【短編】隔たる狂気
森林公園
人には見えない『モノ』が見える。
それは幽霊や宇宙人の類いではない、本来は無機物である『モノ』だ。それが何でできているのか、物心ついた時から見えているというのに、未だに皆目検討がつかない。
『分からない』ということは不安だ。玄関先で鍵の開く音がして、『それ』が近づいて来る気配が分かった。
『それ』は決まって人物と対峙する時に現れる。その人物も一人と決まっている、叔父である。彼は母親の年の離れた弟で、
「やぁ、俊君」
叔父が俊に向かって手を伸ばすと、『それ』は透明度を増して難なく手を通過させた。俊が逆に叔父に向かって手を伸ばそうとしても、今度は濃度も硬度も増すようで、叔父の姿が見えなくなるほど頑なになった。
『それ』というのは所謂『壁』である。他に何か形容しようと思っても、俊にはそれ以外に何にも形容し難い。もうそれが何であるのか、俊には別段興味はない。ただ『邪魔』だとも思わなかった。見たくない対象がその向こうにいたからだ。
俊と叔父の間をぬぅっと遮っている。見るたびに表面の質感は異なって見え、高さも天井を突き抜けていることもあれば、ちょうど叔父の背丈くらいの時もあった。まるで無機質なのに、自由自在に姿を変える『壁』は、恐怖しか感じられない。
目の前に壁がある。だから幼いころ、叔父の方から俊へは触れることはできても、俊から手を伸ばして彼に抱き上げてもらうことは叶わなかった。それを『懐かない甥』と解釈したのか、叔父はもっぱら姉の
姉は、黒髪の美しい少女だった。俊から見ても子どもっぽい性格の割に美しい容姿はアンバランスで、それに惹かれる男たちは数多いたようだ。中学に入って、放課後。先輩などから告白されることもあった。
叔父は、困って自分へ相談する姉に目を細めて、「お前は姉さんに似てるからな」と笑って、彼女の絹のような髪の束を指先で弄ぶ。姉は好きなように叔父が触れることを許した。
俊たちが小さいころ、叔父はまだ大学生で、母とは大分年の離れた姉弟であった。だから家に遊びに来ると、両親と話すよりもその子供たちと過ごすことが多いわけだ。
「俊は
炊事をしながら母親は俊に話しかける。そのもう一人の伯父の話を聞くのは初めてのような気がしていた。ただでさえ中学校から帰って来て疲れきっているのに、叔父の来訪を聞いてどっと疲労感が増した気がした。
訪れた叔父は、姉の部屋で彼女とゲームをして遊んでいた。もう三十半ばになるというのに。
「聡はその兄に何だか遠慮していてね、あんたと聡を見ているとそのころのことを思い出すわ」
『仲良くしなさいよ』と母は言っている。だけどそれは無理だ、壁があるのだから。それを心の中で言いかけて、今日も唇を噛み締めた。言ったとて今更母親が信じてくれるとは到底思えない。
十四歳までそう思って、なるたけ関わり合いのないように接してきた。因果なことに、叔父は俊と似た容姿をしていた。年甲斐もなく前髪をセンターで分けて降ろしている。その姿は若々しく、とても三十代に見えなかった。
同族嫌悪とでも言おうか。女性受けしそうな甘ったるいその容姿を見ていると、歯がムズムズした心地になってくる。尤も、例の『壁』のせいでそれは不明虜だったのだけれど。
それを知ってかしらでか。母親は姉と俊と叔父の分の珈琲をお盆に乗せ、早く持って行けと急かすのだった。仕方がなしに俊は、お盆を持って階段を上って行く。
姉の露と俊とは仲が良い。部屋も隣同士で姉の部屋は階段のすぐ脇にあった。姉は同じ中学校で、同級生も羨むほどの美貌の持ち主であり、俊も割かし女子には人気があった。無論、壁越しに見る叔父も俊たちと同じ塩梅であっただろう。
叔父が来ると姉は俊に構ってくれなくなる。二人の部屋のドアは同じ造りだが、姉の方には可愛い桃色の暖簾が手前に付けられている。俊は階段を上がり切ると、彼女の部屋の前で片腕をお盆から離した。
「う」
ノックしようとした拳が止まる。バクバクとする心臓をおさめようとして手のひらが代わりのように震えた。今のは姉の声で、聞いたこともないぐらい、絶望するほど艶を含んでいた。
冷や汗をかいてドアの前に立ち尽くす俊に、透明な何かが影を落とす。扉が開くかわりに。ぬぅっと例の『壁』が目の前に現れた。そのヌメヌメした壁と扉一枚隔てて、きっと向こう側にあの『男』がいる。
知らず吐く息は、はぁはぁとみっともなく荒くなり、汗が顎を滴り落ちたと同時に、カチャリっと軽い音を立てて扉が内側に開いた。そこには案の定、叔父がニヤニヤ笑いながら立っている。
彼の背後ですぐに扉は閉められてしまったが、ベッドに散る、姉の長い黒髪が見えた……気がした。
「聞こえちゃった?」
「はい」
「俺はちょっと一服してくるよ、運動したからさ」
そう言って、叔父は白いシャツのボタンを、上から順に幾つか留め直した。
「俊君は俺の姉さんにこれを言うの?」
「言いません、知っていましたから」
負けたくないように、早口で言葉が出た。
「へぇ」
『男』はそれに笑って、すれ違い様に半透明な壁を突き破ってこちらの髪の毛に触れた。俊も最近憶えたような、青臭い特有の匂いが鼻についた。
「そういえばさ、聞きたいことがあるんだよ」
俊はただ黙って姉がいるはずのドアを見つめるしかない。
「俺もさー、結構解決するまで苦労したからさ」
意味の分からないことを述べて、叔父は首だけで振り返って、笑って言い足した。
「なぁお前、『壁』はもう壊せた?」
次の瞬間俊は、男の足を思いっきり蹴り払って、傍の階段から蹴り落としていた。地鳴りのような騒音を立てて男の首は変な方向に反って着地している。
「壊せましたよ」
今だけど。
俊はそう言って、まだ片腕に律儀に持っていたお盆を、階下の彼に向かって叩き落とした。
<了>
【短編】隔たる狂気 森林公園 @kimizono_moribayashi
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