第4話 消滅
怖い夢を見た。
あたしがあたしでなくなる夢だ。
なにかおそろしいものに食べられて、身体をのっとられてしまう。
そんな、荒唐無稽な夢。
「目覚めたかな、ニア」
ドクター・グレイルの落ち着いた声に、あたしはゆっくり首を巡らせた。
医務室のベッド。今はカーテンが開いていて、ドクターは近くのモニターを眺めている。
「あの、あたし……、」
「喧嘩に巻き込まれるとは災難だったね。まあキナミもレイナも、それからカイルも反省していたから、許してやって欲しい」
そっか。
あの3人が揉めるのを止めようとして、失敗したんだっけ。頭の位置をゆっくり直すと、微かに後頭部が痛んだ。場所からいって、デスクの角で打ったんだろうなあ。はあ、間抜けすぎる。
「軽い脳しんとうだろう。幸い、こぶになっただけで傷は無いし、今日は部屋に戻ってゆっくり休みなさい」
「え、でも」
「心配しなくても、僕はもう充分休んだからね」
言われて時計を見ると、既に交代時間を過ぎていた。けっこう長い間気を失っていたらしい。ゆっくりと身体を起こす。短い間に寝たり起きたりを繰り返しているせいか、時間の感覚が曖昧だ。
「大丈夫かい? 痛みは?」
「いえ、もう大丈夫みたいです」
軽く頭を振ってみたけれど、もう痛みは感じなかった。
「メディカルチェックも大きな問題は無かったよ。安心していい」
メディカルチェック?
そうか、頭を打ったから。なんだか少し不安になったけれど、その原因は見つからなかった。ドクターが問題無いというのなら、気にしなくてもいいだろう。
「すみません。じゃあ、少し部屋で休みます」
「うん、それがいい。何かあったらすぐにコールするように」
大真面目な顔でそう言われたので、少し可笑しかった。
ドクターの声は優しくて安心する。少しだけ故郷のお父さんに似ているのだ。
「はい、わかりました先生」
医務室を出て居住エリアに向かい、最初の角を曲がる。
すると廊下の壁にもたれて、カイルが立っていた。
「や、ニア」
「カイル」
少し驚いて立ち止まる。こんなところで何をやっているんだろう。
「どうしたの? これから休憩?」
「いや、まだあと2時間ほどは労働時間」
じゃあどうして? と目顔で問うとカイルは決まり悪そうに一瞬視線を外した。
「ごめん、オレのせいでニアに迷惑をかけた」
「違う、違います。あたしが余計なことをしたから悪いの」
「キナミとレイナとはきちんと話をしたし、今後はこんなことは無い。あと、二人とも……特にキナミは反省していたから、彼女のことも許してあげて」
「えっ、反省なんて……あとであたしからも二人に謝っておきますね」
「――、ニアは良い子だな」
ぽんぽんと頭を撫でられて、嬉しい反面ちょっとだけ悔しい。
悔しいと感じてしまうのは、きっとあたしもキナミやレイナと同じ。カイルのことが気になっているからだ。ずっと打ち消そうとしていたのに、やだな、今になってわかっちゃった。あと一週間で地球に着いちゃうのに、ね。
「で、身体は大丈夫?」
「うん。ちょっとこぶができたけど、あとは平気です」
「平気ってことないだろ。何かお詫びに……っていっても、ここじゃたいしたことはできないか」
「全然、いいんですって、気持ちだけいただいておきます」
ふるふると首を振ると、カイルは何が可笑しかったのかすいと目を細めて笑った。
一歩だけ、こちらに近づく。
「じゃあさ、地球に帰ってから。落ち着いたら美味い飯でもおごるよ」
地球に帰ってから?
心臓がひとつ、どくんと跳ねた。
えっと、それは地球に戻ってもまた会ってくれるという意味だろか。
「またまたぁ。そんなことばっかり言ってるから、キナミやレイナが本気にしちゃうんですよ?」
いや待て、うぬぼれてはいけない。
カイルは誰にでも優しいし、社交的で明るくてモテる男で、きっと故郷にだって彼を好きな人がたくさんいるだろう。あたしに気を使ってくれているのは、罪悪感と社交辞令の合わせ技に違いないのだ。
「社交辞令じゃない」
だけどカイルは少し背中を丸めて低い声で言った。
「オレは本気。地球に戻ってからも、ニアに会いたいんだ。だから、約束してくれる?」
「カイル――、」
何と答えたらいいのかわからなくて見上げると、カイルはぱっと両手を挙げてにかっと笑った。
「っと、この話は休憩時間にちゃんとしよう。オレ、あと二時間で交代だから」
「あ、うん、ハイ」
「よかったらそれから、一緒に映画でもどう?」
「ふふっ、いいよ。他の人も誘いましょうか?」
「誘わない。二人で見よう。何がいいか考えておいて」
そう言って、カイルはひらっと手を振るとブリッジの方へ歩き出した。
どうしよう――嬉しい、かもしれない。
だって、カイルは明るくて、いつだって優しくて。
この船では一番年下で一番役に立たないあたしを、いつも気に懸けてくれる。
だけどあたしなんかって思っていた。キナミは少しキツいけど気っ風が良くて楽しいし、モデルのようにすらっとしている。レイナはすごく色気があるし、美人だ。
それに比べたらあたしなんて、せいぜい若さと元気くらいが取り柄なのに。
ぽーっと後ろ姿を眺めていると、カイルがふと足を止めた。
えっ、まさかぼんやり見惚れていたのがバレた?
咄嗟のことに動けずにいるあたしに、カイルはきびすを返して近づいてくる。
「ごめん、忘れてた」
「えっ、」
「これ、医務室の机の下に落ちてたんだけど……ニアのじゃない?」
そう言ってカイトが差し出してきたのは、確かにあたしの本だった。
持ち込みを許された、数少ない私物のひとつ。でも、いつ落としたのだろう。確か、これを読んでいたのは一昨日だ。あの日も医務室で待機していた。もうじき地球に着いちゃうなー、なんて考えていたらやたらに故郷が懐かしくなって、それでこの本を引っ張り出して読んでいたのだ。
そう、読んでいたのは覚えている。
それから、何か――、何かあったんだっけ?
「好きなの?」
「えっ」
「その話。ずいぶんと古めかしい本を読んでるなって。“紙の本”自体骨董品だけどさ、その話も古典だよね。砂漠で異星の王子様に出会う話だろ?」
「うん。あたし、この本に憧れて宇宙に出たいと思ったの」
この話は宇宙の話じゃないけどね。だけど、広い宇宙のどこかにこんな可愛い王子様がいたらいいなって妄想してた。うう、小さい頃のあたしってば、夢見がちがすぎる。
「……オレも昔、読んだことがあるよ」
「え、ホント?」
「不思議な話だよな。羊の絵の話が好きだった」
「あ、箱の中の?」
「そう」
頷いて、カイルが笑う。
王子様にせがまれて描いた羊の絵をすべて否定されてしまった“僕”は、最後に羊ではなく木の箱を書くのだ。もちろんその絵に羊の姿は見えない。
だけど、『この中に君の羊はいるよ』と言うと、王子様はようやく喜んでくれる。
箱の中の羊。目には見えないけれど、そこにいる。
――――そこにいた?
「本当にいるのかな」
どうしてかそう呟くと、カイルが不思議そうに首を傾げた。
こちらに向けられたふたつの丸い――ああ、その瞳に、あたしの姿が映っている。
「え、何が?」
「羊、本当にいるのかなって思って」
「王子様がいると信じているんだ、だからそこに居るんだよ」
カイルはにっこりと笑って手を伸ばすと、あたしの髪を梳いた。
そのまま背中を丸めて顔を近づける。目を閉じる間もなく、唇と唇が触れた。
「……っ、」
「ごめん、ちょっとフライング」
「カイル」
「好きだよ、ニア」
「……ありがとう、あたしも」
カイルが信じてくれるなら、
――そう、羊はいた。
暗闇に浮かぶ小さな宇宙船、その箱の中に、他のなによりしたたかな羊がいたのだ。
片隅でそう呟くと、名も知らぬ“何か”はそのまま幸せな気持ちに溶けて消えた。
(了)
箱の中の羊 タイラ @murora
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