サヤカ
その日の夜、サヤカはいなくなった。
母親――叔母が様子を見に子ども部屋を覗いたとき、ウサギの絵の描かれた布団はもぬけの殻だったのだ。
叔母はすぐに「サヤカがいない!」と騒ぎ出し、家族はもちろん、近所の人たちも動員した捜索が始まる。僕は家にいろと言われたため、頭から布団を被ってみんなが戻ってくるのをじっと待った。
でもサヤカは帰ってこなかった。
家を抜け出したサヤカは、裏庭にある湿地へ向かった。街灯なんてなければ、懐中電灯も持たない小さな子ども。明るいときですらようやく飛び越えられた小川で足を滑らせ、溺れてしまったらしい。
――ジュズダマを取りに行ったんだ
大人たちがサヤカの話をしているのを盗み聞いて、僕は思った。
ネックレスを作るため。
僕と、「けっこんしき」をするために。
それからの記憶はあまりない。
ただ、葬儀のあとなぜか叔母に叱られたこと。予定を早めた帰国した両親が、このまま祖母の家に預けるつもりでいた僕を赴任先の外国へ連れていったこと。
そしてサヤカの屈託のない笑顔だけが、いつまでも頭のなかをグルグル巡っていた。
「でも、忘れてなんてなかったんだぜ?」
裏庭の湿地に向かってボソリと呟く。
「お前が『ケンちゃん、ケンちゃん』って犬みたいについてきたこと、服で鼻水を拭くことも、芋が大好きで、ブーブーオナラしてたことも……っ……」
思い出すたびに胸が苦しくなってきて、僕はふぅ……と長い息を吐いた。そして呼吸を整え口を開く。
「『こんにゃくゆびわ』のこと、もな」
ズボンのポケットに手を突っ込み、中をまさぐる。すると手のひらに硬いものが当たる感覚があり、僕はそれをギュッと握りしめた。
「これ、見てみろよ」
手のひらに乗せた物体を反対の手の指先でつまみ、空高く掲げる。
「お前が欲しがってた、指輪だぞ」
駄菓子屋で買った、アメジスト色の大きなビーズがはまったオモチャの指輪。サヤカが欲しがっていたものだ。サヤカの葬儀が終わってここを離れることになったとき、駄菓子屋で両親に泣きつきながら買ってもらった……。
「ずっと来れなくて……それに、約束してた『こんにゃくゆびわ』を渡せなくて、ごめんな」
空に掲げた指輪は太陽光を反射して、キラキラと輝いている。僕はそれを一瞥して小さく笑ったあと、側にある小川の流れにそっと乗せた。
ずっと学習机の奥にしまい込んでいた指輪は、浮かんでは沈みを繰り返し、じきに見えなくなった。
「こんなことで届くなんて思ってないけど……ここがいちばん、近い場所だと思って、さ」
ハハッと乾いた笑いを浮かべながら呟く僕の目に、涙が浮かび上がってくる。
「おかしいな……。こんなことしたって、意味、ないのに……」
にじむ視界で辺りを見回すと、湿地に生い茂るジュズダマの葉が、風もないのにそよりと揺れた。
「サヤ……?」
自然と浮かんできた、懐かしい名前。
もういちど辺りをキョロキョロすると、湿地の奥にサヤカと亡くなったはずの祖母が手をつないで佇む姿が見えた。
「サヤ? サヤなのか!?」
返事はない。しかし二人はなにか言いたげな目で僕のほうをじっと見つめている。
「あっ……も、もしかして……僕を、待っていたのか?」
そう訊ねても、やっぱり返事はなかった。
どうしていいか分からず立ち尽くしていると、二人はクルリと後ろを向いて、音もなく歩き始める。聞こえてくるのは、湿地に生えるジュズダマや草たちが風に擦れる小さな音だけ。
僕は遠ざかっていく後ろ姿に向かって、叫んだ。
「また……今度は、秋に来るよ! ジュズダマの実がなって、ネックレスを作ってあげるから。だから……だから……っ」
また溢れ始めた涙を拭って、もういちど叫ぶ。
「サヤ! 『こんにゃくゆびわ』、なくすなよ! それで……それで……」
「今度こそ『けっこんしき』をしよう」。短い、その言葉が出てこない。
けれど涙は止まらず、延々と頬を流れ続けた。
気がつくと、二人の姿は見えなくなった。
僕のまえではジュズダマの葉が揺れている。
まるでサヤカの代わりに頷くように、優しく、静かに。
ジュズダマと紫の指輪 文月八千代 @yumeiro_candy
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます