絵画修復師

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

 

 ミオさんが月曜日にお父さんと行くレストランは大きな港町の山の手にあります。花のはちえをいくつも並べた店先に青白赤のフランス国旗トリコロールをかざったおしゃれなお店です。テーブルが五台しかない小さなお店ですが、料理はとても美味しいのです。

 ミオさんが通う学校はこのお店の近くにあるので、毎週月曜日の夕方には直接お店でお父さんと待ち合わせをします。

 ミオさんのお父さんは貿易会社の社長さんです。会社が少し遠くにあるので、先に来てお店で待っているのは、いつもミオさんでした。

 その日もミオさんが先にお店に来て、いつもの予約席よやくせきでお父さんを待っていました。

 店内に絵が飾ってあります。フルーツの絵です。ラフランスやマスカットやオレンジなどが、とてもみずみずしく描かれていて、美味しそうな香りがただよってくるようなきれいな絵なのです。ミオさんのお気に入りの絵でした。

「絵がいつもと違うみたい」

 ミオさんは絵を見ながら小さく首を傾げました。きたての絵のように絵の具の色があざやかで、フルーツは先週見た時よりもっとみずみずしく、美味しそうに見えます。

「修復してもらったんですよ」と、オーナーシェフのノガミさんは言いました。

 先週、大きな地震がありました。そのとき壁から落ちて傷ついたこの絵を、ノガミさんは絵画修復師に頼んで修復してもらったのです。絵画修復師は、傷ついた絵や、汚れた絵を元通りに直してくれる、絵のお医者さんです。

 この絵は、二十年前ノガミさんがお店を開いたとき友達の絵描きさんが描いてくれた絵だそうです。修復師は絵についた二十年分の汚れも落としてくれました。画家のサインもはっきりと見えます。でも、くずした字なのでミオさんには読めませんでした。

「いらっしゃい。ハヤトさん」

 ハヤトさんはミオさんのお父さんです。

 お父さんはお店に入るなり立ち止まり、何かを思い出しているような顔をして、しばらく絵を見つめていました。

 ノガミさんとお父さんがフランス語で話し始めました。ミオさんはフランス語がよくわかりません。ミオさんのお母さんはフランス人なのですが、ミオさんが五歳のときに亡くなったのでお母さんからフランス語を教えてもらう時間がなかったのです。

 二人は電話テレフォヌのことを話しているようでした。


 日曜日、ミオさんは絵の修復をお願いするため、ノガミさんが紹介してくれた絵画修復師のドナさんを訪ねました。ドナさんは五十年前からこの町に住んでいるフランス人です。

「夫はいま手が離せないので、三十分くらい待っていて下さいな」

 奥さんのアンヌさんはそう言ってミオさんをアトリエのとなりにあるティールームにまねき、お茶と手作りのケーキをごちそうしてくれました。 

 アトリエから話し声がきこえます。フランス語で話しているようです。

「夫が絵描えかきさんと話しているのよ」

「絵描きさん?」

「絵を修復するには、その絵を描いた人に相談するのが一番いいわ。絵のモデルさんと話すこともあるのよ。いま夫が話している相手はシャガールさんね。絵を描くときに使った絵具のことをきいているみたい」

「シャガールさん?」

 マルク・シャガールという有名な画家は大むかしに亡くなっています。ドナさんが話している相手は、きっとシャガールという同じ名前の絵描きさんなんだろうとミオさんは思いました。

「おまたせしました。絵を見せて下さい」

 ドナさんに呼ばれ、ミオさんはアトリエに入りました。シャガールさんはいませんでした。帰ったのでしょう。

 イーゼルに絵がのせてありました。それは町の美術館で見たことのあるマルク・シャガールの作品でした。

 ミオさんがドナさんに修復を頼もうとした絵は、お父さんがオフィスの壁に飾っていたものでした。お父さんが吹かすパイプの煙に十年間もいぶされつづけ、何が描いあるのかさえわからないほど茶色く変色していました。さらに、先週の地震で

壁から落ちて倒れた家具の下敷きになり、ひどく痛んでいました。  

「これはひどい。キャンバスが悲しみに染まっている」

 ミオさんには、ドナさんが悲しそうな顔で言ったその言葉の意味がわかりませんでした。


 ミオさんが家に帰った時、お父さんは丁度電話で話しているところでした。フランス語で話していたので貿易のお仕事の電話だろうとミオさんは思いました。ただ、ミオさんにはお父さんの声がなみだごえのようにきこえました。


 次の日、お話がありますという電話をもらったので、ミオさんは学校の帰りにドナさんのアトリエを訪ねました。

 まだ仕上げが終わっていないからと、ドナさんは絵を見せてくれませんでした。

「この絵を描いた人はとても才能のある画家でした。将来を期待されていた人です。でも彼はいま、絵を描いていません。この絵を描いたひとつき、彼が愛していた人が亡くなったのです。画家は悲しみのあまり一枚の絵も描けなくなってしまいました。画家が愛した人はこの絵のモデルさんのひとりです」と、ドナさんは言いました。

 ドナさんは絵のタイトルを教えてくれました。

 絵のタイトルは『月曜日のレストラン』でした。ノガミさんのお店と何か関係があるのかしら…とミオさんは思いました。


 ミオさんとお父さんが毎週月曜日にお店に行くわけを、ノガミさんが話してくれたことがあります。

「パリのレストランでハヤトさんとエマさんが結婚式をあげた日が月曜日だったんですよ」

 エマさんはミオさんのお母さんです。ミオさんのお父さんはパリに留学していたときにフランス人のエマさんと出会い恋におちて結婚しました。

 パリのレストランは月曜日がお休みなのです。お休みの日のレストランを借りて二人は結婚式をあげました。結婚式をあげたパリのレストランはノガミさんが料理のしゅぎょうをしていたお店でした。レストランのオーナーが、貧乏だった二人のためにお休みだったお店を貸してくれたのです。

「それだけではありません。二人が初めてであった日も、ハヤトさんの誕生日もエマさんの誕生日も、そしてミオさんの誕生日も月曜日だったのです。ハヤトさんにとって月曜日は特別な日なんですよ」と、ノガミさんは教えてくれました。


「この絵のモデルさんは二人です。一人の姿は何とかふくげんしましたが、もう一人は絵具ががれていて、どんな表情をしているのかわかりません。それがわかったら絵の修復は直ぐに終わります」と、ドナさんは言いました。

「どうぞ、召し上がれ」

 アンナさんがラフランスのコンポートをアトリエに持って来てくれました。

「おいしい」

 ラフランスのコンポートはノガミさんのお店でよく食べるお気に入りのデセールデザートでした。

 ドナさんは「おいしい」と言った時のミオさんの笑顔をじっと見た後、アンナさんに「メルシー」と言いました。


 修復し終った絵をドナさんが見せてくれたのは一週間後の日曜日でした。

 画家のサインはノガミさんのお店にかざってあるフルーツの絵のサインと同じでした。

 絵のモデルは、ノガミさんのお店のいつもの席に座ったエマさんとおさないミオさんの二人でした。

 絵の中の親子は幸せそうに微笑ほほえんでいます。

 幼いミオさんの前にはラフランスのコンポートが置いてあります。

「あなたのお母さまともお話ししましたよ」

 ドナさんがそう言って、絵を見て涙ぐむミオさんにハンカチを渡しました。

 ミオさんのお母さんは十年前に亡くなっています。ドナさんはきっと絵を描いた人や絵のモデルさんと、たとえその人たちが亡くなっていたとしても話ができるのだろうと、ミオさんは思いました。  

「あなたと暮らせて私は幸せでした。あなたとミオを私は心から愛しています。もう悲しむのはやめて、またすてきな絵を描いて下さい」

 このエマさんの伝言でんごんを、この絵を描いたハヤトさんに伝えて下さい、とドナさんは言いました。

                                  おわり

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絵画修復師 Mondyon Nohant 紋屋ノアン @mtake

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