最終話

 そのとき、玄関のベルが鳴った。人魚も、カラスアゲハも、人面鳥もテントウムシも、一瞬にして消えた。

 なにかの勧誘だろうか。二度目のベルが鳴るが、寝巻きなので出られない。そもそもこんな時間にアポなしで来た人に対して、この物騒な世の中、誰が馬鹿正直に出るというのだ。

 しかし、彼らが姿を消したのは好都合かもしれない。このチャンスを逃すまいと、ベッドから床に下り、カナブンに手を差し伸べる。カナブンも実は疲れていたのか、すぐに手にとまる。逃げられないように、つぶさないように、軽く手の指を握り、カナブンを包み込む。それにしても警戒心がなさすぎる。握りつぶされたらどうするつもりなのか。まあカナブンは、最近の人間にはそんな根性などないことはわかっているのかもしれないが。

 ふと、このまま逃がさないで飼ってみてはどうかという考えが頭をよぎる。虫籠や、カブトムシ用の餌を買えば、しばらくの間死なせないで置いておけるかもしれない。

 飼ってどうするというのか。また変なものを呼ばれてしまうかもしれないのに。もしや、日を改めてもう一度今の光景を見てみたいだなんて、私はそんなことを考えているのだろうか。カナブンは私の手の中でじっと息を潜めている。こんなカナブンとだったら、うまくやっていけるかもしれないと思う。

 ドアの向こうにいる人が、今度は三度ノックをする。小さなアパートでは、そんなノックでさえも内蔵に振動が伝わるようだ。つい「やめてください」と出たくなってしまうが、油断してはいけない。出たら最後、なにを押しつけられるかわからない。

 三度のノックが再び繰り返される。私が出るまで続けるつもりなのかもしれないが、こういうことは当然ながら、待っていれば過ぎ去っていく。もし本当に宅急便の人だったら申し訳ないが、今ドアを開けるわけにはいかない。改めて、ちゃんとした時間に来てもらったほうがお互いのためだと思い、そのままにしておく。

 手の中を覗こうとすると、カナブンがむずむずし始めた。普段堅い木の幹や枝をつかんでいる手足は、弾力のある肌を踏むのは心もとないのか、落ち着かない様子だ。カナブンにとって、人の手の中は不快な場所なのだ。虫籠の中だってやはりそうだろう。偶然飛び込んできてしまったからといって、やはり私たちは一緒には暮らせない。

 窓辺へ行き、カーテンと網戸を開けて、ベランダにあるクチナシの木に、そっとカナブンをとまらせる。カナブンが小枝にしがみついて落ち着くのを見届けると、ガラス戸を閉めた。

 カーテンを閉めて振り返ると、いつの間にかノックの音も止んでいた。

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カナブン 高田 朔実 @urupicha

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