第32話 雨季
看護師が、忙しなく。右へ行ったり。左へ行ったり。
どのくらい時間が経っただろう。どれくらい、ここで待っているんだろう。
俺は、ただ見舞いに来ただけだった。春子に会いに来ただけだった。やっと、ちゃんと向き合えるはずだった。大事な者に会えるはずだった。
背もたれの無い三人掛けのソファ。右側には花束と福田のコート。その隣で、司はただずっと項垂れている。ただずっと、萎れた花のように背を曲げている。
少しして、向こうに白衣の裾が見えた。その白衣は、ゆっくりと司の方にやってくると、何故かは知らないが、司の正面で静止した。
内線電話でも聞いているのだろうか。けど、つま先は自分の方を向いている。別に何をしていても構わないけど。何をしたところで、お飾りの耳には聞こえないから。
白衣は、立ったまましばらく動かなかった。そしたら今度は、別の白衣がやってきて、司の肩を掴み、身体を持ち上げた。漸く、立ったままの白衣が福田であること。そしてその隣で、司の肩を壁に押し付けているのが、あの女医だと気付いた。
女医は何か叫んでいるようだ。でも何も聞こえない。時々唾が飛んでくるが、拭き取る気にもならない。福田が目尻を下げて女医を
そうだ、福田にコートを返さなきゃ。
司はコートを福田に差し出すが、女医が腕でそれを振り飛ばす。
なんでだよ。借りた物を、ちゃんと返しに来たのに。
約束はしてないけど、ちゃんと返しに来たじゃないか。
やく、そく……
目の前の医者たちは、今にも殴り合いの喧嘩をしそうなほどヒートアップしている。様子がおかしいことに気付いた看護師の何人かが、二人を止めに来た。別室に連行される二人を余所に、司はふらふらと立ち上がり、その場を立ち去る。
誰かが腕を掴んできたが、静止せず力任せに振り切った。搬送車専用の処置室の扉が並んでいる。向かい合うように、同乗者達の待合室があった。
その間を抜けて、司は薄暗い廊下の奥へと進んで行く。二回曲がった先で階段を見つけると、司はそのまま階段を上って行った。
『おい、死神』
呼びかけるも、死神は現れない。
そんなもんかよと、自虐するように花で笑う。
もう、大事なモノは無くなった。
健全なこの足は、
何段も、何段も。何も考えずただ階段を上がっていく。
気付けば、足元に見慣れた数字が表れた。
エレベーターの中で、何度この数字を押した事か。
見るからに重厚な鉄製の扉を押し開くと。床を削る細かい振動が足を伝って腹を揺らす。
扉を抜けた先。目の前には、春子の病室があった。
ロウメンと同じドアノブを握り、引き戸を開け、中を覗く。
掛け布団が捲られ、抜け殻になったままベット。夕焼けをバックに靡く、レースのカーテン。小さなタンスに置いてあった花瓶は割れており、埃一つない床一面に欠片が散らばっている。
入っていたはずの花は何処か。
探してみると、タンスと床の隙間に入り込んでいた。
手を入れて取り出すと、自分では姿勢を保てないほど枯れており、すこし触れるだけで、花弁がひらひらと欠けていく。
花を持ったまま、司は部屋を後にする。ヘンゼルとグレーテルのように、司の歩いた道に、色の落ちた花弁が落ちていった。
階段へ戻り、また足に振動を感じながら扉を閉める。そして思いでを追いかけるように、また階段の方に身体を向ける。すると其処には、いつものように、胡坐をかいてフワフワと浮かぶ、真白の髪の死神がいた。
「あぁ~あ。せっかく寿命伸ばしたのに、司クンの奥さん死んじゃったねぇ~」
司にだけ聞こえる、司以外に聞こえない声で死神は言う。
好きでもなかったけれど、存在は知っていたテレビ番組が終わった時のような。興味も思い入れもない、溜息のように漏れる声。
返答しようという気も、そんな選択肢も湧かない司は、死神を無視して、再び階段を上り始める。
「せっっかく司クンが頑張って犠牲を払ったのに死んじゃうなんてねぇえ。僕もやった意味無いじゃんかぁ」
欠けた左手を見ながら、司は階段を上がり続ける。
「まぁ、確かに漫画みたいに『寿命げっとだぜ!』みたいな感覚はないけどさー、それにしたってもったいないよねぇ」
『なんで……』
「ん? どったの司クン」
『なんで、春子は死んだ』
「そんなの、死ぬ高さから飛び降りたからに決まってんじゃん」
階段の踊場で、死神がいつもの調子で言う。司は、獣のように息を荒げると、殺すように死神の胸ぐらを掴んだ。
『俺はお前の望む代価を払った。なのに、お前は命を延ばせてないじゃないか!』
「なにを言ってんのさぁ~。僕は死神だけど嘘つきじゃないよ? 契約通り、僕は君から奪って、君の奥さんに寿命を与えたよ?」
『なら、なんで春子は死んだ!?』
「だから、それはあの人が死ぬ高さから落ちたからで……」
にやけ面だった死神の表情が、極僅かな神妙になるが、またすぐに元のにやけ顔に戻る。一瞬の内に何かに気付いた様子の死神は、血管を浮き立たせて胸ぐらを掴む司の手を振り払うと、司を見下ろす位置まで浮かび上がると、案内人のように司の先の階段の進んで行く。
「司クンさ、もしかして勘違いしてる?」
浮き進む死神。司は今にも喰い殺さんとする眼を向け、その後を追う。
「僕と君の契約は、確かに寿命の取引だ。君が失って、彼女が得る。それが絶対だ」
『そんなこと分かってる。得体のしれないお前の条件に乗って、俺は指も耳も声も失った!』
「そうだね。でも、司クン。君はさ、僕が何を与えるかをちゃんと理解してる?」
焦らすような口ぶりに、司は怒りを抑えきれず、再び胸ぐらを掴まんと飛びつく。死神は曲芸のようにふわりと華麗に避けると、変わらぬ表情で説明を続けた。
「僕が与えるのは寿命。でも、それはあくまで"確実に生きられるという保証"を与えてるみたいなもんだよ」
『……何が言いたい。どういう意味だ!!』
「もー、あんまり声荒げないでよぉ~。司クンは知らないと思うけど、これ普通に話すよりうるさいんだよー?」
再び、重厚な鉄扉が現れる。足元の数字が一つ大きくなる。
「つまりはね、"終わりの時間を先延ばす"ではないってこと」
『終わりを、先延ばす……?』
「事故、事件、病などなど。自身の意志以外の不都合によって死ぬ可能性を完全に失くす。これが君と僕との契約。普通に暮らすのであれば、絶対に死なない運命を保証する」
右手の人差し指を立て、司との契約を説明する死神。
また別の踊場に到着する。其処で死神は、左手の薬指を立てた。
「この契約の本質は、終わりを遠ざけるではなく、生きるを延長させること。結果的に終わりは遠のくけど、僕が司るのはそこじゃない。終わりは、常に当人たちが所持している」
『それって……』
「終わりを何時にするか。その決定権を有するのは、僕でも司クンでもなく本人だけ。あの終わりは、彼女自身が選んだものだ」
これまで数字だった足元の案内が、アルファベットに変わる。
腰に手を当てて、片足重心で立っているような形のアルファベットは、何故だか空を連想させた。
「せっかく確定で生きられるというのに、君の奥さんは、自分の手で終わりを早めたんだよ」
目の前には、あの重厚な鉄扉ではなく、蝶番の錆びついた、モールガラスで丸ノブの扉。
────ガラスの向こうは既に、藍で黒ずんでいた。
病院の屋上というのは、患者の自殺予防の為、通常は施錠され、開かないようになっているらしい。
「でも、今回は僕が特別に開けてあげた。僕も神様の端くれ。全能ではないけど、万能くらいではあるんだよ?」
丸ノブを右手で掴み、一歩踏み込んで扉を開ける。外は横風が激しく吹いており、コートの裾が打ち上げられた魚のように暴れる。
「いやー、やっぱり日が落ちると一気に冷えるねぇ。もう深夜みたいじゃん」
ゴミ箱の一つもないだだっ広い屋上で、死神は渦を巻くように飛び回る。まだ位置の浅い月が、夕焼けと同じ色に輝いていた。
吐く息が白く色づき、吸う空気が気管を凍らす。無意識に行う呼吸を、冬はどうしても意識させる。生きている証拠の熱を、意識の中に流し込んでくる。
「そういえば、もうすぐはろうぃん? なんでしょ? ウサギがお饅頭咥えて夜の街を走り回るっていう……」
ハロウィンは来ない。ウサギは饅頭を咥えない。
夜の街は、見たくない。
宙に浮く死神の真下を素通りし、司は屋上の縁に向かう。フェンス越しに見る街は電飾は少なく、遠くに目をやるほど暗闇が増えていく。
「夜景でお金を稼いでるトコロもあるけど、ここじゃ無理そうだね。別になんも綺麗じゃないや」
『死神にも、綺麗とかの感性はあるんだな』
「いんやぁ、そんなのないよ? こういうの言っとくと、この人間の皮とギャップが無くなるから便利なんだよねぇ~」
人間の皮。つまり、死神の元々は人間の形をしていないということ。
『お前は、本当はどんな姿をしている』
突風に、身体が傾く。司の問いに、死神はシニカルにはにかんだ。
「そんなのないよ。僕たちに本当の姿なんてない。けど、強いて言うなら……」
司の前に、死神は逆さになって入り込み、目を合わせる。
「強いて言うなら、人間の形をした、人外かな」
コートもジャケットも。要らない物を脱ぎ去って、ネットフェンスに手を掛ける。線が細いから、指先に食い込んで痛い。圧のかかった筋肉が赤くなり、血が集まっていることがわかった。
『お前は、人間でいたいのか』
「……驕るなよぉ、人間なのに」
フェンスの上は、線が細くてバランスが取りにくい。これだけ風が強ければ尚更。手で支えてないと、いまにも落ちてしまう。
「死ぬのかい? 君の寿命は一日も削ってないよ?」
『知ってるよ。死神は嘘をつかないんだろ』
「ふふ~ん。司クン、今になってようやく僕のこと分かってきたね。ホントに覚えが悪くて困っちゃう」
両手離し、改めて街を見下ろす。真下には病院の入り口がある。
さっきまで司がいて、春子が飛び降りてきた場所。
『なぁ、死神』
「なぁに?」
『何で、春子は死ぬのを選んだんだろうな』
「さぁねぇ。死神だけど、その辺の事情は知らないなぁ」
司は、夜を前に自嘲する。愚かさもないくらい、事切れた。
「でもさぁ、結局はアレだったんじゃない?」
薄っすらと、か細い白が宙を舞い始める。
「司クンが心の頼りだったんじゃないの?」
死神が心を語る。司は、振り向かなかった。
「知らないけどさ、多分、君の奥さんは毎日がギリギリだったんじゃない? 明日死んでもいいくらいに生きてて、でも毎日君が来るから出迎えないといけないと思って。明日も司クンが来るから。それだけが生きる理由だったんじゃない? 話が出来るとかどうとかじゃなくてさ。そういうトコロだったんじゃないの? 生きる理由」
『あいつは、それだけが頼りだったのか……』
「ただの勝手な想像だけどねぇ。ま、もう死んじゃったし、どうでもいいけどぉ」
死神はケタケタ笑う。司は笑わず、涙も枯れる。
『あーあ』
『春子にとっては』
『俺が、死なないための義務感だったんだ』
遠くで根を張り、自生できるほど。司の錘は優れてない。せいぜいが、宿主を殺す事だけ。瞳から、光が消える。身体を捻りながら、踵を上げて前方に重心を傾ける。
両足がフェンスから離れる頃、背後の屋上の扉が開き、そこから人が押し寄せてきた。落ちていく最中、険しく覇気の籠もった真剣な顔で駆け寄る福田と目が合った。
『コート、ちゃんと持ってってくれたかな』
司を止めようとする手が、フェンスに遮られる。
『飛び降りるのって、意外と長いもんだな』
『屋上から、飛び降りてるせいかな』
ゴンッ──と、鈍い音が病院に響く。
春子が死んだのと同じ場所。春子の遺した血痕の上に、司の汚れた身体が載る。
「はぁ、せっかく助けたのに、死なれちゃった」
死神は、司の置いていった衣服を漁り、何かを探す。
「えーと、何処かに挟まっちゃったか…あー、あったあった。でもやっぱり、そんな大事なモノには見えないけどね。此処に置いてってるし」
慌てふためく福田たちに、死神の姿は見えない。試しに眼前でピースサインをしてみるが、誰も反応しなかった。
「ほーんと、司クンも奥さんも。僕に生かしてもらった恩があるはずなのになぁ。借りくらいちゃんと返して欲しかったよ」
顛末を見届けた死神は不満そうに、探し物を手に屋上から姿を消した。
堰を切ったように、空に雲が溜まり始まる。僅かだった白い雨が、段々と勢いを増す。血痕を隠した司を隠すように。一つの命を埋めるように、雪が降りしきる。
欠けた左手の薬指には、輪っかで占められたような痕が残っていた。
死神は時に浮かばれない はねかわ @haneTOtsubasa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます