第31話 開幕

 太陽は橙に霞み、間もなく日の入りを迎えようとしている。


 もうすぐクリスマスを迎える頃。太陽が頂点に上る時間は短くなり、夜の時間が日増しに長くなっていく。


 カフェを後にしたのち、司は影見の付き添いの元、職場に向かった。心配したと声をかけてくれる同僚や後輩がいる中で、やはり管理側にいる上司達からいい顔をされなかった。各方面に影見と共に頭を下げて回り、デスクに置きっぱなしだった私物や書類を整理する。


 幸い、急ぎの案件が無かったため、司が不在の間に影見が全ての仕事を振り直したらしい。解雇されなかったら、今度はずっと窓際に居座ることになっただろう。辞めることになってよかったと、人知れず胸をなで下ろした。


 全てが片付いたわけではないが、ある程度出て行く準備が出来たため、周りより一足早くオフィスを出た。冷たい目線は感じていたが、すぐにいなくなるという現実が、司の心を強くした。


 コンビニでメモ紙を追加で買い、最寄り駅で見舞いの花を調達する。両方とも、ICカードで会計できる店でよかった。スマホと一緒に財布もどこかに忘れてしまったことに、この時ようやく気付いた。

 もったいないと思いながらも、何とかなるだろうという気概が湧いてくる。



 軽装な思考と反する大層な花束を抱え、司は漸くして最後の目的地である春子のいる病院に辿り着いた。



 我ながら、物事の考え方が変わったなと思う。


 卑屈、人任せ、心配性。度が過ぎているから、度を越えた苦しみを味わう。過去を振り返ると、自分の事がそんな風に思えてくる。


 仕事のことも、漆希に申し訳ないと思うことも。そして、春子のことも。決して軽いことじゃない。どれも大事なことだった。司の中に、確かに重さを持って存在していた。今もそれは変わらない。



 でも、今までよりずっと軽い。



 自分と重ね合わせるのなら、見た目を気にしていたのだと思う。とてつもなく重たい鋼のように、それらのことを考えていた。だから圧し潰されるほど重たかった。


 けれど実際は鋼ではなくて、かといって、吹けば飛んでいく羽でもない。大事なものは、そこに在るだけ。形も重さも見た目も、最初から無い。



 ただ、自分がどうやって持つかが違うだけだった。



 司はずっと、大事なものは重たいと思っていた。

 間違ってはいない。結婚だって、人一人と生涯交わす契約であって、仕事は生きる為に必要な金と、社会から求められる立場を掲げるためのもの。どちらも大事で、どちらも失うのは惜しい。



 だが、決して背負う以外で運べない物じゃない。



 たった数日。一週間にも足りない日数。その極僅かな時間で、司は大事なものを見てきた。



 堰にとって大切だった父は、遺した言葉とマグカップくらいに収まった。


 漆希にとっては、淡いピンクの伝票と預かったコートで収まった。


 影見にとっては、辞めるのに丁度いいで収まった。寧ろ、そこからより大切な大事と手を繋げた。



 そのくらいでいいと知った。そのくらいでも、幸せだと知った。

 指を失って、聴覚を失って、声を失った。軽い代償ではない。

 きっと、生きている内に笑い話にすることは出来ない。

 大事なことを守るため。春子という命を守るため。

 夫として、やらなきゃいけない事をやったつもりだった。


 後悔はない。これで寿命は確かに延びたのなら、それだけで価値がある。



 でも、多分、きっと。やらなきゃいけない事は、これだけじゃない。



 寿命を与える為に自分を犠牲にすることは、大事にしたい人を蔑ろにしている。




 雨でも雪でも会いに行くとか。

 毎日花を変えに来るとか。

 触れられなくても傍にいるとか。

 忘れたいプロポーズで笑い合うとか。

 エロ本を捨ててという注意を悔しながらに聞くとか。

 この欠けた左手に、大切な指輪を付けておくとか。



 きっと、そのくらいでいいんだと思う。片手で収まるくらいでいいのだと思う。片手で収まるくらいのことを、大事にすればいいのだと思った。


 花束を持ち直し、見慣れた病院の入口へ向かう。雪はとうに消え、タイル張りの通路に張っていた氷は水になり、ところどころ乾いていた。



『どんな顔で会いに行こうか』



 もう、踵を返す司はいない。会うことはもう決まっている。どう会うかだけが決まっていない。



『まずは謝んないと。何日も来れなくてごめんって』



 どうやって伝えよう。メモで伝えようか。それてもジェスチャーで伝えようか。



『耳と声のことも言わなきゃいけない。でも、一気に言ったらパンクするよな……』



 どの順番がいいか考える。まず、最初は耳のことだろうか。



 ガラス張りの自動ドアの向こうで、走り回る子ども達が見える。もうすぐ、本物のサンタクロースがココにも来る。簡単に外には出れない彼らにとって、年に一度の楽しみがもうすぐやってくる。



 そうだ、春子にもクリスマスプレゼントを用意しよう。せっかくなら、一緒に出来る新しい趣味を!!






 ──ヒュッ






 空気が一瞬、速く動く。何かが、司の真横を通り過ぎた。

 間髪開けず、岩同士をぶつけあったような衝撃が、地面から伝わってきた。


 咄嗟に後ろを振り向くが、タイル張りの歩道は、通り過ぎた時と変化ない。眼を動かし左右を見渡しても同様だった。




 扉の奥で、司と同い年くらいの女性が、口元を抑えて目を見開いている。その視線の落下点は、司の足元辺りにあった。



 司も、恐る恐る足元に視線を向ける。すると、右目の視界の端から、赤い液体が入り込んできた。司はそれが瞬時に血だと気付く。



 怖い。その感情が心を占領する。しかし身体はそんなこと意にも介さず、血が流れてくる方を向いた。



 仰向けの身体。右足は横に九十度に曲がっており、右足は不自然なほど真っすぐ伸びている。まだ息があるのか。上半身は肺に引っ張られながら細かく痙攣し、壊れたおもちゃのように首を弾ませる。


 両手の指はそれぞれが枝毛のように、好き勝手の方に跳ねるみたく折れている。血の出所は全身。しかし、一番流れているのは頭。




 その頭は、春子の顔を持っていた。



『はる……こ………っ────』



 使い物にならない声帯が、音にならない悲鳴を上げる。

 落ちてきた春子の頭部からは、血と一緒に、透明な液体が流れている。

 左手の薬指に付けていただろう銀の輪は、離れるように割れていた。


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