第4話

 彼女は、一度は正社員として就職したものの、数か月で退職することになった。退職後は、次々と職場を変えながらアルバイトを続けた。しかしどれも長くは続かず、徐々に引きこもるようになっていった。ブログにはそう書かれていたものの、みんなの前ではそんなことおくびにも出さなかった。そんな自分は少数派であることはわかっているし、少数派であるがゆえの珍しい話を面白おかしく笑って話す余裕は、もはや彼女にはなかった。二十代初期、あるいは半ばの、就職したばかりの若者たちの話題に上がるのは、九割がた職場の愚痴だった。昔はよかった、あのころは楽しかった、それに比べて今はねぇ。お金をもらう代償がこれだ、まったくやんなっちゃうよ、そんなことを言いながらもみんなどこか楽しそうだった。どこかに雇ってもらってくびになっていない、それだけで、自分は社会から必要とされていると思える。やってらんないけど、まあしょうがないよねという思いを共有できる。そんな中で、彼女だけは、その輪に入れない。

 高校生のころは、私よりも頭がよくて、笑うときの声も可愛くて、誰よりも敏感に周りの気配を察して立ち振る舞っていたというのに。どうしたらよかったのだろう。もう少し強ければよかったのだろうか。もう少し頭が悪ければよかったのだろうか。もう少し鈍感だったらよかったのだろうか。働き始めたら、周りに迷惑をかけるなんて当然で、気にしないのが社会でやっていくためのルールとでも言わんばかりの日々。同じことを別の人にも頼んでいたのに、すっかり忘れて私にもやらせて、一日がかりで準備していたら「あ、それもう終わってるよ」と言われる。頼んだ本人は「ごめん」の一言ですべて忘れる。そんな中、みんな上手にババを押しつけ合って、自分が最後にならないように、逃げるときだけは見事にやってのける。ババを引いたほうも、「ああ来ちゃったねえ」くらいの感覚で、特にショックを受けているようでもない。当初は戸惑っていた私も、ここでお金をもらい続けるためには、多かれ少なかれ、似たようなことをしないといけないとわかってきた。なんだかんだきれいごとを言いながら、私だって結局は同じ穴のムジナなのだ。だから辞めもせず、だらだらと勤め続けられるのだ。外部から見たらLさんとなんの違いがあるのだろう。私がやらなくたって誰かがやるんだ、と念仏のように唱えながら、灰色のバトンを回し続ける。確かに彼女は、そんな世界ではやっていけなかったかもしれない。「そんなのおかしいです」とはっきり言って、「じゃあいいよ、君、もう仲間じゃないから」と言われて、いにくくなって、辞めたかもしれない。あまりの愚かさに冷ややかな視線だけを残して去っていったかもしれない。事務処理能力や人を慮る気持ちなんて、二の次なのだ。一番必要とされるのは鈍感力だとしたら、たしかに、彼女にはそれが足りなかったと言えるのだろう。純粋なままで生きていかれるのなんて、せいぜい学生の間だけなのだ。

 彼女がいなくなってから、なんでそれが私じゃなかったのだろうと、しばらく考えた時期があった。それは私でもよかったはずだった。彼女がつつがなく大学に通っていたころ、私はなにもかもが嫌になって、アパートに引きこもっていた時期があった。日がな一日、六畳の部屋の中だけでときを過ごしていた。ほかにも自称引きこもりの知人がいたが、彼のアパートは、「引きこもりにしては娯楽のない部屋だ」と評されつつも、少なくともテレビとゲーム機があった。私の部屋にはテレビはなく、ラジオすら満足に聴けない状況だった。古本屋で数十円で買った文庫本の数々が小さい本棚一つ分置いてあるだけだった。いずれにせよ一日寝転んで、反故紙に殴り書きする値打ちもないような不平不満をちまちまと育てていただけだったのだから、娯楽なんて必要なかった。外部から入る情報といえば、ガラパゴス携帯を介してのものだけだった。それも常にサイレントモードにしていて、気が向いたときにメールを読んだり留守電を聞いたり無視したりしているだけで、外部と直接やりとりすることもなかった。そんな日々が一月ほど続いた。

 なんだかよくわからないうちに、新学期なんだから来なよ、と周りの人がそれとなく気を使ってくれて、いつの間にか学校に戻っていて、形式的に大学を卒業して、紹介で入った会社で働き始めていた。人手が足りずに困っているときだったので必要以上に優遇されて、そして少し慣れてくると、ここにい続けるためにはみんなの仲間に入らないといけないことがわかってきた。納得できなくても、とりあえず毎日人が集まるところに必ず溜まっていく黒いもやもやしたものを少しずつみんなで引き受けて、回していかないといけないことに気づいていった。それがあまりに自然に回っていたのか、タイミングがよかったのか、ずるいとか汚らしいと感じる隙もないくらいに、新しいことを覚えるのに必死で、会社に慣れるのに必死で、考えたり吟味したりする余裕もなくて、ただお金が欲しかった。引きこもっている間、ただ生きているだけでお金が消えていく状況を知って、恐ろしくなったのかもしれない。そうしてなぜだか私はまだ生きているのだ。もし私が必死になりながらも、感性を研ぎ澄ますことを忘れずにいたら、自尊心を失わないでいたら、同じようになっていたのではないか。彼女だったらこんな日々に甘んじてはいないはずだ。そんな彼女だから、私は常に負い目を感じ続けて、彼女のようになりたいと思ってみたりして、自分には無理だと悟って、妬むこともなかったとは言えなくて。理想であるかと思えば近づきたくない、そういう位置に、彼女はい続けた。そしてある日、忽然と消えた。

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