第24話 邂逅
女性の名は
見た目こそ司と変わりないが、抑揚の整った落ち着いた話し方から幾らか年上だと思われる。
長い黒髪の所々に入る金髪はイギリス人の父からの遺伝らしく、幼いころから混ざって生えていたらしい。
日の当たる角度で多彩に変化する髪色は月のようだが、本人的にはコンプレックスのようで、褒められても嬉しくないそうだ。
ただ、目鼻立ちの良い顔との共存を目の前にすると、芸術の二文字が呼吸の数よりも多く浮かんでしまう。望むも得られなかった禁忌が、目の前で踊っているように。
[さてと、どうしたものか]
膝に置いたタブレットの画面に、データと化した堰の言葉が映る。
[私は、あの廃寺で眠っている君を拾ってここまで連れてきた]
[だからといって、恩を返せだの礼をしろだの言う気はない]
ダルマ落としとは逆。上へ上へと文章と言葉たちが上っていく。
言い切れば羅列でしかない文字の並びなのだが、そこにどっしりとした重みが感じられた。
[だから、これは単なる私の欲でしかない。それを踏まえた上で、君に問おう]
[君は、なぜあの場所にいた]
司は既に耳と声のことを堰に打ち明けていた。
おかわりしたポトフを飲み切って一息ついた頃だった。
堰からは聞かれたわけではない。散乱したメモ用紙の裏に耳と声が使えないことを記して、司が勝手に差し出した。
死神の事は書かず、精神的があるとした。嘘だけれど、突拍子のない事を話して、異常者と思われるよりはマシだと考えた。
そもそも、あんなところで寝ている時点で、既に不審者には数えられているはずだ。そして好むに該当できるアテはない。
それでも助けてくれた人に、お礼は言いたかった。けれど、もう声はでない。
だからといって黙っておくわけにもいかない。それはそれで不義理だ。
そう、義理を通したかったのだろう。まだ、人の枠組から外れたくなかった。
文面を読んだ堰は僅かに眉をひそめる。しばらくして立ち上がると、いそいそと奥の部屋へ消えていった。犬がその後を追い、猫は司の膝から動かない。
ガサゴソと何かを探す音が静まると、今度は犬が先に戻ってきた。あとを追って戻ってきた堰が小脇に抱えてきたのが、このタブレットだった。
前の職場で使っていた物らしく、仕事で使っていただろうアプリケーションがそのまま残っている。
液晶には大小幾つもヒビが入っていた。それなりの山場を共に超えてきたことが伺えた。
[もちろん、無理に答える必要はない]
[あくまで、私個人が知りたいだけだからね]
背中をさするような憂慮がありながら、留置場で鏡越しに面会しているように一線を引く。
データでしかない言葉は、感情と意思とを分離させる。機械というのは、実に器用だ。
感情を持たず在る意思。方向指示器でもありながら、合成音声は感情を持つようで意思がない。誰かの意思を代弁できるのに、自分の意志は口にできない。
音声なのに口無しというのも滑稽か。根本的に、彼らは朽ちる肉体を持たないのだから。
[念のため補足するなら、具体的な理由や意味が無くても怒ったりしないよ]
[直感でも抽象的でもいい。形の無いものだからって、否定するのは違うと思うから]
頭の中で知らない声が反芻する。無意識に流れるこの声はきっと、想像の堰の声。
水色のネオンライトの芯を、鉛筆のような六角形の透明結晶がそれを覆う。先の尖った文面は目的をむき出しにしながらも、攻撃性は微塵もなく、ただ相手が触れるのを待っている。
何処か感覚を失った人は、残った他の感覚がより発達すると聞く。抽象的なイメージを言語化できるようになったのも、その一種だろうか。
逸る心臓を整えながら、タブレットに文字を打ち込んでいく。
あのまま廃寺にいたら。死ななかったとしても、苦痛が増えることは間違いない。
地獄の門を開ける前に手を引いてもらえたから、自分は暖炉のあるこのロッジでポトフにありつけた。
堰から受けた物に、見合うだけの物を返せるだろうか。
底の見えない泥沼も、木の棒で突けば波紋が出来る。
反響する刺激は小さくとも、静寂が霞む事には変わりない。
もし最悪が重なれば。波紋は膨れて波となり、街を飲み込む。
壊したくなくても、壊してしまう。価値観も、喧噪も、大切も、大嫌いも。
いま司は木の棒であり、それを持つ人物でもある。
堰という水溜まりを突いても平気だろうか。もしかしたら、自分が堰を乱して、乱れた堰は周りを壊すやもしれない。
もしかしたら、何かの犯人に仕立ててしまうかも。真面目に向き合ったせいで。等価を返したいと思ったせいで。
傲慢だろうか。思い上がりだろうか。
紳士として扱ってくれたら嬉しい。肥え太った自尊も、それなりに映るかもしれないから。
[怖くなって、離れたくて]
[思い出さなくて済むように進んでいたら、あそこにいたんです]
字足らず。言葉足らず。到底、真実として足りえない。でも、嘘は言わないようにした。真実を言えなくても、嘘で隠さないようにした。
自分でも分からないことばかり。だけど、出来るだけ今に寄り添う言葉を。
真っ向から、嘘に背中を向けられるように。
スマホに届いた文面に、堰は口元を隠し、背中を丸める。
耳にかかった黒髪が、枝垂れのように落ち、影が目尻と重なる。
小さく揺れる髪の振り子に引き込まれる。瞬きを忘れ、眼の渇きにも気付かぬほどに。
膝から降りた猫は窓際に行くと、日光を浴びながら「にゃあ」とひとつ鳴いた。すると、堰の足元でウトウトしていた犬が耳を立て、窓際へ向かい、猫の隣に腰を下ろした。
[ありがとう。良く知らない私に、こんなにきちんと答えてくれて]
想像の声は、文面を読むと同時に自動で再生される。自分で自分に読み聞かせをしているようだった。
[いろいろ、あったんだね。察するよ]
[けどその辛さは、きっと私には分からないだろうね]
目の前で泣いている誰かを見つけた時、春子ならすぐさま駆け寄って手を差し出す。
周りの視線とか、大義とか、人としてとか。そんなことじゃなく手を差し出す。そんなことを考えるよりも早く、身体が動いてしまう。だから、事後に話を聞いても必ず分からないと答える。
意味が後から追ってこれないくらい速く、動く身体を止められない。振り返ってようやく、自分が動いたことに気付く。
[それは、君の感じている、君の痛みだから]
[誰に譲る必要もない。君が大事にすればいい]
そして、この堰という女性はきっと、春子とは逆の場所にいる。瞬間で身体は動かず、ただじっと様子を窺う。安易に手を出すことが、どれだけ残酷になることを知っているから。ここで助けなければ、今後関わることもないだろう他人で終わる。縁を選ぶ価値を知っている。縁を結ぶことの、危険性を知っている。
[でもね]
[世の中には]
[君の持っているそれを見るだけで]
[死ぬほど傷ついてしまう他人と]
[死ぬほど近くにいてくれる他人がいる]
司は口をポカンと開けて、堰から送られた文章を読み直す。難しい言葉は使われていない。読めない漢字もない。どれもこれもシンプル。そのはずなのに、文章になった途端、単語の意味ごと汲めなくなった。
[やっぱり。司クンは幸せ者だね]
窓際から寝息が聞こえる。二匹は既に夢の中に行ってしまった。
[少しだけ、つまらない話をさせてくれ]
[本当に、世界で一番つまらない話さ]
さっきまで、カップ一個分の距離だった堰の姿が、蜃気楼のように、眩んで見えた。
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