつだって勝負を拮抗させた。

 いつからだろう。負けることが多くなったのは。

 力でも速さでも敵わない。男女で決定的な差が表れることを悟ってからは、自分から仕掛けることをやめた。

 同じ土俵に立たなければ敗北することはない。どうしてもヤツより劣っていることを認めたくなかった私の、幼稚すぎる抵抗だった。

 この公園は、競い合うフィールドとして最適だった。だからこそ勝負に固執することをやめてから、次第に足を運ばなくなっていった。

 訪れたことで、楽しい出来事も苦い経験も否応なく呼び起こされていく。

 それでも追想することをやめられない。ヤツとの間で切っても切り離せない場所だから。

 しばらくの間、形容できない思いが心中を行ったり来たりしていた。


 どれぐらい思い出に耽っていただろう。

 私の感慨を吹き飛ばすほどの威力で、ヤツは唐突に爆弾を落とした。


「引っ越すことになった。父親の転勤で、中学を卒業したら別の県に行く」


 今から受験する高校変えるのメンドくせえ、とぼやきながら何でもないことのように続ける。

 ただそのぼやきは、第一声に比べたらあまりにも些細なことで、丸ごと耳を素通りしていった。

 今、何と。

 正面に佇む受験生は、何と言った?

 頭が上手く働かない。与えられた情報を正確に噛み砕けない。

 だってその事実がもたらす未来はたった一つだ。


 ──隣の家から、いなくなる。


 生まれた時から近くにいて、お互い一人っ子同士よく一緒にさせられて、時には喧嘩したり共闘したり色々ありながらも、幼なじみというカテゴリーにいた片割れが。

 もうおすそ分けを運びに顔を見せることもなく、隣家の個人部屋に明かりが点くこともなく、存在を感じることすらなくなってしまう。

 私に勝って得意げに胸を張るポーズも、負けて悔しそうに地団駄を踏む仕草も。

 己の興味を惹かれるまま強引に引っ張っていった手の温もりも、年上のいじめっ子に取り囲まれて咄嗟に庇ってくれた腕の力強さも。

 何もかもが過去のこととして風化してしまう。

 だとしても、別に困ることなんてない。今だって積極的に声をかけ合うことはなく、鉢合わせてもろくに挨拶すらしない間柄だ。

 ヤツがそうしたいならすればいい。態度が硬化した直接的な理由が気にならないと言えば嘘になるけれど、ヤツにはヤツの事情があるんだろうと慮ることぐらいできる。

 そう、理屈では納得しているはずだ。


 傍にあった気配がなくなると意識しただけで、心のどこかに空洞が生まれたような感覚に陥る。

 決して特別な関係じゃない。

 偶然家が隣だったから、共有する時間が多かっただけ。それが、住処が離れることで途絶えるだけ。

 漫然と続いていた腐れ縁という縁が、切れるだけなのに。


「……おいっ」


 慌てたような声で呼びかけられ、ヤツがどうして顔色を変えたのかわかった。

 自分が泣いていることに気づいた途端、勢いよく背を向けて目尻を拭う。

 どうして涙が出るんだろう。

 理解できない衝動が溢れ、我ながらみっともないほど動揺する。

 喪失感か、寂寥感か、それともそれ以上の何かか。

 内側に潜む感情を探りかけてやめた。突き止めたところできっと良い方向には進まない。それなら曖昧なまま蓋をしておいた方がいい。

 それなのに、

「泣くなよ……。お前に泣かれると弱いって知ってるだろ……」

 心底困り果てた様子で、後ろからぽんぽんと頭に手を置かれて余計に涙腺が緩んだ。

 強がりすら言えず、自分の気持ちの揺らぎにただただ翻弄される。

 当たり前すぎて気づかなかったこと。近くにいすぎて見えなかったこと。知らない振りをし続けていた浅はかな見栄が、ここにきて一気に剥がれ落ちた。

 気にしない風を装っていたけれど、本当は昔からずっと。

 きっと、ずっと、この想いは密やかに息づいていた。


「引っ越し先、近くに海があるみたいでさ。写真撮って、お前に送るから」

「……本当に?」

「ああ」

「綺麗に撮ってよ?」

「努力する。お前、風景とか街並みとか好きだもんな」

 行ったことがある場所でもそうでなくても、瞳に映る景色から様々なことを想像するのが楽しかった。

 隣を歩いているはずの幼なじみを放置してでも、自分の中で繰り広げられる世界に夢中だった。

 それを何度も揶揄したことのある相手だからこそ、私が一番喜ぶものを知っている。

「……写真もいいけど、たまには近況も教えてよ」

「そういうの苦手だってわかってるだろ」

「だから気が向いた時でいいから。あんたが写ってる写真でもいいよ」

「それこそひでえ冗談だ」

 やっと軽口を叩けるようになり、お互いふっと息が漏れた。

 大丈夫。大丈夫だ。

 たとえどんな立場になっても、重ねた年月の跡形は残っている。

 ヤツにとって私の存在がどうであれ、私にとってヤツが幼なじみであることに変わりはないのだ。

 それだけ明確になれば十分だった。


 安心したことで涙も止まったようだ。

 恥ずかしい姿を晒してしまったことをごまかすために、意味もなく前髪を直した。

 努めて平静に振る舞えるよう呼吸を整える。

 ようやく振り返れるようになると、しかし意思が交錯する直前で髪の毛を乱暴に掻き回された。

「ちょっと、何!?」

「いや。……帰るか」

「あ、……うん」

 何か言いかけようとしていたんじゃないのか。

 疑問を浮かべながらも、確信が持てず聞き返すことを躊躇う。

 結局その後は黙ったまま、ただし家を出た時とは全く違う雰囲気の中、ゆっくりとした足取りで並んで帰った。

 そしてそれは、ヤツが引っ越す前に二人で話した最後の日となった。


      ***


 あれから三年。

 志望していた高校に無事受かり、勉強に部活に友達づき合いにと追われているうち、気づけば三度も同じ季節を迎えていた。

 着慣れた制服もすっかりくたびれ、注意されないぎりぎりのラインでアレンジすることも片手間でできるようになっている。

 部活はそれなりに楽しかったけれど、勉強は適度に力を抜いてこなしていた。やるべきことさえやっていれば叱られない。代わりに、中学ではいなかったタイプの友達と出会い、趣味や遊びの幅が広がり充実した生活を送っていた。

 そうも言っていられなくなったのは、いよいよ受験勉強の追い込み時期が見えてきたからだ。

 自分を含め、仲の良いグループの友達は皆一般入試を目指している。さすがに遊んでばかりもいられないので、息抜きとして休み時間にだべる程度に留めていた。

 塾には通っていないため、授業が終わると真っ直ぐ自宅に戻って机にかじりつく毎日。

 時間を決めて、授業の予習復習をしたり赤本を解いたり、必要な科目に取りかかる。

 そうして集中力が切れた頃、リフレッシュがてらお気に入りの風景を眺めることが日課になっていた。顔を上げるとすぐ目に入るところに置いてある、とっておきの代物だ。

 備え付けのラックの上には、何枚かの写真を飾ったコルクボードを立てかけていた。

 光が反射してきらめく海面。寄せては返す音が聞こえてきそうな波打ち際。淡い薄紅色の貝殻が覗く砂浜。

 送られてきたそれらを見るたびに、気持ちが凪いで元気づけられる。緊張感が解れ、実際に写っている情景をそらで描いては行ってみたい欲が湧き起こる。

 一方で、溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すことも忘れない。

 次に会うことがあったら、真っ先にぶつけようと思っていることだ。

「……今何してるかぐらい教えなさいよ、バカ」


 ヤツが引っ越してからしばらくして、約束通り海の写真が郵送されてきた。

 とはいえ、比較的マメだったのは最初の一年ぐらいで、以降ヤツの名前が書かれた便りが届いたことはほとんどない。

 ヤツからの贈り物が途切れた当初は、何かあったのかとか飽きてしまったのかとか焦燥感に駆られ、頻繁にポストをチェックしていた。

 しばらくして、繰り返し空っぽの箱を確認しているうちに嫌気が差し、淡い期待を封印した。

 待っていても失望が増して惨めになるだけだ。一度でも宣言したことを守ってくれただけマシだと自分に言い聞かせた。

 ところが、思い出したように私宛ての封筒が入っていたりすると、即座に理性は乱れてしまう。

 大慌てで家に入って階段を駆け上がり、自室で動悸を抑えながら封を開けている私は相当滑稽に違いない。その時ばかりは諦観をかなぐり捨てて、届けられた中身に全ての意識を傾ける。

 出てくる写真はやっぱり海辺や街の通りが多かった。それ自体はもちろん嬉しい。でも、徹底してヤツの情報が読み取れるパーツがないことに不満も覚える。

 本人にそんな意図はないだろうけれど、どうにも弄ばれているようで悔しかった。

 たかが写真に振り回されている自分もどうかと思う。かと言って、何をどう区切りをつければいいのかもわからず、結局年齢だけ増えてしまった。

 複雑な気分が晴れないまま四季が巡り、高校卒業も間近に迫っている。

 ヤツも高三だから勉強が忙しいのか、ここ数ヶ月ポストはうんともすんとも言わない。自分自身の感情も行きどころを失って渦を巻いている。

 この先も宙ぶらりんな状態で、もらった写真を片手に延々と思いを馳せることになるのかもしれない……。


 はぁ、と重く息をついたところでインターホンが鳴った。

 こんな日に限って両親とも遅くなるとのことで、私以外出られる人間がいない。

 仕方なく部屋を出て、画面越しに訪問者を確かめた。

 どうやら宅配業者みたいで、急ぎ足で玄関に向かい荷物を受け取る。

 段ボール箱を抱え上げ、リビングに下ろして送り状の字を追った。


 ──ヤツの名前だ。


 はっきり認識すると、力任せにガムテープを剥がして上部を広げた。

 刹那。

 視界一面が黄色く埋め尽くされ、瑞々しい香りが辺りに充満する。

 こんなにたくさんのレモンを、どこで。

 引っ越してしまってから初めて送られてきたものだ。まさか新しい家の庭でも育てているんだろうか。

 久しぶりに鼻の奥がつんとする刺激を得て、それまでの記憶がまざまざと蘇ってきた。

 あの日の約束。最後にかわした言葉。幼なじみとしての、細い細い繋がり。

 まだその縁は絶たれていないと信じていいんだろうか。ほんの少しは、思い出してくれているんだろうか。

 しまい込んだはずの期待がふくらみそうになる。

 二人で過ごした時間も、芽吹いた想いも、どうしたって消せやしないのだ。

 それがヤツだから。

 ずっと隣にいた幼なじみであり、それ以上の存在でもあったヤツだから。


 蓋をしたはずの奥底から滲み出てくる熱もそこそこに、現実的な問題に立ち返った。

 大量のレモンをどこかに保管しなければならない。

 具体的な場所は後で母に相談するとして、とりあえずキッチンに運ぼうと腰を浮かす。

 再び段ボールを持ち上げようとしたところで、中に挟まれていた手紙を見つけた。ご丁寧に、汚れないようビニールの袋に入れられている。

 何が入っているか予測できない。逸る気とは裏腹に動作は緩慢だ。

 レモンの匂いがついた手でそれを取り出し、恐る恐る開けてみる。

 入っていたのは無地の紙が一枚。

 そこには、癖のある字でたった一言書かれていた。


『春には戻る』


 ああ、と天を仰ぐ。

 絶対大学に受からなければいけない理由が、できてしまった。

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