第30話 融解
職場に向かう電車は空いていた。スーツを着た人物は司一人だけで、その他にはベビーカーを携えた主婦と、互いの手を繋ぎながらスマホを触る女子大生がちらほらといる程度だった。
この沿線を利用してそれなりに経つが、久しぶりに座席に座った気がする。傾きそうなほど押し込まれ、足を踏まれなきゃ出勤できなかった車内で、外の景色を見る余裕がある。幻を見ている気さえした。
幸か不幸か、スーツまま逃げ出していたため、家を経由する手間が省けた。土まみれだった革靴は、最初の駅に送る前に堰が拭き取っていてくれた。
まるで、こうなる未来が見えているかのような用意周到ぶり。つくづく、これから会う影見と似ている。先を読む能力が高すぎて、超能力者の可能性を疑ってしまうほどだ。
扉上の電光掲示板で次の駅を確認しつつ、ポケットから先ほどのメモを取り出し、内容を見返す。
まず、耳と声の説明はこれでいいだろう。問題はその後。用意しとくべきは、まず謝罪文。企業に勤める人間としての無責任についての謝罪。社会の人間としての流儀を大きく損なったことについてもだ。
それから、解雇を言い渡された時に返す分。
正直…というか、解雇になるだろうなというのは、司自身も分かっていた。これといった確証はないが、仮に自分が会社を経営している社長だと考えると、同じことをした社員を雇い続ける気にはならない。
理由は大事だけれど、理由があれば何でも許されるわけではない。雇われる側にも、譲歩すべきとこがある。司はそれを踏みにじった。だから、解雇を前提として、メモに文章を書きこんでいく。
頭の中で言葉を並べ、書いては読み直し、ボツにする作業を繰り返す。メモの残り枚数に焦りながらも、握りつぶした数が二桁に行く前に、何とか形になった。
本当は事前に連絡を入れるべきだとは思うが、そのためのスマホは、いま手元にない。なんなら、いつ何処で失くしたかも分かっていない。堰も運んでた時から見ていないと言っていた。
公衆電話でも使えればと思ったが、文明の発達した現代でも公衆電話はICカードに対応していない。
それに、今の司は湧き上がった何かに背中を押されているから、前に進めている。この源泉がいつ枯渇するかも分からないし、後押しが無くなった時に、自分の足で動き出せるかも分からない。
ほんの少しでも先延ばしにしてしまったら、また動けなくなってしまう。
それに、既にこれだけの事をしているのだ。どうせ解雇だろうしいいだろうと思おう。今更礼儀なんて言っても焼け石に水。だったら直接行って終わらせてしまおう。
責任と自由。社会。集団平均から得た普通。雑多な眼に晒されることに敏感だった司が、生まれて初めて、開き直りを覚えた瞬間だった。
そうこうしている内に、電車は目的に到着する。扉が開く少し前に立ち上がり、同じ車両に乗っていた誰よりも早くホームに降り立つ。
疎らな人の波に乗って、残高不足で止められた高校生を横目に胸を張って改札を抜ける。いざ職場へと思い、左前の歩道の先の出口へ向かおうとした時、背後から誰かが司の肩を指で叩いた。
反射的に振り向き、直後背中に冷や汗が流れる。
中学生と見紛うほど小柄な体躯をした上司が、いつも以上に固い表情で、司を見上げていた。
──────────────
司はホラー映画が好きではない。むしろ嫌いな部類に入る。理由はいくつかあるが、一番の理由は大概が驚かすことを手法としていることにある。
怖くあろうがなかろうが、急に得体の知れない物が目の前に現れたら、誰だってリアクションは取ってしまう。けれど、それで作品として成立させるなら、別にホラーじゃなくてもいいじゃないか。というのが司の理屈だ。
そういった観点から考えると、影見の登場の仕方は、司が好きになれるホラーとも言えるだろう。
音もなく忍び寄り、知覚した途端に震え上がる。
その手法に、司はまんまと引っかかり、恐れ慄いた。
お陰で、脈は速くなったままで静まる気配がない。漆希の時といい、今日は心臓が落ち着かない。
木作りが暖色の照明で映えるゆるやかなカフェの一席で、司だけが唯一、寿命が縮まったと感じていた。
壁掛けの時計の短針は頂点を指し、長針はそろそろ2の上に重なろうというところ。昼時で多少なり賑わっているが、それでもチェーン店のような並びはなく、座席の3割ほどは空いている。
向かいに座る影見は、足を組んでコーヒーを飲みつつ、司のメモに順に目を通す。照明のせいか。右目まで覆う青痣がほんの少し薄らいで見えた。
[なるほど、とりあえず、現状は分かりました]
胸ポケットから取り出した手帳の頁を破き、グリップの擦れたボールペンで文字を綴る。草書にも近い、流れるような字だが、覚えのない司にも読みやすいのは、字の形そのものが整っているからだろう。
[では、先に君から私に言いたいことはありますか?]
以前の面談の時とは違う、明らかに高圧的な語気。聞こえないはずの声がいつも以上に低く、肩を丸めた司の背中に重くのしかかるようだった。
今にも震えそうな手を戒め、用意していたメモを影見の目下に差し出す。取り上げた影見は、あくまで冷徹に、メモの内容を読み込んだ。
一秒が一分に感じられるほどの緊張。鼓動が速くなっているのは確か。であれば、身体は火照っていなければおかしいはずなのに、汗は一切出ず、体内は変に寒い。
あれやこれやと、現状を回復する方法を考えるが、どれもこれも成功するイメージに辿り着かない。渇いた口内を潤そうにも、コップには氷しか残っていなかった。
読み終えた影見はメモをテーブルに戻すと、今度は頁を破かず、ボールペンで手帳をなぞる。
呪いの言葉か。二度と立ち直れないほど厳しい言葉か。何にせよ、褒められるといった、良いイメージは湧いてこない。苦し紛れにコップを傾けるも、僅かに溶けた氷の水だけでは、渇きを増やすだけだった。
[言いたいことが無ければ、今度は私から幾つか言いますが、よろしいですか?]
遮る気もない。断頭台への階段を上った先で、司は抵抗することはしなかった。頁を破り、手渡されたメモを、司は両手で受け取った。
[あなたの解雇は既に決定しています。同時に、私は辞職しました]
前半は分かっていたこと。故に驚きはないが、現実が目の前に来たと改めて理解した。しかし、後半については理解が追い付かなかった。
頭は自らの情報処理を疑い、何度の見直し、やり直す。だが、いくらやったところで辞職の二文字が崩れるわけでも、化けの皮が剥がれるわけでもない。
嘘を疑った司は素早く顔を上げる。影見はそれを予知していたかのように、影見は司の眼前に掌を置き、何時の間に書き上げた三枚のメモを渡した。
[あなたの解雇は、コトがコトなので止めようがなかったです。私程度では如何にもなりませんでした。その進退を決める会議の場で、上司である私にも降格処分のペナルティが与えられることになりました。ちょうどいいので辞職扱いにしてもらって辞めてきました]
流れを持った文章。形の整った文字。綺麗に整えられた様式。読めない要素は全くないのに、最後の一文で一気に理解が捻じ曲がる。
丁度いいという言葉を、司が間違った意味で使っているのではないか。そう疑ってしまうほど、平然と整然な並びに、身体は熱を冷めた熱を忘れていた。
[まぁ、取るべき責任とは思っていますが、元々春には辞めるつもりだったので、多少早まっただけです。契約上はまだあそこの社員ですが、どうせ直ぐいなくなるので、説教とかそういうのとかはもういいです。ここだけの話、あれめっちゃ疲れるので苦手なんです]
これまでの影見のイメージが悉く崩れていく。対して、この文章を書いた本人は、至って普通に。いつも見ていた影見の姿でコーヒーを嗜んでいる。
目の前で一つの事柄に関する正反対のことが起きている。脳も、半ば処理を諦め始めていた。
[てことで、無事とは言い切れなくも、生きていたのなら何よりです]
[ちなみに、私はこれから貯め込んだ貯金を使って、愛する奥様と弁当屋兼カフェをやる予定です。そこで、一つ提案なのですが]
[我々は同じタイミングで無職になった。正確にはこれからなるですが、これも何かの縁です。これからオープンするウチのカフェで働きませんか?]
思いもよらぬ提案だった。司は自分ののみならず、影見のキャリアにも傷をつけ、生活にさえ負担を与えた。殴られても文句は言えない。それだけのことをした部下を、影見は雇おうとしている。
[勘違いしないで欲しいのは、決して罪滅ぼしのために無賃労働しろという意味ではないということ。私は正式なスタッフとして、正当な権利を与えた上で、君を雇いたい]
ポケットからメモを取り出し、慌ててボールペンを握る。指先で跳ねて弄ばれるのを、手首ごと抑え止めるも、インクの線はどれも細かく波打っていた。
『どうして、文句も言わず、雇ってくれるんですか』
司の問いに対し、影見はメモの裏側を使って答えた。
[あなただけに限った事ではありませんが、文句を言ったところで物事は解決しません]
[数え切れないほどある嫌な事。特に今回のような失った時は]
[失ったものを数えるより、失って出来るようになったことを探すべきです]
[職と安定した給料を失った。けれどおかげで、自由と夢を追う時間を確保できた]
[あとは前の職場で、私が一番一緒に働いていた楽しいと思っていた]
[優秀な元部下が付いてきてくれれば、文句なしなんですけどね?]
得意げな表情。初めて見る影見のドヤ顔。煽るような目つきだが、口角は爛漫に上がっている。
今日は、心臓も涙腺も騒々しい。漆希の泣き顔で十分泣いた気でいたが、今度は、司は泣く番だった。
[色々と、ご迷惑をおかけしました。ぜひ、お供させてください]
新たなメモに、影見に付いていくことに署名する。書き上げたところで、影見はそれを取り上げ、胸ポケットにしまい込んだ。
[念のため、このメモは預からせていただくのと、此処のお代は私が払います。もう上司では無くなりますから、一個人としてのおごり、要は貸しです。忘れては、いけませんよ?]
そう。貸しはいつか返しに行かなければならない。そしてその貸しは、仕事という枠組みが壊れた今、唯一守るべき、死なないための義務感だ。
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