第22話 実感
誰が均したか分からない山道。右は上り坂の崖。左は下り坂の崖。心なしか、歩を進めるごとに道が狭まっていく感覚がある。
所々に倒れた枯れ木は、踏み折ろうとするとぐにゃりと曲がる。別の惑星から来た昆虫を潰しているようで気色悪い。体液が飛び散ったらどうしてくれる。
頭を出した太陽は昨日のより白い。
機能不全でも起こしているのか。それとも、司が太陽から離れてしまっただけか。日差しには、一切の熱がこもっていなかった。
「お、夜が明けたねぇ。僕、男の人と一夜を共にするなんて始めてだったよぉ。まだこんなにドギマギしてるのに、司クンったらもう冷めちゃって」
つまんな~いと、独り。舐るように甘える声も、司には聞こえない。
フリをしているのではない。本当に司には聞こえていない。
昨日の深夜か、今日の未明か。山中で起こった事は、振り返るに値しないほど短く、思い出す必要のないほど簡潔であった。
死神と取引をして、死神の提示した代価を司が飲んだ。その際の要求を、死神が受け入れた。それだけしか起こっていない。死神を逢引誘うことは終ぞなく、死ぬこともなかった。
鼓膜も
呼吸器系、声帯とも異常はない。その音だけを失った。歌おうと、
それらの犠牲の上に、春子には確定された二週間の命が贈呈される。
意味があるのか。そう疑う自分がいない訳ではない。けれど、頼らずにはいられない。
淡い期待とはまた違う。経験が、感情が伴っていないから。
知らないことに怯えている。形のないはずの不安に、自分で空気を吹き込んでいながら。
「にしても皮肉だよねぇ。司クンが耳と声失くすのに、使ったのもソレだもんね。料理人が料理で人生を棒に振るみたいなことだよね。怒って毒入れちゃいました☆」
司を含め、多くの人は慣れていない。家族が、親しき友が、知り合いが。身の回りの誰かが、次の日に何の前触れもなく死んでしまうことに。
いや、一度だけある気がする。死そのものではないけれど、死んだような覚えがある。死んだような気持ちに、なった覚えがある。
『恋だなんて、安易にそうと想うなんて、非道だね』
意図せず浮いてきた言葉だった。当然、音としては生まれていない。だから死神は何も聞いていない。頭の中だけで、唐突に浮かんだ文だった。
そうなのか? 自分の言葉のくせに、自分が一番疑っている。
非道? 何が言いたいのか分からない。
安易に想ってしまう? 人なんて、大なり小なりそんなだろ。
恋だなんて? 一体、俺が何に恋しているという。
親は好きだ。でもそれは親として。人として尊敬はあれど、恋人にしたいとは思わない。
友人たちもそうだ。会社の同僚もそうだ。いい人であるが、恋人にしたいとは思わない。
福田か? あの勝気な女医か? 起きるのを急かしたあの看護師か。お世話になった人ではある。感謝の気持ちはたくさんある。けれどやはり、恋人にしたいとは思わない
思っている。想っている。
『いや、勘違いだ。俺、恋してるわ。ちゃんと、ちゃんと恋してる』
生まれる前から一緒にいた親より、長い時間を共にしていく。
津波のように押し寄せる想像が、頭と心をいっぱいにする。
小さな願いは、皺だらけになっても手を繋ぎたい。
大きな願いは、涙の笑顔を看取りたい。
誰でもいいわけじゃない。その人じゃないといけない。
その人とじゃなきゃ、自分の構想がパーになる。
春子の設定で書いたんだ。その設定から逆算した。その過程で願いが生まれた。
終わりまで想定して伏線を張った。一つずつ回収し、最後に綺麗にまとまる算段を組んだ。
司は、恋をしている。結婚してから、恋をしている。
春子を組み込んで考えた、己の人生の脚本に。理想と楽しいを詰め込んで、隙間だらけになったおもちゃ箱に。
好きなんだ。自分の理想が。愛おしいんだ。未到達の憧れの姿が。
何の為に春子を生かすのか。何の為に失ってまで生きるのか。分かった気がする。
理想のデートプランさえ持っていなかった男は、いつしか理想に身を預けた。
それ自体が悪い事で無いのは誰だって知っている。進歩に限らない。理想は時に踏み留まる力をくれる。元々が欲望であっても、望む姿があれば、
親は親であって、子どもは子ども。欲望の間に生を授かろうとも、そこに完全なクローンは現れない。
しかし、完全に切り離すというのも難しい。
では、司の欲望は何だろう。理想を生んだ父と母は、どんな顔をしているのだろう。
こんなだろうな。きっと俺の欲望は…
『泥と膿んだ傷の悪臭の上に、アイロンのかかった綺麗なワイシャツを着ているよ』
大人になっても、司は寂しさを引きずっている。
安心できる住処を貰い、満足な食事を頂き、成長に合わせて着る物を与えられた。
例え他の家より多忙で、共にいる時間が短くても、親の愛情に差はなかった。むしろ、多い方だと子どもながらに感じていた。
家族旅行に行ったとか、外食したとか、誕生日を祝ったとか。それもいいけど、そればっかりじゃない。そればかりが、幸せの正解じゃない。
だけど、けど。いつ帰っても。家の中には、誰もいない。
全ての部屋の電気が消えている。物音なんて聞こえない。階段を上がる音も、水の流れる音も、波紋のように消えていく。虚しさの溜まる、虚空に消えていく。
見たい番組の時間が被った。そんなことで喧嘩する理由が分からなかった。
下着を一緒に洗濯されるのが嫌。そんなことで愚痴を溢す理由が分からなかった。
長風呂で待たされて、なかなか風呂に入れなかった。おかげで寝る時間が遅くなった。
そんな日は一度もなかった。いつも自分で洗って、一番に入っていたから。
イヤなこと。面倒な事。気に喰わないこと。多くの不快の、一割も感じてこなかった。
その代償として対抗させるのは心が痛む。だが事実、家族団らんの楽しい時間は微小だった。
それを本人達に、寂しいとは、言えなかった。あの頃の自分は、今よりもっと、優しい子だったから。
理想の根源は寂しさ。寂しい想いをしたくないという欲望。
独りで生きたくない。出来るだけ賑やかなのがいい。いつ帰ってきても音で溢れている。誰かが必ず出迎えてくれる。誰かの帰りを待つ時間がある。
1だろうが10だろうが。何人分も明るく、楽しくて、幸せそうな人に、近くにいて欲しい。
欲望の埋め合わせ。無意識の中にある寂しさを紛らわすため、司は欲に理想という名札を付けてあげた。その子が、醜いと思われないようにした。
司が愛しているのは春子ではない。寂しさを紛らわしてくれる誰かだ。
なら、春子に固執しなくてもいいのではないか。別の同質を探せば、何も失わずに済んだのではないか。
五体満足のまま。逃げ切ればこっちのもん。家同士の繋がりなんか知ったことか。
結婚しようが、身体を重ねようが、秘密を共有しようが、他人は他人で、その繋がりは薄い。
夜景に重ねたら透けてしまう。太陽にかざしたら溶けてしまう。
手を繋いでいても見失う。瞬きする間に目の前から消え去る関係。命を懸けていれば、何度やり直しても足りない。命は、一つの肉体に一つだ。
ならば尚のこと。遠くを見据えることも選択。賢明だと評する人もいるだろう。しかしそれでは、司のことを知っていない。
欲望の埋め合わせに春子がいる。その春子を放ったら、また埋め合わせを探すことになる。
身体を残すには良作だ。だが司はそこまで頭を回せない。仮に思いついていたとしても、司は探さない。
それは真に春子を愛しているからでも、惰性が湧いて面倒になるからでもない。
一度埋まった空欄が、また空欄に戻るのを恐れている。恋が破れることを、恐れている。
身体を失うか。心を失うか。司の天秤に皿を吊るす紐。
その長さは一度とて等しくなかった
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