第23話 群像

 無造作な雑草に生える覆われた石造の階段。上がった先で、つがいを失くした灯篭が、崩れた姿で司を出迎える。



 三角屋根に苔を生やした木製の看板。大部分は掠れてしまい、寺という文字以外ほとんど読むことができない。


 恐らくは此処の遍歴が書かれていたのであろう。何を奉っているのか。気になりはしたが、正直、読めなくてよかった気がする。

 人であれ、仏であれ。安易な救いほど。安易な救われほど、無責任で残酷だから。



 控えめな社を囲う支柱は、上から下まで満遍なく黒く染まっている。半液状で繊維質。匂いはないが粘っこい松脂まつやにのような汚れは、触れた指先を瞬時に黒色に染め、張りついてくる。



 注連縄しめなわを吊るすための藁紐は寝癖のように繊維が跳ねて、いつ切れて落下してきてもおかしくない。長らく放置されているのは誰の眼から見ても明らかだった。

 小高い丘という立地であったが、周囲は枯れ木に囲まれており景色も何もない。外にいるのに、閉じ込められているようだった。



 枯れ葉を払い、社のへりに腰を下ろす。ミシミシと内側から軋む音に続いて、尻に濡れるような冷たさが広がる。

 胃の中の物を文字通り全部吐き出して、これもまた文字通り、夜を徹して歩き続けた。



 不思議なことに空腹は無い。ひどいのは眠気。



 日の出から体感で十五分。太陽が高くなるほど、眠気はどんどん強くなっていく。


 ウトウトして、徐々に眠くなっていくのとは違う。バツンっとゲーム機がシャットダウンされるような。そんな眠気が、日の出からずっと続いている。




 ブチッ……ブチッ……




 意識の千切れる間隔が、どんどん短くなっていく。


 気を張っていても鋭利な鎌で断ち切られる。深淵から伸びる手が、船を漕ぐ司の服を掴んで引きずり落しにかかる。


 溺れないように藻掻くが、やればやるだけ体力を消耗して苦しくなる。

 抗うくらいなら、支配されていた方が楽。反乱が平常の世界で、抗いに堪えられなかった民衆が嘆く。


 同じことだ。泳ぎ、藻掻いて苦しむなら、さっさと溺れて死んでしまったほうが、怖がる時間も少ないし辛くない。


 先を見れない司なら尚更。為されたのなら、為されるまま。


 じっと、喰われる時を待てばいい。そこはちゃんと、司含めた何物も飲み込んでくれるから。




 ────────




 夢を見た。腹の上にこぶし大の温石が乗っている夢だった。

 最初はとても心地よかった。熱が身体に浸透するように広がり、身体の芯までほぐれるように温まっていく。

 しかし不思議なことに、この温石は時間が経つに連れ、次第に大きく、重たくなっていった。


 風船を膨らませるように拡大し、比例して質量が増えていく。

 タレ壺ほどの大きさになったころには、完全に身動きが取れなくなった。無理に動けば半身が潰れ、肋骨が粉々に折れて胴体が平らになりかねない。


 何の呪いか。四肢は針金を通したかのように固まり、終ぞ動いたのは右手の親指だけ。


 恐怖と生命に危機に、身体は沸騰したように熱くなっていく。


 身体中の全ての血液が汗となって出切って、いよいよ腹から焦げた匂いが漂ってきた時。察知した死から逃れるように、瞼が引き剥がされた。



 どうやら、逃げ果せたらしい。腹で息をしながら、司は安堵し、そして困惑する。



 さっきまで自分は、寒冷とで出来た薄墨うすずみに滲んでいたはず。それが今、目の前に見えるのは、見慣れない木製の天井で回る、同じく木製のシーリングファン。


 状況を理解しようと起き上がろうとすると、腹がやけに重たいことに気付く。顎を引いて持ち上げてみると、これまた見慣れない灰猫が、前足を隠して眠っていた。



 丸太の形をそのまま活かした柱。風通しの良さそうな、吹き抜けの天井。大学生の頃、旅行先で友人たちと泊まったロッジを思い出す。

 空気中に木の香りが満ち、何処かの作品の世界に入り込んだようであるが、見渡すと所々に生活感が見える。



 ぎゅうぎゅう詰まったゴミ袋がピラミッドを作り、通販の段ボールが開かれることなく積まれ内壁を築き始めている。

 真横にあるローテーブルには、びっちり付箋の付けられた大量のファッション誌と、キャップの見当たらないマーカーペンが数本。そこかしこに散らばるメモ用紙には、走り書きが殴りつけられており呪文のようだった。


 重たい毛布から右手を抜き出し、猫ごと身体を引いて身体を起こす。


 辺りに散乱する衣服。放置されたままの洗い物。稼働中の電子レンジ。

 誰かが住んでいることは間違いないのだが、視界に映る範囲を満遍なく見渡しても、その人物の姿は愚か、影すらも見当たらない。



 身体を捻って、残った背後を確認する。二メートルはありそうな巨大な窓の向こう。何もないコテージで、もふもふの大型犬と楽しそうに話している女性の姿があった。

 仲睦まじいその光景を眺めていると、司の視線に気づいた犬が、跳ねるボールのような足取りで、窓越しに司に近づいてくる。



 犬は飼い主の女性に催促し、女性は「はいはい」といった様子で窓を開ける。スキップして近づいて来た犬は、司の座るソファに顎を乗せ、耳を倒す。期待と願望に満ちた輝く瞳に動揺しつつも、ゆっくり手を近づける。静電気でチラつく毛がくすぐったい。



 司の手と犬の頭の影が重なる。尻尾で興奮を消化しきれなった犬は、自ら頭を押し付けてきた。フワフワの毛並みが指に絡む。手を繋いでいるのとはまた違う、隙間の埋まり方。言葉を話せない分、犬の楽しい、嬉しいの感情が、行動となってダイレクトに伝わってくる。


 もぞもぞ撫でていると、いつの間に目を覚ました灰猫が、脇の下に身体を押し込んできた。



 人間よりも高い平熱のせいか。彼らの纏う空気さえも暖かい。



 同じ種であるにも関わらず、人見知りという言葉があって、該当する人間がいる。


 疑って、怖がって、自傷して、自責して、不信になる。


 同種でも、これだけ怖がっている。種が異なれば......そう比べる時点で既に間違っている。



 けれど、彼らは平然と受け入れた。大げさでもなんでもない。何事もなく、ただ愛してくれた。



 ただ愛で、触れてくれた。



 きっと彼らは、司が人間でなくても受け入れる。

 花でも、影でも、意味でも、夢でも。

 それだけ、愛が身体と心に沁みついている。平凡に愛をこめている。

 だから、何事もなく受け入れた。まるで癖のように。所作のように。



「* * * * * * * * * * * *」



 肩を叩かれ振り向くと、先ほどの女性が大きめのマグカップを持ってきた。黄金色のスープに、パセリと小さなウインナーが二本入ったポトフ。インスタントではない、色んな食材の合わさった香りに、無意識に涎が溢れてきた。



 また吐きだしてしまう。その心配は何処に消えてしまったか。外聞も恥もなく、腹は唸りのように大きな音を鳴らす。

 ウインナーをプラスチックのフォークで刺して、小さく齧る。



 沁み込んだ野菜の出汁と肉汁の組み合わせが、微睡みを吹き飛ばす。

 味蕾が、神経が、いつもの何倍も繊細に研ぎ澄まされ、過敏になっている。湯気の消えないスープは、舌が焼けるほど熱く感じた。



 気付けば夢中で平らげてしまった。女性は気を利かせてお代わりを持ってきてくれた。どこか気恥ずかしそうな笑顔。料理下手を隠したいのか、遠慮なく飯を食う不審者に驚いているのか。分からないから、同じように笑って返した。



 急転直下はあれど、急転直上の言葉は無い。ハプニングはいつも下がっていく。沸騰した熱と同じ。やかんは鳴く時が最高潮。火を止めれば徐々に水に戻る。熱し続ければ、蒸気となって霞んでいく。



 犬と、猫と、暖かいスープ。



 何か分からない不安も、痛みも、苦しみも。この瞬間だけは忘れられた。湯気と温度に霞んだおかげで、見ずにすんだ。



 理想に形を与えるなら、この景色を写真で残す。念のため、題名にも理想と名付けておこう。一度残せば、もう崩れることはないから。

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