想い出泥棒、参上、です!

Han Lu

あいのめもりい

 想い出泥棒の噂が出始めたのは、町に金木犀の香りが漂う、秋のなかばのことだった。

「どーん!」

 目の前に突如、女の子が現れた。ちなみに、どーん、というのはそういう音がしたのではなくて、その女の子が口にした言葉だ。

 そのとき僕は、昼間近所のコープさん――生前、母が生協のことをコープさんと呼んでいたのがすっかりうつってしまった――で買いこんだ食材で、鶏肉と根菜の煮物を作っているところだった。日曜の夕方のルーチンワークのようなもので、週の前半のおかずはそれで何とかなる。作り置きというやつだ。耳には古い密閉型のヘッドフォンを付け、流し台に置いたiPhoneでヨ・ラ・テンゴの『エレクトロピューラ』を聴いていた。だから最初はその声にまったく気が付かなかったのだけど、曲と曲の切れ目でかすかに「どーん」という声が聞こえて、ふと振り返ると、冷蔵庫の前に十歳くらいの女の子が腕を組んで立っていた。

「うわ」思わず包丁を取り落としそうになって、慌ててまな板の上に置くと、僕はヘッドフォンを外して首にかけた。「え? なに」

「どーん!」

 女の子はそう言って、こちらをにらんでいる。

「誰?」

「想い出泥棒、参上じゃ」女の子は口元をゆがめた。たぶん凄みをきかせようとしているんだろうけど、年齢が年齢なだけに、奥歯にくっついたキャラメルを舌で取ろうとしているみたいに見えた。「おぬしの想い出をいただきに来た」

 想い出泥棒のうわさは聞いていたけど、まさか本当に出るなんて。しかも、こんなちっちゃい子だったとは。

「君が、想い出泥棒?」

「いかにも。そのうちの、ひとりじゃ」

「そのうちの、ひとり?」ということは、ほかにもいるのか。「どうやって侵入したの」

「そこはそれ、泥棒じゃからな。そんなのはたやすいことなのじゃ」

「はあ……」僕はしげしげと女の子の姿を観察した。髪は二つに分けてゴムでくくり、パーカを着て、タイツの上に半ズボンを履いている。

「君……名前は?」

 泥棒が名前を名乗るはずがないだろうと思ったけど、女の子はあっさりと口を開いた。

「のじゃロリ」

 いや、それ名前じゃないし。

「いや、それ名前じゃないし」

 と、僕の心の中の言葉と全く同じセリフが僕の右手から聞こえて、そちらを振り向くと、キッチンの入り口に、眼鏡をかけた少女が立っていた。

「え」ひとり増えた。「ええっと、君も」

「はい。想い出泥棒、参上、です」

 新しく現れた少女は、くいっと眼鏡を押し上げた。

「感心しませんね。それ」

 眼鏡少女は、僕の首にかかっているヘッドフォンを指さした。

「料理とは」くいっと眼鏡少女はまた眼鏡を押し上げた。「味覚、嗅覚だけでなく、あらゆる感覚を使うことが肝要です。もちろんそこには聴覚も含まれます。五感というのは、非常に大事です。今時珍しくご自分で料理をなさっているのに、もったいない。もしもあなたが、料理においてさらなる高みを目指したいのであれば、今後は音にも注意を向けることをお勧めします」

「はあ……」

「そもそも料理の料とは――」

 と、まだ続く眼鏡少女の言葉を、のじゃロリがさえぎった。

「スー、おぬしまた話がずれていっておるぞ」

 うっと眼鏡少女は言葉を飲み込んだ。

 ん?

「スー?」

 という僕の問いに、眼鏡少女はうなずいて、自分を指さした。

「私はスー。で、あの子はラン」

 なんだ、名前あるじゃん。っていうか、名前言っていいんだ。いや、っていうか、ランとスー? 「ということは、まだもうひとり――」

「はーい。ご明察」

 という声が、シンクの向こうに備え付けられているカウンターの方から聞こえた。

「想い出泥棒、参上よ」カウンターに片ひじをついて、三十歳前後の女性がこちらに微笑みかけていた。この人どこかで見たことがあるような気がする。

「ミキ、さん」だよね。

「さすが、昭和生まれ」ミキさんはふふふ、と笑った。

「でも、なんで三人」

「だって」ミキさんが、ウエーブのかかった肩までの髪を軽く払った。「泥棒といえば、三姉妹でしょ。でも、ひとみ、るい、あいじゃないところがミソよね」

「それ、まんまだし」眼鏡少女が言った。「あたし、レオタードなんて着たくないし」

「わしは着てもよいぞ」のじゃロリが手を腰に当てた。

「そもそも、レオタードとは――」

 眼鏡少女がくいっと眼鏡を上げるのを見て、僕は口をはさんだ。

「想い出泥棒ということは、僕の想い出を盗みに来たのか」

「ああ。それはね」ミキさんはうなずいた。「もう、盗んじゃった」

「もう、盗んだ?」

 のじゃロリと眼鏡少女の方を振り返ると、ふたりは同時にうなずいた。

「いつの間に」

「つい、今しがたじゃ」と、のじゃロリ。

「えっ。ちっとも気付かなかった。いや、そもそも、具体的にどんな想い出を盗まれたのかもわからないし」

「そりゃあそうよ」ミキさんが笑った。

「想い出を盗まれたということは、その想い出を思い出せないということですから」眼鏡少女が続けた。

 なるほど。つまり僕にはもう永遠に、どんな想い出が盗まれたのかわからない、ということか。

「でも、どうして。なんのために、僕のその想い出を――」

 と、僕が言い終わらないうちに、ピンポーンと、インターフォンのベルが鳴った。

 キッチンの壁のディスプレイに、サングラスをかけて、トレンチコートを着た若い女性が映っている。見覚えはない。とりあえず、通話ボタンを押す。

「はい。どちらさまでしょう」

「こんばんは」トレンチコートの女性がサングラスを外した。「今、そちらに想い出泥棒が来てますよね」

「え、ええ」

「詳しい話は、そちらで。開けていただいていいかしら」

「あの、あなたは」

「泥棒といえば、探偵でしょ」

 一分後、トレンチコートの女性の体温ほか各種バイタルデータとウィルス非感染という表示を確認して、僕は彼女を招き入れた。

 居間のソファに、僕、想い出泥棒の三人、そして探偵と名乗ったトレンチコートの女性が座った。この家に、こんなにたくさんの人が集まったのは久しぶりな気がする。

「ごめんなさい」探偵がキッチンの方を振り返った。「お料理の邪魔をしてしまって」

「いや」僕は首を振った。「あとはもう煮るだけだから。本当はHASに任せちゃっていいんだけど」

 探偵は、感じのいい微笑みを浮かべて、うなずいた。

「さて。まず最初にはっきりさせておきたいのじゃが」のじゃロリが探偵に向かって言った。「おぬしの依頼主は誰じゃ」

「それは明かせません」探偵はわずかに頭を下げた。「申し訳ありませんが」

「まあ、だいたいの見当はついているがの」

 のじゃロリが目配せすると、眼鏡少女とミキさんはうなずいた。

「それで」眼鏡少女が、くいっと眼鏡を上げた。「あなたの目的は」

「あなたたちが盗んだ想い出を取り戻します」

「ふん」のじゃロリが鼻を鳴らして、ミキさんを見た。

「いいわ」ミキさんが腕を組んだ。「お手並み拝見といこうじゃない」

 こくり、と探偵はうなずくと、僕の方に向き直った。

「勝手に話を進めてしまってすみません。そういうことで、構いませんか?」

 まだ状況がよく飲み込めてないけど、なんにせよ盗まれたものをそのままにしてはおけない。

「僕としても盗まれたものは取り戻したい」

「わかりました」探偵はうなずいた。「これからいくつか質問をしますから、それに答えてください」

「あ、はい」

「大丈夫です。難しいことは聞きませんから。ところで」探偵は、テーブルに置かれている僕のiPhoneを指さした。「それ、すごく古い型ですね。いつぐらいから使ってるんですか?」

  僕は記憶をたどった。「ええとiPhone18だから――かれこれ二十年近くになるな」

「もうOSは更新できませんよね」

「この中の音楽を聴くだけだからね、特に問題はないよ」

「これを買った時のこと、覚えてますか」

 これを買ったとき。確か――。 

「確か、僕はまだ会社に務めてて、妻もまだ家にいて、一緒に買いに行ったのを覚えてる」

「奥様は、今は?」

「ここを出て、隣町で店を出している。輸入雑貨の小さな店だけど、繁盛しているみたいだよ」

「お子さんがいらっしゃいましたよね」

「息子が。結婚して、子供もいる」

「お子さんをちゃんと育て上げられて、ご自身も定年まで勤め上げられた。ご立派だと思います」

「いや、別に立派でもなんでもないよ」僕は首を振る。「僕たちの世代は、それが当たり前だったから」

「盗まれた想い出は、特定の人物に紐付けられている場合が多いのですけど、奥様やお子さんたちの記憶はちゃんと持たれています。おそらく、ご家族に関する想い出ではない」

 探偵は、ちらっとミキさんに視線を向けた。ミキさんは、かすかに笑みを浮かべ、探偵と僕のやりとりを眺めている。

「ちょっと、立ち入ったことをおうかがいします」探偵が僕に視線を戻した。「奥様とはどちらで知り合われたのですか」

「妻とは社会人になって数年後に知り合った。取引先の会社の受付をしていたんだ」

「それ以前に、お付き合いされた人は?」

「大学のときにひとり。でも卒業前に別れてしまった」

「じゃあ、高校のときは?」

「高校は……」口を開きかけて、止まった。高校時代。僕は誰かと付き合っていたっけ。「思い出せない」

 探偵がこちらに身を乗り出した。

「落ち着いて。よく考えてください。高校時代のことで、なにか大事なことを忘れている気がしませんか」

「大事なこと」言われてみれば。「確かに、なにか大事なことを忘れている気がする。でも、思い出せない」

「慌てないで。ゆっくりでいいですから、高校に入ってから起こったことを、順を追って思い出してみてください」

「ふうん」ミキさんが足を組みなおした。「なかなかやるじゃない」

「じゃが、記憶の量は膨大じゃ」と、のじゃロリ。

「それに」眼鏡少女が、くいっと眼鏡を上げる。「今から五十年以上も前のことです。なんの手掛かりもなく思い出すことは困難でしょう」

 確かにそうだ。戸惑う僕に探偵が告げた。

「手掛かりはあります。先ほどの反応から、たぶんあなたには高校時代に誰か重要な人物、おそらく付き合うことになる人物がいたと思われます」

「高校のときに付き合っていた人」確かに普通ならそれは覚えていて当然の人物だ。

「なくした想い出を取り戻すのに有効なのは、その想い出に強く結びついている要素をたどることです」探偵が言った。「例えば、その人と出会ったときや付き合うようになったときのことを連想させる音や匂い、味、手触りなど五感に関連するようなもの、天候や季節といった周囲の環境などです。それがあなたのなかで想い出とともに深く根付いているはずです。まず、それを呼び起こすのです」

 と急に言われても、うーん、とうなる僕にミキさんが言った。

「苦戦し始めたみたいね」

「いいえ」探偵がゆっくりと首を振る。「この人はきっと思い出します」

「そうかしら」ミキさんが首をかしげる。「私がこうしてここにいる時点で、望み薄な気がするけど」

 探偵はミキさんの思わせぶりな言葉には反応せず、僕に向かって言った。

「では、目を閉じて。あなたの高校のことを思い出してください。馴染みの深い風景なんかを」

 僕は目を閉じた。そして、僕が通った高校のことを思い浮かべた。正門へと続く長い坂道。白い校舎の壁。グラウンド。校舎裏の自転車置き場。

「自転車……」僕はつぶやいた。

「自転車が、どうしました?」

「自転車で通ってたんだ。学校まで。それで、自転車置き場が校舎裏にあって……」僕の言葉はそこで途切れた。

「自転車で通っていたということは、あなたにとって自転車置き場は日常的な場所のはずです。でも、そこが気になるということは、そこで特別なことが起こったということです」

「特別なこと」

「自転車置き場と、なにか五感に結びつくような感覚はありませんか」

 僕は再び目を閉じた。まぶたの裏に、校舎裏の自転車置き場をイメージする。五感。景色。音。匂い。味。手触り。音。僕の耳にザーッという、激しい雨の音が聞こえた。

「雨が」僕は言った。「雨が降ってた。夕立。激しい雨が」

 目を閉じている僕に、探偵が語りかける。「その日あなたは自転車置き場にいて、そこに激しい夕立が降ってきた。それから?」

「それから……僕は待ってた」

「その人を待ってたんですか?」

「そう。僕は彼女を待ってた。いや、僕は夕立を待ってた。雨が降るのを待っていたんだ」

 突然僕の脳裏に、そのときの記憶が鮮明によみがえった。高校一年の秋だ。その日の放課後、僕は――。


 僕は待っていた。

 午後から夕方にかけて、激しいにわか雨が降る確率は九十%。自転車置き場の屋根の向こうに見える空は、どんよりと重い。あいいうえおあお。演劇部の発声練習が聞こえてくる。「駅長さあん」。二限目の現国の授業、教科書を朗読する彼女の声がよみがえる。「駅長さん、弟をよく見てやって、お願いです」。彼女ほど聴く者の心を惹きつける朗読をする人を、僕は知らない。決して大げさではなく、かといってよそよそしくもなく、適切な温度と距離感をもって、彼女は文章を読んだ。中学からずっと、僕は彼女の朗読を注意深く聴き続けてきた。彼女の声を思い出しながら、僕は何度も教科書を読み返した。空は、さっきよりもさらに暗さが濃くなっている。「あ。どうしよ。傘忘れた」。その日、昼休みの教室で、隣の席の彼女と目が合った。「えらい。傘持ってきてる」。たまたまそのとき僕が手にしていた、折り畳み傘を見て、彼女が言った。「帰り、降ってたら、入れてもらおっかな」。

 突然激しい雨音が襲ってきた。

 滝のような雨が、地面を叩く。自転車置き場のトタン屋根を打つ雨音が響く。

 そこで僕は自分が間違いをおかしていることに気が付く。部活が終わって彼女はいつも裏口から裏門を通って下校していた。でも、今日は部活がない日だ。ということは、自転車置き場の前は通らない。

 僕は自転車のかごの中のカバンから折り畳み傘をひっつかみ、正面玄関に向かって全速力で走り出した。

 昇降口の階段を駆け上がる。開け放たれた入り口で、僕は立ち止まった。運は僕の味方らしい。下駄箱に上履きを入れようとしている彼女が、目の前にいた。

 全身びしょ濡れの僕は、しずくをしたたらせて、下駄箱の方へ近づいた。

「よ、かった。まだ、いた」呼吸を整えながら、僕は言った。

「どうしたの? だ、だいじょうぶ?」

「はー」僕はうなずいて、息を吐いた。

「傘」彼女は、僕の右手に握り締められている折り畳み傘を指さした。「なんでさしてないの」

「うん、まあ。ちょっと」僕はスニーカーを脱いで、来客用のスリッパを板張りの床の上に置いた。

「待って」彼女は鞄からタオルを取り出して、僕に差し出した。「これで拭いて。風邪ひいちゃう」

「あ、いや」僕は少しためらって、でも結局タオルを受け取った。「ごめん、ありがと」

 彼女は上履きを履くと、廊下に置かれている長椅子のところまで行き、端に座った。

 僕は頭をタオルでごしごしと拭いた。「引っ越し、さ。いつ、だっけ」

「来週の日曜日」

 僕も長椅子の反対の端に座った。

 タオルを首にかけて、僕は言った。「もうすぐだな」

「だね」彼女はうなずいた。「この学校、けっこう気に入ってたのになー。この町も好きだったしさ。残念」

 僕は自分の足元をじっと見つめた。

「せっかく君とも、最近よく話すようになったのにね」

「ああ、うん」僕はうつむいたまま言った。「そう、だな」

「中学でも同じクラスだったのに、ぜんぜん喋んなかったもんね」

「ああ、うん」

「中学のとき、一緒のクラスだったの、知ってた?」

「知ってるよ、もちろん」

 ようやく僕は顔を上げて、彼女を見た。

「ふふん」

 微笑んでいる彼女に、慌ててまた僕は視線を落とした。 

 雨音が止んだ。

 周囲が徐々に明るくなっていく。

 顔を上げると、外は完全に晴れわたっている。

「うわー」彼女が立ち上がった。「見て見て。すごいよ」

 彼女は飛び跳ねるようにして駆け出し、下駄箱の前の板張りの端まで行くと、外を見わたした。

「なんか、きらきらしてるよ」彼女は僕を振り返り、また外を見た。「きれー」

「うん」

 僕は、外の景色ではなく、彼女の後ろ姿を見ながら言った。 

「一年だって」彼女は、外を見たまま言った。

「え」

「お父さんの転勤。一年たったら戻ってくるって。ここに」

「そ」僕は慌てて立ち上がる。「そうなのか。な、なんだ、そうか」

「うん」

「一年か、そうか」

「たぶん二年生の二学期には間に合うと思う」

「そっか。よか――」と言いかけて、僕は口をつぐんだ。

 彼女はいぶかしげに、僕の方を振り返った。

「どうしたの」

「お、俺さ」僕はぎゅっと手に持った傘を握り締めた。「好きだった、お前の朗読。現国のさ。ほら、教科書。読むやつ。あれ、俺、すっごくうまいと思ってた。いつも。聞きながら、感動してた」

「ありがと」彼女は笑った。「そんなこと言われたの初めてだな。えー。なんか照れるな。えへへへ」

「あ、ははは」僕もぎこちなく笑って、でもすぐに、しっかりと彼女を見つめた。「だからさ、また帰ってきて、聞かせてくれよな」

「わかった」彼女は僕の方へ近づいてきた。そして、小指を立てた右手を僕の顔の前に突き出した。「じゃあ、約束しよう」

 ためらいがちに、僕は自分の右手の小指を、彼女の小指に絡ませた。

「待ってて」彼女は言った。

 僕はうなずいた。

「それで」指を結んだまま、彼女は小さく首を傾けた。「君からは、なにか言いたいことはありますか」

 ほんの少しだけ、僕の小指に力がこもった。

「戻ってきたら、俺と付き合ってください」


 目の前に探偵がいた。

「思い出しましたか」

 僕はうなずいた。「思い出した。しかも、すごく鮮明に。まるで昨日のことみたいだった」

「フラッシュバルブ現象です」探偵は言った。「忘れていたことを一気に思い出すと、そういうことが起こります」

「僕は彼女と高校二年の秋から卒業まで付き合った。それから僕たちは別々の大学に進んで、結局別れることになった。それと――」

「それと?」探偵が尋ねる。

「もうひとつ、思い出したことがある。僕たちは――僕と彼女は高校を卒業してから、もう一度、会っている。偶然。僕たちが三十代の頃だ」

 僕はミキさんを見た。

「君だったんだな」

 ミキさんは微笑んだ。

「ええ。私の外見は、彼女とあなたが再会した当時――正確にいうと、三十二歳の頃の彼女の姿を再現している。もちろん、中身は違うけどね」

「ああ。それはわかっている」

「だよね。それじゃあ、そろそろ私たちは退散するわ」ミキさんは探偵に言った。

「ごめんなさい」探偵は三人の泥棒たちを見渡した。「すっかりあなたたちの仕事の邪魔をしてしまって」

「いいわよ、別に」ミキさんは肩をすくめた。「こちらの手間が省たし、楽しませてもらったわ。料金ももらってるしね。特に問題はないわ」

「おぬし、なかなかの手際じゃったぞ」のじゃロリが探偵に言った。

「そうですね」眼鏡少女もうなずいた。「興味深い体験をさせていただきました」

「さよなら。またどこかで」

 ミキさんのその言葉を合図に、想い出泥棒たち三人の姿が消えた。ジジ、というHASのネットワークからログアウトするときの独特の音を残して。

「さて」僕は探偵に向き直った。「そろそろ君の正体を明かしてもらえるかな」

 探偵は名刺入れから一枚の名刺を取り出して、僕に手渡した。「改めまして。橘探偵事務所の春日井と申します」

「あの三人を雇ったのは君か」

「はい。直接連絡をしたのは私です。でも、それを指示したのはあなたです」

「でも、僕は――」

「ええ。覚えてない」

「いったい、僕になにが起こってる」

 春日井さんは少し思案した様子をみせてから、口を開いた。「ここ二十年ほどの、大きな社会的変化、ご存じですよね」

「母親が家からいなくなった」

「もともとは、新型ウィルスの流行に対応するため、MR技術などが飛躍的に進化したのが大きな要因だったと、学校で習いました」

「MRとAI、ロボティクスの統合による家庭内システム、HASが、家事のほとんどを肩代わりするようになった。家事全般から、女性は解放された。それと並行して、女性の社会的地位が急速に向上した。結果、家を出て自分で稼ぎ、独立した人生を送る母親たちが増えていった」

「うちも、私が中学に入ったくらいから、母は仕事を再開しました。今はもうほとんど父のところには戻っていません」

「結局のところ、彼女たちを家庭につなぎとめていたのは僕たち夫ではなかったということだ。彼女たちが粛々と家事を行っていたのは、彼女たちがそれをやらなければ家庭が立ち行かなくなるからだ。それによって一番大きな被害を被るのは子供たちだからね。それは避けなければならなかった。でも、家事をやる必要がなくなったら、彼女たちをつなぎとめているものはなにもなくなった。そうやって、多くの夫たちは置き去りにされたわけだ」

「特に、一九七〇年代から九〇年代に生まれた男性たちはひどく困惑したようですね」

「茫然自失世代。僕は一九七六年生まれで、まさにそのひとりだ。僕たちは、それなりにまじめに働いて、子供を育て終えて、定年を迎えて、そしてその挙句、配偶者から突然見捨てられたわけだ。それは、茫然とするよ」

「ところで、最近の暮らしはどうですか」

「僕は……定年になって十年、妻が出て行って十五年だから、もう慣れてしまったよ」僕はキッチンを振り返った。「料理も上達したしね」

「ちなみに、ここ数日はどうですか。なにか変わったことはありましたか」

「ここ数日?」僕は思いを巡らせた。「いや、特に変わったことはないけど」

「では、昨日なにがあったか、言えますか」

「昨日。いや、特になにも。いつもと同じだよ」

「具体的には」

 具体的に。昨日、具体的になにがあった?

 僕の表情を見て、春日井さんは話し始めた。

「茫然自失世代に共通して、ある変化が起きました。記憶の欠落です。まず、日常の記憶が欠落していきました。さらに、過去の特定の記憶も。あなたが彼女の記憶をなくしてしまったみたいに」

「ということは」僕はさっきまでミキさんたちのアバターが座っていたソファを見た。「彼女たちが盗んだわけではないんだな」

「はい。彼女たち想い出泥棒の本当の目的は、欠落した記憶をよみがえらせることです」

「つまり、さっき君がやってみせたようなことか」

「人は、想い出を盗んだと言われたら、どうするでしょう。先ほど、あなたは言いました。盗まれたものは取り戻したいって。想い出を盗まれたなら、それがどんな想い出だったのか、どうやったら取り戻せるのか、知りたがるものです。記憶が欠落してしまった人に、想い出を盗んだと思い込ませて、記憶をよみがえらせる。さっき私がやったみたいに。それがあの人たちの仕事です。ご家族からの依頼が多いです」

「いったん取り戻した記憶は、なくならないのか」

「自力で思い出した記憶を再度失う可能性は低いといわれています」

「侵入対抗防壁を構築して、脳とHASを繋ぎ始めている時代だからね。想い出を盗むと言われて信じてもおかしくはない」

 そして、日常の記憶の欠落。

「僕はどの程度忘れているんだ」

「イレギュラーな出来事を忘れる傾向にあるようです。昨日、息子さんが訪ねてきたのを覚えていますか」

「いや」そんな記憶はない。「リアルで?」

「いいえ。アバターです」

「息子とは一年くらい会ってないと思っていた」

「特に、アバターとのやりとりは忘れやすい傾向にあります」

「だから君はリアルでやってきたんだな」

「はい。入社して初めてです。紙の名刺を使ったの」春日井さんはテーブルに置いた名刺入れにそっと触れた。「あなたは彼女の記憶が薄れつつあることに気付き、私に今回のことを依頼しました。あなたが彼女のことを本当に思い出したいと思っているか、判断してほしいと。そして、もうひとつ」

 春日井さんは、僕のiPhoneを操作して、僕に手渡した。

「あなたが記憶を取り戻したら、こうするようにと」

 画面には、彼女の名前と、連絡先が表示されていた。

 僕は、窓に映っている自分の姿を見た。白髪の男。僕が子供の頃の七十歳とは比較にならないくらい若い。昔の七十歳といえば、老いさらばえた存在だった。でも、窓に映っている男は、違う。果たしてそれが幸せなことなのかどうか、僕にはわからない。

「彼女と会ったのは一度きりだった。どちらにも家庭があった。だからお互い、もう連絡を取り合うことはしないでおこうと、そう言って別れた」

 僕は春日井さんを見た。

「私になにかアドバイスを求めているのですか」

 僕は春日井さんの表情から、なにがしかの感情を読み取ろうとしたけど、できなかった。

「いや」

 再び僕は、窓に映った男の姿を見た。白髪の男は相変わらず、困惑した表情を浮かべたまま、暗い夜の向こうに背中を丸めて座り続けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

想い出泥棒、参上、です! Han Lu @Han_Lu_Han

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ