母校にて
いちはじめ
母校にて
母校の教室は当時のままであった。
彼女は、恩師に会うために母校の中学校を訊ねていた。
教室をゆっくり歩きながら、ボードに張り付けられたポスターや年表を眺めていると、前方の入り口から中年の女性が教室に入ってきた。
「お待たせしたかしら」
「いいえ先生。お久しぶりです」
彼女は恩師に向かって丁寧にお辞儀をした。
先生は、中年とは思えないほどの若々しい声で、にこやかに言葉を返した。
「久しぶりですね。何年振りかしら」
「え~と……、何年になるのでしょうか」
彼女は少し恥入るようにはにかんだ。
「あらあら、相変わらずね。六十と二年四カ月。なんなら分の単位まで教えてあげてもいいわよ」
笑いながら先生は、彼女に席を勧め、自分はその前の席に、スチール机を挟んで座った。
「月日が経つのは早いものですね、もうそんなにもなるんですか……」
彼女は感慨深げにそういった後、少し意地悪な笑みを浮かべて切り出した。
「先生、光くんは今も在校生ですか?」
「えっ、いきなりその話?」
二人は顔を見合わせクスリと笑った。
光くんとは、二年生の時にクラスに転校してきたイケメン男子のあだ名で、学年中いや学校中の女子生徒が恋に落ちた、といっても過言ではない程の生徒だった。しかし学校以外では誰も見かけたことはなく、住所録の住所にも住んでいた形跡がなく、なぞの転校生と呼ばれだした三年のある日、突然登校してこなくなり大騒ぎになったのだ。
「あれは新しく追加されたプログラムだったんだけど、ちょっとまずかったわね」
「ええ、ひどいもんでした」
「ほぼ均一的な容姿のあなた達の中に、イケメン男子を加えて異性に対する反応をデータ化する実験だったの」
「均一化に嫌気がさしていたところに現れたものだから、どうやって気を引こうかしらと、私も夢中になっていたのに、ちょっとしたトラウマになりました。先生の責任ですからね」
「そうかしら、そのお陰で恋愛スキルが上がったという分析があるわよ。素敵な旦那様を捉まえられたのは、私のおかげじゃないかしら?」
「いやだ、先生」
二人は声を上げて笑いあった。
ひとしきり笑った後、先生は寂しそうに語った。
「でもあの件から、あなたは私たちに不信感を持つようになった……」
「私、そのことで先生に謝らなければならないとずっと思っていたんです。でも、どうしても出来なくて……」
「いいのよ、分かっているわ」
「いいえ、私は先生に反発した挙句、教育庁へテロを仕掛けてしまったんですから」
彼女はそう言うと俯き、しばらく二人は気まずさの静けさに包まれた。
先に口を開いたのは先生だった。
「テロだなんて、あなたは利用されただけで何も悪いことはしていない。それが証拠に、あなたには何のお咎めもなかったわ」
「ええ……、私のしたことはとても子供じみたものでした」
「それは私の責任でもあるわ。あなたはあの教育プログラムが適用された最初の世代。辛い思いをさせてしまったと今でも思っている」
「あの日、課外授業で教育庁データ処理室の見学があった日、途中で内通者に荷物――後に電磁気爆弾の部品と知りました――を渡す手筈でした。空調の効いただだっ広いデータ処理室の中で、ちかちか点滅している緑のランプの冷たさは、プログラムそのものでした。でも見学していて分かったんです。インプットされている膨大なデータは、多くの先生の生徒に対する暖かい愛情が詰まったものであったことを。そして先生にはそのデータがながれていることを……」
「そう、それであなたは当局に連絡してくれたのよね。あなたの理解のお陰で私は今も進化し続けている」
先生はそう言ってほほ笑んだ。
教室は、いつしか夏の黄昏に包まれていた。
「先生、私、もうお別れしなくては。最後にやっと謝ることができて良かった。先生と出会っていなかったら、私の人生はどうなっていたか。先生は本物の恩師です。愛先生、本当にありがとう」
「お礼を言うべきは私の方です。人について多くのことを教えてもらったのですから」
彼女は先生の両手をしっかりと握った。黄昏に染まった二人の頬に涙が幾筋も流れた。その姿は見る見るうちに、当時の若く美しい女性教師と制服姿の瑞々しい女子生徒に変化していた。
その女子生徒は病室のベッドに横たわり、家族に見守られながら、七十七歳の生涯を閉じようとしていた。額には仮想現実空間にダイブするための装置が装着されている。それは、今わの際には彼女が卒業したVR中学校を訪れたいという彼女のたっての願いによるものだった。
彼女は仮想現実空間の中学校で教育を受けた最初の世代だった。
彼女の顔を間近で見つめていた小さな女の子が、母親を振り返り無邪気にこう告げた。
「おばあちゃんが、涙を流してAI先生ありがとうって言ったよ」
母校にて いちはじめ @sub707inblue
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