第26話 接心
静寂は木陰に似ている。
軽快で慎ましい陰で、人は目を閉じる。夢と現実を行き来し、やがて境界があやふやになる。どっちだと迷っていると、不意に目が覚める。流れ、移り変わった夕日が、
沈黙は
雨粒は弾幕のように、暴力的に内外を隔てる。地面に跳ねる音だけが、世界を構築する要素となる。余計なものは何もない。控えているのではなく、一つの空間の異物になることを躊躇う。だから人々は踏み出さない。踏み出す時は、雨降りを証明する時だけ。
雨と夜があるだけ。たったそれだけに、
[でもね]
[時々]
[人生の中で、一人くらいだけど]
[他人のその傷を嘆いて]
[死ぬまで君の隣にいる]
[自分の人生のくせに、そんな選択をする人がいるんだ]
死ぬまで
死ぬほど
使っている語は同じでも、用途で程度は大きく変わる。
誰かの隣で死ぬまで生きる。生きている間はずっといる。この体は死ぬまであるだろうか。この心は死ぬまであるだろうか。
酸素が無くなったりしないか。地球が滅んだりしないか。
いま周囲に、頭上に、足元に、背後に、手元に、目の前に。
「こころ」の中に。
在るものはきっと、在り続けるのだろうか。
[母が死んだあと、これまでお嬢様だった生活環境は激変した]
立ち上がり、キッチンへ向かった堰は、電気給湯器に水を注ぎながらスマホを操る。
[一斉に変わったから色々と大変だった。でも、一番変わったのは、気弱な父だった]
親指でスイッチを入れた給湯器は、ゆっくりとその丸い身体に電気を貯ると、湯を沸かすための声を徐々に大きくしていく。
[この給湯器は、私がかつて父にプレゼントしたものなんだ]
子どもをあやすように、堰は給湯器の頭をぽんぽんと叩く。
[父が、ある日急にこう言いだしたんだ]
[『苦しみを得る為の生き方をしなくていい。苦しんでも生きたい道を選ぶ生き方をしなさい』って]
[ませガキだった私は『なに名言言いたがってんだ』って思ったけど]
[子どもって不便だよね。そういう大事なことほど、大人になってから意味に気付くんだ]
[父は、認めてくれたんだ。母を死に追いやったも同然の、私の生き方を]
幼き日に堰の生き方を一言で表すなら、抗争の二文字だろう。
ルールに、慣習に、習わしに、掟に、運命に。常に反旗を掲げ、自らの意思を先行させる。
どんな所でも、歩めば道となると進んできた。その過程は確かに道になった。しかし、堰以外の人間が通ることは想定されていない。
堰が作った道に堰以外が踏み入れれば。そこは死ぬ方が快楽な地獄。母親なら、きっともっと、尚更地獄だっただろう。
[絶対に私は苦しむ。父はそれを分かっていた]
[楽なんて一抹のないルートだ。でも、私が私自身を履き違えて、苦しいかどうかで選ぶようになって欲しくなかった]
[追い求める物があるなら、苦しみがあっても、踏み越えて進んで行く]
[腹が減っても、足が折れても、身内が死んでも]
堰の父は覚悟を決めた。家の為でも世間の為でもなく、一人の親として。一人の人間であり、たった一人の女の子の、娘と思う覚悟を。
[母が死んだ原因を、他でもない父が受け入れてくれた]
[そして父は、その道が壊されないように立ち回り、死ぬまで私の道を見ていてくれた]
[『生きていていい』じゃなくて、『その生き方でいい』。父は最後までその言葉を守るように生きた]
[誇らしくて]
[ほんとに]
[たまんない父親だったよ]
想いが溢れ、想いに飲まれる。水のように湧き、滝のように襲ってくる感情は、涙に形を変え、堰の瞼から零れる。
どう慰めていいのか慌てる司を余所に、さっきまで眠っていた犬猫が、堰の足元に駆け寄る。首輪の鈴を鳴らし、尻尾を巻きつけながら、堰の股下をグルグルと回る。自然と上がる、堰の口角。カチッという乾いた音が、お湯が沸いたことを知らせる。
[なあ、ツカサ君]
画面を確認し、すぐさま堰を見る。堰は司を見ない。道化のように、涙の筋を引いた自信に満ちた顔を、司が一方的に見ていた。
[君の左薬指にあるそれは]
再び視線を落とす。今度はタブレットの画面ではなく、自分の左手。
若い頃よりも、皮っぽくて乾燥している、指の欠けた手。残った指で一番目を引くのは銀の輪。
[お飾りか何かなのかい?]
──これは、愛する人とを、繋ぐもの。
[辛くっても、悲しくっても]
──春子がいるから
[生きなきゃいけない時がある]
──もう、司だけの命じゃないから。
[自分も他人も]
[生き方を見てやらなきゃいけない時がある]
──違っても、違わなくても。
[だって君はその人にとって]
──自分だけじゃない。春子にとっても俺は
[そう思えるだけの、
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