第28話 段差
堰の言葉で、司は死なない土台を持てるようになった。
おかげで不安はほぼ消失したが、心配も一緒に消えたわけではない。むしろ以前より大きくなっている。
目下、一番の心配は、迷惑をかけた大勢に対する言い訳だ。
無断で休んだ上、昼休みに逃亡。今頃大変な目に遭っているであろう、上司の影見。
数日間顔を見せず、コートもまだ返せていない福田と、指を診てくれた女医。
そして何より、自分の事を想ってくれている春子。
あとそれから、豚カツ屋にも謝りにいかないと。
それぞれに言い訳を用意しなければいけないが、共通なのは、死神との契約で失ったもの。特に声と耳に関しては隠しようがない。というより、そもそも隠し通せる物でもないだろう。だからこそ言い訳を考えなければいけない。
まず影見だが、あの人は色々と鋭すぎる。その道に人生を懸けた刀鍛冶の刃のように頭がキレる。そしてその範囲も広い上に、仕事ができて優しい。しかしその優しさには、治りかけの傷をほじくり返す痛みがある。
タイプとしては、堰と同じだろう。精神的な問題だと言ったら、恐らく"事実ではない"という事には即座に勘づく。けれど影見の場合はそこで、優しさが発動して「そうですか。大変でしたね」と言うだけで、詮索はしない。
司の予想通りに事が終われば、気持ち悪さは残れど、気持ち的には楽だ。話したくない事を、無理やり引きずり出される事が無いという安心感が生まれる。
だが、仕事のできる影見はきっと今後までも踏まえて、必要書類などを用意するだろう。しかもそれは、疑いを晴らす証明の為でなく、信頼を強固にするための促進剤として。その際にはきっと医者の診断書が必要になる。そしてこれが手に入る予見は、現状見当たらない。
福田と女医。彼らは身体について知り尽くすその道のプロであって、検査の術もよく知っているだろう。司程度の素人の安い言い訳なんてすぐ見破られる。もしかしたら、そこから伝手を辿って精神科医の世話になるなんてことも、考えられなくはない。
だが使えなくなった理由だけに、自発でもしてない限りどんな検査をしても異常は出ないだろう。
そうなるとややこしいことになる。死神の事を話した所で信じてもらえるか如何か。死神の事を話した所で拗れる一方だと思うが。
『どうやったら、スムーズに元の生活に戻れるだろう』
ボックス席で、乗り継ぎの際に買ったペットボトルの緑茶を一口飲み、唇を湿らす。司はまず病院に赴き、その後会社に向かって、影見と部署の皆々様に謝りに行くつもりだった。
病院の最寄りまで、残り一時間と少し。どうしても、溜息をつかずにはいられなかった。
『どうにかしたいけど、どうにもならないよね……』
プライドなんて言える立場じゃない。でも、何歳になったって怒られるのは嫌なものだ。けれど、素直に謝るしかできないし、それ以外に選択肢があるわけもない。
とりあえず、いきなり病院と会社に行くのは止めておこう。物語が始まった瞬間にボスキャラクターに挑むようなものだ。ノックアウトされて消沈してしまう。現実逃避からさらに目を逸らし、ついでに車窓から景色を覗く。
田んぼだらけの景色に、徐々に民家が増え始めていた。20分後にはマンションも出てくるだろう。電車はどんどん都会に近づいている。
嫌なことに自ら向かっている時は、口が物寂しくなる。
煙草なんて持っていないし、そもそも現代は電車内で煙草は吸えない。それでも何か口に入れられる物はないかと漁っていると、コートの内ポケットに、何か入っていることに気付く。
淡いピンク色の紙のそれは、見知ったクリーニング屋の伝票だった。
『そうだ、漆希君のところにも行かなきゃ……』
そういえば福田のコートを預けに行ったとき、漆希は何も言わなかったのに、左手のことに勘付いた。あの時は、申し訳ないことをしてしまった。理由も言わずに逃げ出してしまったことは、漆希を困惑させてしまっただろうし、何より、彼の無垢な気遣いを踏みにじった。
とても後悔している。漆希はなにも悪くない。気付いたのは、客を毎回ちゃんと見ていた証拠だ。仕事に紳士だった証明だ。
そりゃあ、プライベートに関わるなと怒る人もいるだろう。でも、頭が真っ白になって逃げだした司でも。圧し潰されるような感情に襲われた司でも。気付いてもらえた嬉しさは、名状し難い幾重の感情の隙間に、確かにあった。
漆希がこれまで培ってきた賜物。自分の逃走が、それを壊してしまってないかと願うばかり。答え合わせが出来なければ、本人が忘れない限り迷い続ける。先の見通しが立たないのは、不安ばかりを増やしてしまう。
『それは、嫌だな』
大人としてこの世に生まれてくる人間はいない。この世に大勢いる、大人と呼ばれる人間も、生まれた時は泣くしかできない命だった。
それがいつしか、算数が出来るようになり、文字を読めるようになり、物を覚えていった。段々と蓄積されていくごとに、金の稼ぎ方や、他人の愛し方まで拡張していった。
元赤ちゃん。元子ども。元思春期。元反抗期。
人はきっと、熟れることはない。自分では気付かない青のまま。自分では気づかないほど、ゆるやかに枯れていく。
でも、この世には大人という概念がある。大人を自称する存在がいる。
青いままも知らず。枯れていく未来を知らず。けれどいつしか、大人を語る。
いつからか。
それはきっと、今を生きる子どもと自分が、同じだと思えなくなった時。
『漆希君には、一番に会っておかないといけない』
年齢は司の方が上。身長は漆希の方が上。同じ男で、形は異なれど、働いている者同士。共通点は、きっともっとある。探し出せば、想像以上に似た者同士かもしれない。
けれど、同じ大人としてはまだ見れない。
酒が飲めるとか、煙草が吸えるとかじゃない。飲んでも吸っても、それで急に大人になったりしない。特に意識もなく、"この子"と呼んでしまう。一緒に遊ぶ相手だと思えず、遊ぶ姿を見守る立ち位置をとってしまう。後を付いていくのではなく、追われる背中を演じられるようになる。
大人は、きっとそんなこと。そんなことをしたと振り返った時、漸く自分が大人になったと気付く。子どもでは無くなった、自分に気付く。
『そういえば、嫌いだったな。高校2年の時の担任』
窓の向こうで田んぼが街にすり替わっていく中、自分が嫌いだった大人を思い出す。適してない適当しかやらなくて、がさつで杜撰で。教職員からもいい眼で見られていないのは明らかだった。
生徒も早い段階で匙を投げた。あの人はそういう人だから、期待する方が間違いだと。新学期始まって間もないクラスで、互いの名前を覚えるより早く出来た共通認識だった。
その他問題は色々あったけれど、司が一番嫌がっていたのは、全てに謝れない事。
悪い事にも反省すべきことにも謝れない。特に生徒に対しては、いちゃもんつけたり、酷い時は逆ギレしてまで謝ることを拒んでいた。
人はみな違うという事実でも、それだけは17の司にも割り切れなかった。そんな大人にはなりたくないと思った。そんな、子どもの前に立つにも、背中を見せるにも相応しくない大人にはなりたくなかった。
『あるべきと思う姿で、ある為に』
大丈夫。きっと大丈夫。
まずロウメンに行こう。
会えるか如何かは分からないけど、まずそこから。
車窓から見える背景を透かして映る自分と目が合う。
覚悟の決まった瞳は宝石のように輝き、純水のように澄んでいた。
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