第25話 追懐

 自分で言うのもなんだが、私はお嬢様育ちなんだ。


 両親共に名家の出身。重箱に入って育った日本人の母と、気の弱いイギリスのボンボン。家同士を繋ぎたいという、平たく言えば政略結婚の駒に、両親は使われた。二人とも、親の選んだ相手と結婚した。



『二人だけの時間』なんて経緯は一時間もなかったらしい。当時母は16歳。父は19歳。酒の味も知らない若者たちは、見合いのその場で結婚を決めた。互いに駒として使われていることは分かっていたから、気を遣い合ったんだろうね。



 そういう意味では、二人とも持っていたんだろう。

『惨めな身の上で、これ以上恥をかかせてはいけない』っていう、敬意が。


 そして、20歳の誕生日。その日、子を育てることなど望んでいなかった母の元に鏡花わたしが産まれた。周りの望みを叶えるだけの役しかない、鏡花わたしが産まれた。


 互いの家が膨大な金をかけて食事から病院まで全てを手配し、本人の身体以外のリスクをとことんまで排除した。これで産めなければ、自分の価値は失われてしまう。そんな環境での出産だった。


 子の命を守るためと言えば聞こえは良いが、母からすれば監獄もいいところ。それでも家からの指示に全て従ったのは、せめてもの反抗だった。もしちゃんと産まれなかった時、お前たちが悪かったと責める理由が欲しかった。


 でも、赤子はちゃんと産まれてしまった。母は逆らう最後の切り札を失った。



 死ぬことを望まれた子は、死ぬことを望まれた私は、母の腹の中で、母の期待を裏切った。



 生きることを望まれなかった子はその後、まるで子育て本に沿うかのように大きくなった。典型的な発育曲線をなぞり、順調を体現するような発達を続けた。



 違いがあるとするなら、同年代の子ども達より知能が高かったこと。三歳の時には既に掛け算と割り算を理解していた。周りの目は次第に釣り上がり、唾を付ける準備を始めた。



 そして、望まれなかった子はついに小学校に入学した。私立の名門。母親も通わされたお嬢様学校。果たしてどんな有望株になるのか。大人たちは、今か今かと収穫の時を待ちわびた。



 そして裏切られた。周りの大人たちは、手を出すのが早かった。そして、望まれなかった子である、私自身も。



 弱気な父とお淑やかな母の間に生まれたその子は喧嘩っ早く、言葉よりも先に手が出てしまう性格だった。

 人生で一番荒れていた時期だと我ながら思う。でもあの頃は、殴った方が会話をするより早かった。


 私は、女らしさが嫌いだった。それは自分らしさを整形する際のイメージ画像。私らしさを否定してくる悪夢。好まれる輪郭になれという脅迫。

 それに徹して生きることは、きっと並大抵のことじゃない。身になるまでも、身になってからも。

 人生を、そのステージに立ち続けることに費やすなら。いったい、どれだけのことを我慢しなければいけない。どれだけ、自分を優先したいという感情を否定しなければいけない。


 感情を抑えるとか、淑女として振る舞うとか。大事だし、凄いことなのは分かってる。でも、今の私にとって、何より優先すべきことなのか。膨れ上がる感情を我慢して、存在証明を腐らせてまで、成るべき姿を目指すのが、あるべき姿なのか。


 私は、私を望まない人の下に生まれた。そして私を望む人は、私ではなく、自分の望むイメージを私に重ねようとしている。


 なぜそんな奴らの為に、私は求められる姿にならなくちゃいけない。

 私の周りに、私の言葉に耳を傾けてくれる人はいなかった。私の心なんて信じてもらえなかった。彼らの見ている私の心は、彼らがそうあれと望む想像の産物。それをあたかも正解のように押し付けてきた。




 私は、私の心が望む姿でいたい。私が私の心に、許される姿でいたい。




 泳げもしないのに、それでも新大陸を目指して。必死にもがくあの子は、我ながら賢かったよ。

 でも勇敢と無謀の違いを分かってなかった。そして何より、経験がなかった。



 あの時の私は、暴れる以外の方法で、反抗する方法を知らなかった。ただ動く事でしか、表せなかったんだ。



 ドレスを着せれば歯ぎしりして引き裂いて、踵の高い靴を履かせれば、膝を使って根本から折る。男勝りとは違う勝気。男らしくなりたいんじゃなくて、女らしくありたくない。

 誰かに求められる生き方はしたくない。自分は常に求める側にいる。



 ただそれだけを示すために、望まれない子は動き続けた。



 事ある毎に手を挙げ、親は何度学校に呼び出されたことか。精神科で検査されたのも一回じゃない。通いすぎたせいで、嫌でも人の顔色見れるようにもなっちまった。


 暴力が悪い事だなんて、大人共アンタらに言われなくても知ってんだ。私が怖いなら模索しろ。止めたいなら学べ。私は此処にいる。此処にいる私を認めろ。



 私は、私以外の誰かの所有物じゃない。心が、意志が、哲学があるんだ。



 幼くっても、若僧でも、経験不足でも。曲げちゃいけないって、そう思える大事なことがあるんだ。生まれた時からずっと、茨より険しい道を歩いて来た。歩ける限り、そこが道であることを、自分で証明してきたんだ。


 子どもという社会的立場。女という性。学校という所属先。問題児という名のラベル。全てを振り払って、この足で道を作った。



 堰鏡花の名前以外の、全てを振り払うように動き続けた。

 後から来る意味さえ追いつけない速度で



 そんなある日。突然空から死体が降ってきた。私の行く先に、心当たりのない死体が降ってきた。母が、自宅で首を吊って死んでいたんだ。



 宙づりになった死体を見た時は、どうして死んでいるのかと自問を繰り返したよ。



 人間って不思議なものでさ。ああいうのを見ると『死んでる』っていう状況整理じゃなくて、『何で生きてない?』って疑問が先に浮かぶんだ。


 死んだ姿なんて見たことないから、当然かもしれないけど。頭の中ではずっと、生きてるつもりで話が進んでた。でも、目の前の母は既に死んでいる。だから話の辻褄が合わなくなって、頭がショートする。


 実際、宙づりの母を見てた時間は10分もないはずなんだ。でも、頭は何時間も死体を眺めていたと記憶してる。



 何もせず立ち呆けて、ただ母親の死体を見つめていたんだ、私は。



 残酷だと思うかい? きっと、皆そんなもんだよ。

 それに、死体を眺めているくらい、残酷じゃないさ。




 子に、自殺の様を見せた親に比べれば。

 実の親を、自殺に追いやった子に比べれば。



 やがて警察が来て、しばらくは事情聴取だなんだと、母の死が何であるかを、正式に規定する作業に追われた。終わったころには冬休みが目前まで迫っていた。

 その間に、私と父は揃って両家から縁を切られた。というか、一方的に、いつの間にか切られてたんだけどね。高貴な方々は、死に方にも拘りたいんだろう。



 でも、おかげで私は纏わりつく全てを剥がせた。

 母親が死んでくれたから、私はあの束縛から逃げ出せた。母が死んだから、私は自由になれた。不謹慎だが、嬉しかったよ。



 そこからまたしばらくして、私達は関東を離れ、関西に引っ越すことが決まった。というのも、母の自殺した家は父の方の家が寄越したんだ。



 本来ならずっと住めた、もとい住まわされたと思うけど、縁を切られてしまったんだ。『俺らに世話をする義理はない』ってことなんだろう。まぁ、疫病神は追い出したいってのが、本音だろうけど。



 退去を控えた私は、父と共に家中を片付けて回った。

 その時に漸く、私はこれまで触れずに来た、母の遺品に初めて触れることになった。そして、その時に見つけてしまった。



 今でも、鮮明に覚えてるよ。部屋の隅あった、縦長のアンティーク調の本棚。四段のそれの、上から二段目の一番右。背表紙の擦れた歴史の本との隙間に、四つ折りになったルーズリーフが挟まってた。


 見つけた時の私は、内容はもちろん、何の紙かも分かっていない。けれど、なぜかこのルーズリーフを絶対に父に見せてはいけないと思い、咄嗟にズボンのポケットに隠して、夜を待った。



 そして、父も街も静まり返った深夜。

 バレないように部屋の電気は付けず、小型の懐中電灯を口に加えて、中を読んだ。



 一人の人間として、読んでおいてよかったと思う。でも娘としては、二度と読みたくない。



 あれは、手紙擬きで遺書擬き。誰にも打ち明けられない、母の、心そのものだった。




 ────────────────




 生まれてから一度と、愛を受けてこなかった。


 だから、私は我が子の愛し方が知らない。あの子を愛する方法が分からない。


 唯一分かるのは、あの子が、あの子の感情を無視され、家の利益の為に使われる運命。どれだけ脱線し、外れようとも、大海のような強さで押し戻される運命。


 その境遇だけは理解できる。その境遇だけは共感できる。


 この共通項を大事にすれば、こんなわたしでも、母親になれるかもしれない。


 ちょっとだけだけど、自信みたいなのが芽生えた。自信の種のような、自分を見つけた。


 でもダメだった。私は、あの子の母親になんてなれっこない。


 あんなに濃くて大きくて強い、一緒の運命を持っているのに、私とは全然違う人生を歩んでる。運命そのものを、絞め殺そうとしているみたい。


 どうしてあの子は逆らうの。どうしてあの子は牙を剥くの。


 運命が決まっているなら、出来るだけ穏便にいればいいじゃない。


 苦しみを増長させる必要なんてないじゃない。


 どれだけ苦しめようとしても、最後には何倍にも、何十倍にもなって返ってくる。


 帰る家も、帰る道さえも制限されてる。嫌だと言ったところで変えられない。変わらない。


 でもあの子は逆らう。嫌なことに嫌いだという。嫌いな事には全身で逆らう。


 先生にも。同級生にも。家にも。私の期待にも。


 もう、何も分からない。あの子がどうして抗うのか分からない。


 苦しいだけじゃない。苦しまされるだけじゃない。


 どうして受け入れないの。どうして傷だらけになっても進んで行くの。


 理解できない。あの子は私の子なんかじゃない。


 きっと宇宙から来てるのよ。でなければ、こんなに嫌いになったりしない。


 でも、それならどうしてこんなに胸が痛いの。どうして、わたしの胸の痛みが消えないの。


 こんなに嫌いなのに。殺したいほど目障りなのに。毎日夢であれって嘆くのに。


 どうして、あの子の傷が


 私の胸にも、刻まれてしまうの。



 ────────────────



[母はきっと、傷つき方だけを知っていた。それが唯一母の出来る、他人ひとの愛し方の種類だった]



 どの言葉をかけるべきなのか。頭の中の辞書を引っ張り出してめくるめく。

 これまで数え切れないほどの言葉を口にし、耳にしてきた。それなのに、登録文字数は十ページ分もない。


 進んでは戻り、戻っては進み。同じ単語を何度も目にする。

 役に立たないと苛立ち、血が上る。養分を吸い取られるかのように、心臓から熱が引いていった。



[手紙を読むだけでも、母の心が苦しみで満ちているのが分かった]

[けど]



 右手にスマホを持ったまま。堰は左手で顔を覆う。


 自分で打った文章であるはずなのに、それさえも見たくない。空気よりも、重力よりも重たい何かが、液状となって、堰の心という容器に満ちていく。

 聞こえないはずの溜息が聞こえる。白までが限界の呼気が、鉛色を孕んでいた。



[今になっても、これだけ時間をおいても]

[母が自殺した理由が、どうしても分かりきらないんだ]



 堰は、初対面の司にも遠慮がなかった。



 あの廃寺で独りでいるのを、良い事があったんだなと解釈することはない。後ろに暗い背景がある。光を反射して追い返す影がある。そんな陰に浸かっていた司に、堰は嫌がらせにも取れる手土産を持ってやってきた。


 猫も杓子も食わない。時におふくろの味であり、時にゲテモノを振るまう。


 意図して気を遣わない。言いたいことを薄めず、思ったことを口にする。言葉も、彼女自身も。全部が実寸大で息をしている。

“良い人の名前は堰鏡花”でなく、“堰鏡花という名でどんな人”。

 その評価の全幅を、相手に委ねている。



 自分を薄めず、無添加の自分を目の前に差し出す。飲む・飲まないの選択を含め、どう感じ、何を思うかまで。


 端から端。額縁からそこに収める絵図までを相手の委ねている。堰鏡花の身なり、形、構図から色彩。他人が表現する自分を鑑賞しようとしている。


 もし拒まれれば自分で飲み、不味いと一蹴されれば素直に受け取る

 また受け取ったそれに、自分を守る為の細工をしない。同じように、綺麗に見える加工もしない。劣化を防ぐ保護も与えない。



 堰はきっと、他人の存在そのものに興味が無いのだろう。だから傷つけることに躊躇が無く、傷つけられることに抵抗がない。

 他人の領域に土足で踏み入れる。聞いただけではただの無礼者の礼儀知らずだ。



 けど、つまらない話を聞いて、そのイメージがぐりんと捻じ曲がった。



[私は、誰かの痛みを、傷を]



 堰は他人の興味がないのではない。



[痛みだと、傷だと、思えないんだ]



 他人の苦しみに興味を持てない。共感性ではなく、関心という土台が丸ごと抜けている。



 どれだけ細かく丁寧に教わっても、自分用に変換して落とし込めない。堰は、自分の痛みしか痛めない。母親とは異なる、無意識の自傷ができない人間。


 ある意味では健康的。でも他人の傷を見て、痛そうとさえ言えない。膝を擦りむいた子供に、絆創膏を貼ってやることが出来ない。



[私にとって、傷つくのは買い物と大差ない。欲しいモノに対して必要な対価を払う行為。違うのは求める物と、傷かお金かってことだけ]



 痛覚に対して鋭い、鈍いではない。恐らくそこは人並みに感じている。人並みで無いのは、他人の痛みに対して極端に淡白であるということ。



 堰は傷を喜ばず、悲しまない。痛みを恐れず、歓迎しない。

 彼女にとって、全て当然の一言で片付く程度のこと。無関心でいて支障がないくらい、贈り物のようにささやかなこと。



[けど、母は違った]

[母にとって傷は特別なことで]

[痛みは刃物を持った敵で、苦しみは木製の首枷だった]

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