第5話

 いつの間に入ってきたのか、灯りの下では人魚が泳いでいる。そんなに大きくはない。池でぶらぶらしている鯉程度の大きさだ。仮面はつけていないので、直視すれば顔はわかりそうだが、見る気にならない。人魚のほうも、特に私を見ようとはしない。ベッドから彼らを見上げているだけなので、呼びかけない限り視線が交わることはない。

 人魚のお供でもしているのか、数匹のカラスアゲハの姿も見られる。半透明な翅は、透けて向こうが見えている。表面には、あの偏光パウダーを塗ったようなエメラルドグリーンのきらめきも見える。思わずこんな飾りが部屋にあったらほしいと思うような、きれいな物体だ。そう、物体であって、生き物のようには感じられない。これらはまるで映画のスクリーンでも見ているかのようで、実態があるように思えない。いつの間にか虫たちの羽音もしなくなっている。飛び方も、さっきよりもゆるりとしてきている。

 目を閉じてしまえば、気配だって感じられないかもしれない。このまま時間の流れがおかしくなっていくのだろうか。私はどこへ連れていかれるのだろう。

 こんなのが部屋の中に普通にいて、見ているだけでも気分がいいとは言えないのに。彼女の場合にはこういうものたちが近寄ってきて、やることなすことに口出しして、だめ出ししていたのだとしたら、そんな生活、私だって耐えられそうにない。今だって、彼らは灯りに夢中だから私なんて眼中にないだけで、なにかの拍子で灯りが消えてしまったら、どうなるというのだ。我に返って、出て行ってくれればいいけれど、もし私に興味を持ってしまって、ちょっかい出してきたら、どうしていいかわからない。

 さらに恐ろしいのは、私がこの状況に早くも慣れてきてしまっていることだ。十分前はカナブンすらいなかったはずなのに、次はなにが現れるのだろうと、怯えながらもどこか楽しみですらある。

 最初のうちは新鮮でまあいいのかもしれないが、これが日常になったらどうなるのだろう。おそらく、彼女にはこれ以上のことが日々起きていて、逃げようがなかった。いつまで続くのか、どこまで続くのかわからなかった。一見終わりがないように見える日々の仕事も、「お疲れ様です」と言って職場を出れば、とりあえず追ってはこない。貯金は欠かしていないし、本当に嫌になったらいつでも辞められる。新たな職場のほうがいいところだという保証はないが、少なくとも今の状況からは逃げられる。しかし、自分の中にあるものからは逃げられない。

 ふと、私はなぜあの半透明の蝶を見てカラスアゲハを連想したのかと思い、はっとした。黒くもなんともないし、形だけで名称がわかるほど蝶に興味はないのにそういう発想が出たのには、理由があった。これらにそっくりな、白っぽい透明な素材でできた翅に偏光パウダーが塗してある、そうやって作られた蝶が四匹くらいついている、そんな飾りを以前見たことがあったからだった。いつのことだったか、みんなで遊んだ帰りに、駅ビルの雑貨屋さんをぶらぶらしていたときだった。彼女は立ち止まって、じっとそれを見ていた。私が近づくと気配を察して振り返り、笑顔を見せ、またその飾りに目を向けた。値札には、「カラスアゲハのモービル」と書かれたシールが貼られていた。もしかしてというべきか、やはりというべきか、人魚は彼女なのだろうか。そう思えば、そう思えなくもない。しかし、違うと思えば違って見える。こういうときは、呼び止めて、向かい合って、確かめるべきなのだろうか。

 きっと声をかけてしまったら、私も無傷のままではいられない。なにかが決定的に変わってしまうだろう。でも、確かめたい、話してみたい、今さらなにを話すのか、影が薄かった私のことなんて忘れているのではないか、それに生前の記憶なんてないかもしれない。もし違ったら単なる骨折り損になるかもしれなくて――なんでこの状況でそんなことをいちいち気にしているのだろう、無駄に終わったらそれに費やした労力が惜しいとでもいうのか、どれだけケチなんだ、でもやっぱり怖いし、人違いだったら気まずいし、どうしよう、どうしたものか――。


 

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