ミス・クロウリー

下村アンダーソン

ミス・クロウリー

 クロウリーと契約したつもりなんてなかった。私はただ、居場所を提供しただけのはずだったのだ。


 彼女、と呼んでしまって構わないだろう。少なくとも私には女の声に聞こえたし、輪郭もどちらかというと丸みを帯びて、ほっそりとしつつも柔らかい感じだった。これは勝手な推測だけれど、歳も私と同じぐらいだったように思う。つまるところ、割と好みの雰囲気だったと言っていい。

 彼女が初めて声をかけてきた日のことを、今もって鮮明に覚えている。記憶は鮮明でも当時の私自身はちっとも鮮明じゃなくて、隅っこでぼんやり、居るんだか居ないんだかよく分からないタイプの女だった。この世の悩みのすべてを抱え込んだような顔をして、いつも下を向いていた。くっきりと影ばかりが濃かった。

 だからだろう、クロウリーにとって、私の隣はきっと居心地よい場所に見えたのだ。夕方の図書館でいつものように俯いて、たいして読みたくもない本の頁を漫然と捲っていた私は、彼女にとって理想的なターゲットだったというわけだ。

「ねえ、あなた。ちょっとだけ、私を匿ってくれないかな。ほんのしばらくでいいんだ」

 事務的な用事以外で他人に声をかけられたのが本当に久しぶりだったから、それはもうびっくりした。自分でも馬鹿みたいに大袈裟に本を伏せて、がばっと顔を上げてあたりを見回した。自然な反応の仕方っていうのが分からないから、当時の私はいちいちそういうふうにするほかなかったのだ。

 きょろきょろと探してみても、肝心の相手はどこにも居なかった。からかわれただけか、と思いかけた。ありそうなことだ。

 ところがそのとき、また同じ声がした。

「別にからかっちゃいないって。ここだよ、ここ」

 今度は明確に足許からだと分かった。私は椅子を引いて、机の下を覗き込んだ。

 当たり前だけれど、そんなところに何もあるわけがない。自分の影を除いては。

「よかった。私のこと、見えてるでしょ? ああ、答えなくてもいいよ。私はね、人が考えてることは何だって分かるんだ。お見通しなんだよ――光の当たる場所のことは、ぜんぶ」

 影って不思議なもので、実際の自分よりもずっとすらりとして、背が高く見えたりする。このときもそうで、床を這っていた私の影は、だいぶ現実と違っていた。一言でいってしまえば美しかった。自信と存在感に満ちて、ここが本来の居場所なんだって顔をしていた。

 余裕たっぷりに影は喋っていた。聞き間違えようもなかった。

「私の名前は――そうだな、クロウリーとでも」

「スペルは?」と私は声に出して訊いた。「なんだっけ、ほら魔術の――」

「違う違う、そっちじゃない。私は魔術師じゃないし、ヘヴィメタルの曲にも出てこない」

 はは、と小さく私は笑って、

「じゃあ何なの?」

「別に何でもないよ、あなたが何者でもないように。とにかく今、私には居場所が必要なんだ。ここに居させてほしい。お礼はするからさ」

「お礼って?」

 クロウリーは唇の端を吊り上げた。そんなふうに見えた。

「お望みのものを。言ったろ、私は光の当たる世界のことなら、何だって分かるんだ」


 ***


 そんなふうにして、クロウリーは私の影の内側に居ついた。ただ居る、というだけで、とくべつ何を要求してくるでも、勝手に奪っていくでもなかった。そのうち影が本体に侵食してきて最後には成り代わられてしまう――なんて怪談を連想したりもしたけれど、クロウリーにとって私が、成り代わりたいほど魅力的とは思えなかった。ただ影が濃いから隠れるのには向いているのだろう、とだけ考えた。

「その問題の答えはCじゃない。Aだ」

 普段はおとなしくしている彼女が話しかけてくるのは、決まって私が迷っているときだった。たとえば試験中。ここで成績を上げておかないとまずい、ここだけは落としたくない――そうやって神頼みを始めようとすると、足許から声が聞こえてくるのだ。

「次もA。そのまた次がC。もういいって? けち臭いことを言わない。どうせなら満点を取っちゃおうよ」

 あまりに上手く行きすぎるとそれはそれで具合が悪い気がしたから、クロウリーの助言を役立てるのは必要最小限に留めた。何だって分かる、という言葉は嘘ではないらしく、彼女は本当に多くのことを知っていた。そして何一つとして、間違うことはなかった。

「まっすぐ教室に向かうと、あのいけ好かない教師に出くわす。月曜の朝から顔見たくないでしょ? トイレにでも寄って、時間を潰すほうがいい」

「夕飯を食べたらすぐ、例の通販サイトを確認して。欲しかったスカートが安売りになるから」

「先に図書委員に立候補しておいたほうがいい。最後まで手をあげないでぐずぐずしてると、面倒な人間と組まされる」

「髪をもう少し短く、軽くしたほうが感じがいいよ。美容院は変えるべきだね。いつものところは正直言って、カットがあんまり上手くない」

 煩わしく思ったか? ぜんぜん。むしろ誰かに手助けしてもらえるのがこんなに嬉しいのか、ありがたいのかと、ただそればかりだった。いつでも私のことを第一に考えて、誰よりも私を知っていて、適切な言葉をくれる相手が傍にいる。誰だってひとりで輝くことなんてできやしない――誰もが誰かに支えられて生きているのだと、私は今ようやく本当の私になれたのだと、心から信じることができたくらいだ。

「あの子、あなたに気があるよ。もう自分で気付いてたんだろうけど」

 ある夕方、クロウリーがぽつりと言った。彼女の示す先にいたのは、同級生のシャロンだった。かつての私よりはずいぶんましだけれど、それでもどこか陰があった。要は私と似た、物憂げな感じの子だった。

 ただ彼女が私と違ったのは、私のように、いつも足許を見ているわけではなかったということだ。シャロンは不自然なことこのうえない、かちかちの動作で歩み寄ってきて、

「ねえ、ローズ。最近のあなた、とっても明るくて、前向きで、すごく羨ましいな。私も――あなたみたいになれたらって、思うんだけど」

 クロウリーに言われたとおり、いつからかシャロンに好意を抱かれているのは知っていた。嫌な気はしなかったし、相手が女性であることへの抵抗も皆無だった。だから私が行動を起こしさえすれば、もっと早い段階で彼女と親しく、特別な関係に至れていたのだと思う。そういった行為への憧れは、私にだってずっとあった。ただ暗がりの中に押し込めて、意識しないようにしてきただけで。

「別に、そんなことないよ」と私は答えた。「ただ――声に耳を傾けるようになっただけ」

 そう、嘘を吐いたわけでは決してない。しかし誰だって、こう言われれば受け取り方はひとつに決まっている。

「なりたい自分になれるように努力したんだね。すごいな、ローズは」

 私は笑いながら曖昧に頷いた。それからシャロンを自宅に連れ帰り、ベッドの上で初めてのキスをした。


 ***


 幸せの絶頂がいつだったのかと問われても、答えるのは難しい。明確に下降線を辿っているなら、過去を振り返ってあそこと指差すことができたかもしれない。しかし私は派手に落下することなく、多少の浮き沈みはありつつも安定した日々を送った。シャロンは刺激的な人間ではなかったけれど、そのぶん穏やかで、私たちは長続きした。

 とても幸せ、とシャロンは繰り返し言った。そのたびに、私も、と答えた。

 確かに私は幸せで、シャロンといる限り大きな間違いは起こらないように思えた。小さな間違いはもちろん起こったのだけれど、ふたりで話し合って修復できる程度の、本当に些細なものに過ぎなかった。隣り合って柔らかな毛布にくるまっているような日々がずっと続くのだろう、という予感を得るのに充分な時間を、私たちはともに過ごした。

「こんなに幸せだと、ときどき不安になるの」

 ごくたまに、私はそんな言葉を洩らすことがあった。シャロンの答えは、いつも決まっていた。

「大丈夫だよ。今までだって大丈夫だったし、これからも大丈夫なの。今日と同じように明日が来て、ただそれを繰り返していくだけなの」

 普段はそれで納得して眠りに落ちるのだけれど、その晩、私は軽い抗弁をした。シャロンを責めたかったわけでも、喧嘩をしたかったわけでもない。ただ漠たる不安に抗えない夜だった、というだけだ。

「それが駄目になったら?」

「そのときは」とシャロンは私の髪を撫でながら言った。「声に耳を傾けて。明るくて、優しくて、前向きな心の声に従うの。それでぜんぶ、上手くいくから」

 その言葉に、意識が引き寄せられた。

「クロウリー」

 私は声に出さずにつぶやいた。黙りこくって、耳を澄ませる。結果は知れていた。

 彼女の声はもう、どこからも聞こえなかった。

 私は毛布を跳ね除け、立ち上がった。ぼんやりとした照明を浴びて部屋の壁に浮かんだ影はぼんやりとして、薄かった。

 どうしたの、というシャロンの言葉を背中でだけ聞きながら、寝室を飛び出して階段を駆け下りた。家じゅうを歩き回りながら、ただ繰り返した。

「クロウリー。どこなの? 戻ってきて」

 そう、いるわけがない。ただ認めたくなかっただけだ。

 疲れ切り、キッチンの椅子に腰かけて、私は長いこと足許を見下ろしていた。クロウリーがいたはずの場所。誰よりも私をよく知り、理解し、手を差し伸べてくれた人。

 幻覚のはずはない。だってあんなに惨めだった私が、ただ自分の意思だけでこんな幸せを掴めたわけはないのだ。何もかも彼女のおかげだった。クロウリーが傍にいたから。

「迷ったら、困ったら、悩んだら、どうすればいいの? 私は何も知らないんだよ」

 シャロンに相談する、という考えが脳裡に浮かび、すぐさま消え去った。

「あの子じゃ駄目だ」

 彼女はいつものように、大丈夫だよ、としか言わないだろう。何の根拠も告げることなく、ただ私を抱き締めるだけだろう。自分の体温を伝えさえすればすべての悩みが解決するのだと信じ、振る舞うだけだろう。

 クロウリーは違った。彼女は、何一つ間違わなかった。

 そもそも、シャロンが道標としたのは私だ。クロウリーがいなくなった今、私はあの頃と同じ、哀れで無能な女でしかない。彼女を導けるだけの知恵など、まるで持ち合わせないのだ。

 だとしたらこの先、私たちは幾度となく間違えるはずだ。そしていつか、取り返しのつかない不幸に落ちていくはずだ。

 そうなる前に、クロウリーを呼び戻さなくてはならない。

 再び床へと視線を落とし、ああ、そうなのか、と思った。

 私の影が薄くなったから、クロウリーは居心地が悪くなったのだ。薄まった影は、隠れ場所としてふさわしくなくなったのだ。これまでいくつもの助言を与えてきたことで、充分に恩は返せたはずだと、これで契約はおしまいだと、クロウリーは考えたに違いない。

「そんなことないよ、クロウリー」

 私はゆっくりと立ち上がり、排水溝の下にある戸棚に手をかけた。

「ねえ、クロウリー。もう一度、あなたのための場所を作ってあげる。私と一緒がいちばんだって、あなたに思い出させてあげる」

 開いた戸棚の扉の内側に仕舞ってあったナイフを掴み、引き抜いた。刃の鈍い煌めき。

 どこよりも色濃くて居心地がいい場所。私の中の暗がり。

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