第27話 狼煙
[あそこの踏切を渡ってすぐ左に行けば改札だ]
[本数が少ないうえ距離も長いけど、乗っていれば必ず着く]
[にしても、ホントにこんな直ぐでいいのかい?]
[あの家は私以外誰もいないし、2、3日居たって構いやしないよ?]
メモ紙から伝わる堰の優しさ。しかし、司は首を横に振って答える。堰が良い人であることはもう十分に知っている。
実際、脚は筋肉痛がひどいし、休みたい気持ちもあったけれど、さすがに妻の入院中に、別の女性の家に何日もお世話になるわけにはいかない。
司はもう、たった一人の為に生きる、旦那なのだから。
堰の父の話を聞いたその翌日。司は堰の自宅からの最寄り駅に来ていた。廃寺に行った時の駅とは違い、お洒落なカフェからジム。さらには保育園まで内蔵しているという、目新しい駅ビルだった。
[まぁ、君の意思が前を向いているなら、それを優先した方が良い]
[何かあったら連絡してくれるといい]
[くれぐれも君のパートナーには、私の事をこの世で二番目に素敵だったと紹介しておいてくれよ?]
司が大きく頷いたのを確認し、堰は四輪駆動の車を走らせ、颯爽と去っていった。
右のポケットに堰の連絡先の書かれたメモを仕舞い、左のポケットから押し付けられた交通費を取り出し、切符を買う。
ICカードを持っているから断るつもりだったが、堰曰く、‟借りは死ねない義務感”になるらしい。
要は、気を遣ってくれたのだ。
きっとこの駅も最寄りではない。少なくとも来るまで一時間半以上かかっている。交通費も、切符を買うだけにしては多い。昼食に定食を食べたとしても、お釣りが戻って余りある。
見ず知らずの相手に、堰は死ねない理由を残してくれた。死ぬより優しくて前向きな言い訳をくれた。
司がちゃんと目的を果たせるように。目的を果たすまで、死なないように。
大人になっててよかったと思う。子どもだったら、今頃この優しさに気付けなかった。
今度は、こっちから堰に返しに向かわなければ。その時は、是非とも春子も一緒に。
プールにもありそうな安いベンチに腰を下ろして、そんなことを考えながら次の電車を待つ。トイレを挟んで隣のベンチには五十代ほどの女性が座っており、ホームの端っこではカメラを覗き込みながら話す、いわゆる撮り鉄の男たちが盛り上がっていた。
いつも出勤に使っている駅とは比較にならないほど閑散としているが、此処ではきっと、日常の光景。そのどこかの知らない日常が、今はとても愛おしくて暖かい。
スマホも触らず、ただ無為に時間が過ぎていくのを待つ。
我ながら遠回りをした。ゴールテープは目の前だったのに、地団駄踏んで切ろうとしなかった。この勝利は本当に自分に見合っているのか。もっと別の勝ち方をしたほうがいいんじゃないか。後ろから追ってくる選手はいない。いるのはいつも、正しさに迷う自分だけ。
自問を繰り返す、この厄介な頭だけ。
でも、もういいんだ。そんな立派な勝ち方より、そんな大層な哲学擬きなんかより、やるべきことは、もっとシンプルな事だった。
勝利に見合う人であるのは後。まずは勝利をした人となる。
同じことだ。春子の旦那に見合う人でなく、まず自分は春子の夫であり旦那である。
まずはその衣装に袖を通す事から。似合わなくても、自信満々にトロフィーを掲げることから。
だって、あんな素敵な人が、選んだ俺だから。
生きる為と、逃げるため。どちらかでしか無かった時間が、動かない時間へと変化する。冷えたベンチで、ただじっと待つ。たまーに足を揺すって寒さを誤魔化す。
その程度が良い。そのくらいが良い。意味を持たせない意味。そこに『存在するだけ』の意味を、司は知り始めていた。
「なんかさー、司クン落ち着いちゃったねー」
司の隣で、死神が不満そうに呟く。座っているように見せかけて、尻がほんの僅かに浮いている。随分とレベルの高い空気椅子だと、司は心の中で笑った。
「昨日の夜はあんなにケモノみたいだったのに、あの女と話しただけで、感情変わり過ぎじゃない?」
正直、それについては司が一番驚いていた。
春子が入院した時に生まれ、時間が経つごとに倍々以上に増えていった錘が、一晩もかからず、綿毛のように吹いて飛んだ。
言葉という概念は、その地位が確固でありながら、もっとものような顔で柔軟に形を変える。字は形を変え、時に音になって、音に乗る。視覚に訴えるよう為、炭を削ったり、墨に浸けたり。
耳で読み、声で聴き、指でなぞり、口と鼻を通じて表現する。
適合の範囲が広く、適応に制限が少ない。それでも噛み合わないのはきっと、それを扱うのが人間だから。
『多分、波長が合ったんだ。堰さんと俺との波長が』
「それはなーに? 君の奥さんよりいい人が見つかった嬉しーってこと?」
なぁ、死神。
お前には分からないだろうな。
『好きな人が全員妻じゃないし、夫じゃない』
確かにお前は、死神らしい事を俺に言って聞かせてる。
『彼女とか彼氏のレベルでも同じだ。好きな人の全部が、自分の隣にいて欲しいんじゃない』
でも、どれだけその道を紹介したところで
『あの人と俺は、なるとしても親戚くらいの関係だろうな』
俺は死神にはなれない。
『難しいことと、悪い事を楽しそうに教えてくれて』
一週間、同じ場所で観光し続けたところで
『偶にバレて怒られた時には、ニヤニヤしながらかばってくれる』
地元の人になれるわけじゃない。もっと時間がいる。
『頼りになる人も、好きな人なんだよ』
俺が成れるのは、せいぜいが人間らしくない人間
『俺は春子とは抱き合いたい。腕を組みたい。手を繋ぎたい』
人間からは、逃れられないんだ。
『でも、堰さんとするなら…』
面倒で、愚かで、独りよがりで
『仕事と、グータッチと、酒で潰し合うこと』
放っておきたくなるほど、放っておけない
『春子となら、戦場でだって愛してる』
絡まり過ぎながら生きている。それが
『堰さんとなら、戦場で生存時間を競ってる』
多田司という、一人の人間なんだ。
「ふーん、よくわかんないなー。でもまぁ、いっか!」
椅子から腰を上げる。もとい、椅子から浮かび始めた死神は、膝を抱えながら宙を漂う。
「僕は司クンの敵でも味方でもないからね。また取引したくなったら呼んでよ。今度もサービスしないけどね♪」
要らない情報だなと、浮いた死神から目を逸らすと、向こうの踏切が点滅し始めてることに気付いた。もうすぐ電車が来るようだ。
『きっともう呼ばないな。お前とはこれっきりだ』
「えー、昨日あんなにあっつーい夜を過ごしたのに、司クンてイジワル!」
頬を膨らませた死神は、直後ホームに入ってきた風威に掻き消されるように、姿を晦ました。
さて、これで邪魔者はいなくなった。
『ちゃんと会いに行こう。春子に』
春子と、春子を思う自分に向き合う。司はようやく、その場で足踏みするのを止めた。
この健全な両足は、道を蹴り、電車とホームの隙間を飛び越えるためにある。
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