居酒屋・ゴスロリ・ミステリー

淡島かりす

五月のカレンダーの謎

「絶対に理由があるんだって」


 安定の悪いテーブルの上に、今しがた飲み干したジョッキを置きながら美濃一馬みの かずまは言った。

 蒸し暑い六月の下旬、冷たいビールは何よりも至福である。つまみは枝豆と串の盛り合わせ。一番最初に頼んだそれらは、まだ半分しか減っていない。


「何がだよ」


 向かいに座った安部智樹あべ ともきは、汗で首に張り付いたワイシャツを振り払おうとするかのように、少し肩を揺らしながら言った。社会人二年目。学生時代は大衆居酒屋でサークル仲間とバカ騒ぎをしていたのが、今では個人経営の焼き鳥屋で飲んでいる。年配者には笑われるかもしれないが、智樹はそれを自覚する度に自分も大人になったと思っている。

 カウンター五席、テーブル席四席の小さな居酒屋は今日も満席だった。品揃えは決して多くない。固定メニューは枝豆と冷ややっこと串盛り。後はカウンターに掲げられたホワイトボードに書いてある日替わりメニュー。昔は築地で働いていたという店主が自信を持って提供する海鮮類が店の売りである。

 今もカウンターに座った女性客が、ホワイトボードを見ながらタコの唐揚げを注文したところだった。店主は愛想よく返事をしながら、奥の方へと移動する。そこは客席からは見えづらい位置にあり、二人の席からだと店主の大きな背中しか見えなかった。


「あれだよ、あれ」


 その背中を一馬が指さした。ビール二杯目で既に顔は赤い。大学時代から一馬はアルコールに弱く、今の会社でも飲み会の度に苦労しているようだった。平時は引き締まって見える太い眉や少し高い鼻も、今は赤く染まってだらしなく見える。


「どれ?」

「あの、カレンダー」


 智樹は目を細めて、その方向を見た。コンタクトなので十分に視界は明瞭なのだが、つい最近まで度数が低い眼鏡を掛けていたために癖が抜けない。

 カウンターは店の入口から奥に向かって真っすぐ一本になっている。手前には串を焼くための網やら、おしぼりを出すための小さな冷蔵庫がある。奥には恐らく揚げ物をするためのフライヤーがあるのだろう。壁側は全て棚になっていて、色々なものが雑然入っている。一応手前だけは綺麗に片付いているのが、店主の人柄を示していた。少し丸くなった店主の体の奥に壁掛け用のカレンダーがかかっている。一馬はそれを示しているようだった。


「な?」

「わかんねぇよ。あれが何だって?」

「よく見てみろよ。五月のカレンダーなんだよ」


 そう言われて改めて見れば、確かに目立つ字体で「5」と印字されている。それを見て智樹は相手が何を言いたいか悟った。それがただの五月のカレンダーであれば、単にめくるのを忘れていると思うだろう。しかし、問題はその下にある西暦だった。カレンダーは四年前の五月のものだった。


「何でそんなの掛けてると思う? 絶対理由があると思うんだよ」

「おーおー、元ミス研代表の悪い癖が始まったよ」


 二人は学生時代、同じ大学のミステリー研究会に所属していた。何十年も前のOBに作家がいるのを自慢としているようなサークルで、お薦めの推理小説やドラマについて語り合ったり、あるいは一年を書けて小説を書いて公募に出したりする。規模は小さいが筋金入りの推理マニアが集まる場所であり、その代表ともなれば猶更だった。


「悪い癖ってなんだよ。人は皆、身近な謎を見逃してるんだ」

「身近というか、子細な謎だから気に留めてないんだろ」

「お前副代表だろ。もうちょっと俺寄りの発言をしろ」

「もう卒業しただろ。それに、副代表ってのはな、代表よりも人望がないと出来ないんだぜ?」


 枝豆をつまみ、それを口の中に入れながら智樹は返した。絶妙な塩加減が口の中を満たす。この店は何を頼んでも酒が進むので、二人で会うときは定番の場所となっていた。


「いいか? 四年前って言ったらな。この店にとっては大事な年だ」


 一馬は店の出入口のほうに智樹の注意を促した。少しべたついた引き戸の上には、額縁が二つ飾られている。一つは食品衛生責任者の修了証書。もう一つは引き延ばされた写真が入っている。どちらもラップで保護されているが、中の文字や写真はしっかりと見えた。

 写真はこの店の中で撮影したもので、店主を中心として何人もの人間が映っている。少し下手くそな文字で「祝・開店」と書かれたホワイトボードが後ろに飾られていた。写真の下には印字されたテープが貼られており、「開店祝いを旧店舗の皆様と」という文字と一緒に日付も入っている。それは四年前の一月六日になっていた。


「きっと大事な思い出があるんだよ」

「例えば?」

「そうだな。店長の横に女性が座ってるだろ。きっと彼女は店長の想い人なんだ」


 確かに店主の隣には、赤いワンピースを身に着けた妙齢の女性がいる。派手なワンピースを上手く着こなし、媚びているようなしぐさはないのに、どこか男性に対して好意的に見える表情と化粧をしている。裾から覗くブーツはあまり店の雰囲気に合っているとは思えないが、その格好でわざわざ来るほど仲が良いとも受け取れる。

 そこに店員が新しいビールを持ってきた。一馬はそれに軽く礼を述べて、真新しい泡に口を付けた。


「彼女が五月の終わりに店にやってきたんだよ。カウンターで、きっとハイボールとか飲みながら言うわけだ。「そのカレンダー、次来た時に捲るわね」って」

「どういう状況だよ」

「酒の席での戯れだよ。でもそれきり彼女は来なかった。店長はいつか彼女が来ることを願って、カレンダーをそのままにしているってわけだ」

「想像力が凄いな。お前、ミス研よりファン研のほうが向いてるよ。ファンタジー研究会」


 笑いながらも辛辣な一言を吐いた智樹に、一馬は口を尖らせた。


「でも俺、店長が何度かカレンダー見てたの目撃したぜ? あれは誰か待ち焦がれてる顔だった。間違いない」

「妄想乙ってとこだな」


 ネットスラングで返した智樹は、自分の持っているジョッキの中身を一気に喉に流し込んだ。ぬるくなったビールは歯に引っ掛かっていた枝豆の欠片を胃へと押し流す。


「よく見てみろ。カレンダーがかかっているところは客席からは見えづらい場所だろ。そして掛かっている場所は壁じゃなくて棚だ。つまり、あそこには人から見えてはいけないものが入っている可能性が高い」


 な? と同意を求めると一馬は渋々とそれを認めた。お互いに接客型のバイト経験はあるので、店においてどのように物を配置するかは何となく想像がつく。


「俺が思うに、あそこには金庫があると思う」

「金庫?」

「そう。あのカレンダーは金庫を隠すと同時に、暗証番号のヒントでもあるわけだ」


 近くを通りかかった店員が、次の飲み物を促す。智樹は少し悩んで、ビールではなく酎ハイを注文した。

 丁度その時、店主がカウンターを移動してタコの唐揚げを提供するのが見えた。先ほどよりもカレンダーが明瞭に視界に入る。子供が遊ぶイラストが印刷された、どこでもよく見かけるデザインのものだった。子供たちの頬がピンクに染まっているのが、無邪気さを強調している。


「カレンダーを見ているのを目撃したって言ってただろ? それは多分、金庫を開けるために数字の確認をしていたんだよ。例えば右側一列とか中央一列とか、そういう規則的な数字の並びを暗証番号にしてるんだと思う。四年前のカレンダーを見る意味なんてそれぐらいしか思いつかないね」

「なんでわざわざカレンダーなんだよ」

「メモ用紙に書いておいたら、それが番号ですよ、って言ってるようなもんだろ。こういう「暗号」は如何にも関係なさそうなもので隠すのが推理小説の定番……」

「お兄様」


 急に女の声が二人の会話を遮った。智樹は嫌な予感を抑えながら振り返る。

 そこには黒い服に身を包んだ、小柄な若い女が立っていた。


「な、なんでここに?」

「あれ、路代みちよちゃんだ。どしたの、こんなところに」

「路代ではなく、ロッテです」


 女は一馬の言葉に否定を返した。目を強調したメイクに、赤く染めた髪。身にまとうのは所謂ゴスロリ服で、この店では浮きに浮きまくっている。しかし店主は特に気にした様子もなく、いつものように愛想よく「いらっしゃい!」と声を掛けた。


「アルバイトが終わったので家に帰ろうとしたところ、お兄様がだらしなくお酒を飲んでいるのを見つけた次第です」

「だらしなくねぇよ。美濃に比べれば」

「OB二人のだらしない姿を皆に見せてあげたいものです。学祭ではいつも偉そうにしているのですから」


 女は大仰に溜息をつく。少し幼さの残る顔立ちは、二十歳にしては童顔の類に入る。

 智樹の妹である安部路代は、二人がいたミステリー研究会に所属する現役大学生であるが、見た目や話し方から察する通り、かなりの変わり種として扱われていた。


「み……じゃないや。ロッテちゃんも座りなよー。後輩として俺たちの推理を聞いて判定してほしいな」


 一馬がそう言うと、路代は不思議そうに首を傾げつつも智樹の隣に座った。

 周りの客が一瞬だけ視線を向けたが、すぐに興味を無くしたようにそれぞれの会話へ戻っていく。


「お兄様。ロッテはハイボールが飲みたいです」

「お前、その見た目ならカクテルとか頼んでおけよ。ほら、「森の森林浴」的な名前の」

「このようなお店には置いてないのが定石でしょう。私は自由を好みますが、他者への迷惑は好みません」


 澄ましたように言う妹に、智樹は苦笑しながらも店員を呼び止めて追加の注文をした。少しすると、智樹の酎ハイと一緒にハイボールとおしぼりが運ばれてくる。

 三人は適当な理由をつけて乾杯すると、そのまま中身に口を付けた。


「……それで、どういうお話ですか? 推理と言っていましたが」

「いやいや、それなのよ。お兄ちゃんと俺とどちらが説得力があるか聞いてくれる?」


 二人は再度、カレンダーについての説明と推理を路代に聞かせた。路代は終始黙って、偶にハイボールを飲みながら聞いていたが、話が終わると難しい表情を浮かべた。


「どうよ、ロッテちゃん。俺としては是非とも身内贔屓なんかせずに意見を聞かせてほしいもんだね」

「俺のほうが筋は通ってる。そう思うだろ?」

「……うーん」


 路代は顎に人差し指を置いて小首を傾げた。


「僭越ながら申し上げますと、先輩もお兄様も間違っていると思います」

「おっと、そう来たか。じゃあロッテちゃんには別の解答があるってわけだ」


 一馬は明るく言ったが、自分の説を否定されたため少々不機嫌なものが語尾に滲んでいた。しかし路代は気付いた様子もなく、ハイボールを一口分飲む。


「そもそもお二人とも、大事なことを見逃しています」

「大事なこと?」


 智樹が疑問を返すと、路代は枝豆に手を伸ばしながら頷いた。


「先輩の推理も、お兄様の推理も、「カレンダーそのものに価値がある大事なもの」という見識です。大事なものならば損なわれないようにするのが普通では? ビニールを掛けたりして、汚れから守ろうとするのが一般的な対処かと」

「店長が気にしてないだけなんじゃないの?」

「それはあり得ません。店主は額縁にラップをかけて保護するような方です。しかも、中がちゃんと見えるということはラップも定期的に交換されています。カレンダーが大事なものならば、同じようにする筈です」


 そのセリフに二人とも言葉を詰まらせた。確かに初歩的なことを見逃していたと気づいたためだった。明らかに粗雑に扱われているカレンダーが、大事なものの筈はない。


「しかし、鍵としましては……「店主がカレンダーを見ていた」「四年前の西暦」であることが重要であるとロッテは考えます」

「でもカレンダーは大事なものじゃないんだろ? ミチがそう言ったじゃないか」

「えぇ。カレンダーは大事なものではありませんが、何故四年前のカレンダーがあるのかを推測するのは大切です」


 路代は黒く塗った爪を額縁の方に向けた。


「あの写真。「旧店舗の皆さまと」とあります。つまりこのお店は五年前までは別の場所にあった。新しい店舗に移ったのは、年の瀬のことでしょう。お店を開くために、色々とお酒や食材を仕入れたに違いありません。元から使っていた業者さんもいたでしょうが、新規に取引をしたところもあったかもしれません。此処でお二人に問題ですが、年末になると無料で手に入るものはなんでしょうか?」

「……カレンダー」


 一馬が零すような口調で言った。


「その通りです。開店祝いも兼ねて、きっといつもより多くのカレンダーをいただいたことでしょう。お店には四年前のカレンダーが沢山あるということになります」

「でもそれが……」


 どうして、と続けようとした智樹を、路代は視線で黙らせた。


「カレンダーそのものに価値がないとすれば、あれはただの紙です。表紙も入れて十三枚もある大きな紙束に過ぎません」


 つまり、と赤く塗った唇が面白そうに笑みの形を作った。


「あれはただ、油跳ねを受け止めるための紙なのです。汚れれば捲っていけばよいだけの」

「ただの、紙?」


 智樹は唖然として呟いたが、それが自分の考えよりは遥かに合理的だとわかっていた。向かいの一馬も同じような表情で路代を見ている。


「あのカレンダー、絵の部分があまりに鮮やかです。この距離からでも子供の頬が赤いのがわかるほどの。ということは四年前からあるわけではないでしょう。普通は色あせてしまいますからね。第一、汚れも少なすぎます。きっと何度目かのカレンダーなのだと、その時点で気付くべきです」

「で、でも店長が……」

「カレンダーを見ていたのは、汚れの度合いを見るためです。あまりに汚れ過ぎていると、今度は火事のリスクがありますからね。定期的に確認しては捨てていたのでしょう。棚の中のものを守るために。お兄様の推理通り、金庫などがあるのかもしれません」


 それですべての言葉は尽きたとばかりに、路代は可愛らしく小首を傾げた。


「この推理、いかがでしょう?」


 二人はもはや反論の余地もなく黙り込んだ。一馬のジョッキの中にあるビールは既に泡が消えている。


「お二人とも、ミス研のOBとしてもう少し観察眼などを磨くべきだと思います」

「うう……耳が痛い」

「現役には勝てないな。最近、推理もの読む時間ないし」

「お兄様、負け惜しみは結構です」


 容赦なく畳みかける妹相手に、智樹は睨むようなしぐさをする。


「あー、もー。可愛くねぇな。少し前まで江戸川乱歩読んで泣いてたくせに」

「小学生の頃の話です!」

「大して変わらないだろうが」


 ほら、と智樹は路代のジョッキを指でつついた。すっかり中身は減って、氷だけが存在を主張している。


「腹も減ってるんだろ。好きなもん頼めよ」

「よくわかりましたね。それも推理ですか?」

「推理以前の問題だろ、こんなの。汚したくないゴスロリ服で居酒屋に入ってきた時点でお見通しだ」

「流石、お兄様。それでは遠慮なく」


 路代は上品に手を上げると、振り返った店員ににこやかに告げた。


「ホッピーの黒一つ。それにイカゲソ揚げとエシャロットをお願いいたします」


 二十歳とは思えない注文に店員が目を丸くするのを見て、智樹と一馬は思わず笑い声をあげた。


END

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