第29話 合間

 覚悟を決めて意気込めば緊張が完全に消失するかと聞かれると、それは怪しいと答える。何故なら、意気込みは息を吸っているわけで、緊張を飲み込むためのゼリーにはならないから。



 店の見た目は変わっていないはずなのに、心持ちが一つ違うだけで、店そのものが一回り大きくなったように感じる。無意識に感じる圧迫感に気圧された心臓は鼓動を早め、喉を狭める。

 錆びた看板には、いつもより鈍い、重厚な影がかかっていた。



『なんて言って入ればいいんだろう……』



 自信回復の為、成功した時も妄想を繰り返す。頭の中で幾つもの映像を再生し、忙しなく切り替えている。

 すると不意に、春子にプロポーズした日を思い出した。


 あの日は大層緊張したものだ。司がいつもとは違う高級ディナーを予約して、一ヶ月前から衣装やら何やらを準備して、春子に臨む準備をした。春子の方も、新調したロングのワンピースを纏い、司の挑戦を真っ向から受けた。本気の春子は、いつもの12割増しに綺麗に見えた。本当にそういう感想だった。


 あの時も心臓がずっとバクバクしてた。今みたいに呼吸もしづらかったし、料理の味も分からなくなってた。そして極め付けに、婚約指輪も当時の自宅に置き忘れてた。最初で最後の、指輪のないプロポーズをした日だった。



『それと比べれば…』



 何とかなりそう。そう思えた。



 意を決し、シルバーのドアハンドルを握る。一呼吸おいて、一気に引く。俯きがちに中に入って中を見渡す。圧倒的な外見とは異なり、中はコートを預けた時と同じ。カウンターに人はおらず、夫婦が奥で作業しているのが伺えた。


 胸をなで下ろしつつ、不安が戻ってくる前にと、呼び鈴の頭を、念のため二回押す。自分のつま先を踏んで、逃げようとする意志と、それに答えようとする身体を抑える。



 しばらく待っていると、依然と変わらない、背の高い彼が奥からやってきた。



 呼び鈴を鳴らしたのが司だと分かった途端、漆希の表情が変わる。

 驚きと、放心とに、ほんの少し、バツが悪いのが混ざったような表情。端的に曇ったと言い切るには、かなり複雑なものだった。



 漆希の口がパクパク動く。司の身を案じたことを言っているのが、何となく分かった。口を動かすたびに、目尻が下がり続けていたからだ。

 ただ、今の司には何も聞こえない。お飾りの耳と鼓膜では、漆希の優しさを感知できない。



 司は掌を向け、漆希を制止させる。そしてポケットから、四つ折りのメモを取り出し、漆希に差し出した。



 ここに着くまでの電車内で予め用意しておいたメモ紙。そこには、耳と声についてが、死神の事を伏せながら記されている。

 眼を見開いて読み込む漆希を待ちながら、司はカウンターで新たなメモを書き始める。


 本当なら自分の声で言いたかったが、現状、それは叶わない。

 でも、出来なくなったわけではない。



 左手が欠けてしまったこと。それに気付かれて動揺し、逃げ出してしまったこと。



『心配をかけて申し訳ない。漆希は決して悪くない』

『だから、今後も自信を持ってこの店にいて欲しい』

『せっかくできた友達がいなくなってしまうのは、とっても寂しいから』



 メモの字を追っていくほど、漆希の目に水が溜まっていく。零さまいと腕で拭うが、一度落ちたら止めどない。ただ見ているだけなのに、漆希の喘ぎと嗚咽が聞こえてくるようだった。危うくもらい泣きしまいそうなのをすんでのところで耐え、カウンター越しに漆希の肩を撫でる。



 見た目では分からない、張った筋肉とがっしりとした骨格。もう、目つきの悪い反抗期のあの子では無いのだと、改めて実感する。



 もっと、信じていいのだろう。



 司が思っている以上に、司の周りにいる人は、きっと強い。

 司一人がもたれかかったくらいでは倒れない。


 頼ってはいけないと、信じ切ってはいけないと。そう思っていたのは、司だけ。塞ぎ込んで、他人が関わっているのは、自分の世界だけで答えを出して、それに従っていた。



 問題分を読まずに、勝手な答えを書いてばかりいて、正解になるわけがない。



 偶然でありつくには、人という存在は精密すぎる。

 でも、想いはシンプルでいいのだと気付いた。



 足りなかったのは言葉だけ。ほんのちょっとの欠片でよかったんだ。

 鼻水を吸いながら、胸ポケットからボールペンを取り出し、斑に濡れたメモに書きこんでいく。一文字ずつ、形になると同時に読んでいく。



 まず、ごめんなさいと謝られた。司は謝んないでと、アイコンタクトを送りつつ、心の中で謝り返した。


 ちゃんとやってきてよかったと喜ばれた。司は今度は肩を叩いて励ました。


 少なくとも、大学にいる内はここで働く。漆希の宣言に司は微笑み、喜んだ。



 時折話し声を掻き消す、あの何重に重なって煩い空調の稼働音が、今も店内に響いていることだろう。



 声で通じ合うのに、いつもより気を遣う場所で、過去の二人は気を遣いすぎた。


 片方は客に。もう片方は、他人の為と見せかけた自分に。

 独りよがりになっていた、自分に。



 けれど、もうそんなことしなくていい。

 秘密は消えないけれど。嘘で隠してしまうけれど。

 少なくとも、前よりかは仲良くなったと思う。



 もう、自分に寄りかからなくていい。宿り木とは異なる、拠り所がちゃんとある。そこには、自分よりも年下で、自分より背の高い友達がいる。



 司はコートの内ポケットから、淡いピンクの紙を取り出す。

 目元と鼻を真っ赤にした漆希は、いつもよりも明るい、営業のそれではない笑顔で受け取り、預かったものを探しに行った。



 やがて持ってきたコートは、割り増し料金以上の仕上がりをしていた。

 会計を終え、コートを抱えて背中を向ける。



『もう、逃げなくていい』



 扉を開け、外に出てしまう前に司は振り返って手を振り、漆希はそれに振り返す。手を振って別れる。学生以来の別れ方に、久しぶりに心が躍った。

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