第4話
4.
思い出した記憶がある。
あれは春だ。
卒業式が終わった翌日の、まだ肌寒いころ。
前日に友人と騒いで、騒ぎ疲れて、ぐっすり眠って……そう、昼前だった。
父は長期出張中で、兄は友人と遊びに出ていて。
だからリビングに降りたとき、そこにはたまたま母しかいなかった。
母はソファに腰かけていた。
傍らの洗濯物の山に手をかけたまま、ぼんやり窓を眺めていた。
ああ、この目だ。
遠くにいる誰かを想っている目。
子どもに本音を見せないことが親の義務だというなら……どうして娘の前で、彼女はこんな表情を晒してしまうのだろう。母は無防備すぎた。親としては、あまりにも。
「ねえ、お母さん」
あのとき、私は無意識に聞いた。
「お父さんのさ。どこを好きになったの?」
我に返った母は目を丸くして……「そんなの忘れちゃったよ」と笑った。
自然に。なめらかに。
そう答えることを、ずっと前から決めていたかのように。
「ごまかさないでよー」
「いやぁ……まあ、ねえ……?」
「じゃあさあ、いつから好きになったの?」
こんどは『誰を』とは言わなかった。
母は黙って私の目を見つめ、それから少しうつむいて、ぽつりとつぶやいた。
「ひとめぼれだったのよ」
カーテンレース越しの光が、その横顔に陰影をつくる。
「はじめから」
憂いを帯びた視線は、焦がれた誰かを追っていた。
初恋をした少女のように。
※
「どうしたの?」
「へっ、なにが?」
「なんか、元気なさそうだから」
「あーそりゃあ、片付けめちゃくちゃ頑張ったからね」
「本はどうだった?」
「んー、まぁ、ぼちぼち」
咀嚼する卵焼きの味がしないのは、世間を騒がせるウイルスとはきっと無関係だ。
私はどう母と接すればよいのだろう。
父の遺言を、どうすべきなのだろう。
寝不足で重くなった頭で考えるには、あまりにも難しい問題だった。
「ごちそうさま。最後に軽く掃除してくから、洗い物お願いしていい?」
「はいはい。新幹線は夕方よね?」
「そうだけど、友達とランチするから早めに出るつもり」
「……せっかくなんだから、ゆっくりしていけばいいのに」
「お土産とかも買いたいから。ごめんね」
言葉の棘を隠せなくなる前に、席を立つ。
背中越しに、母が食器を集める音がかちゃかちゃと響いた。
リビングの入り口で振り返ると、母は食器をまとめてキッチンに入っていくところだった。もう七十が近いのに背も曲がっていない。食器を持つ手にはさすがに皴が目立つけれど、窓からの朝日が照らす姿は、それでもまだ。
まだ、少女のように――
「ねえ、お母さん」
気付けば聞いていた。
あの日のように。
「なに?」
振り返った母は首をかしげる。吸い込まれそうに黒い、澄み切った目。
「お父さんのさ。どこを好きになったの?」
「何を言うかと思ったら!」母は吹き出した。「……どうしたのよ、急に」
「なんか聞きたくなったの。いいから言ってよ」
「どこって、そりゃあ……」
恥じらうように口元を隠して、彼女は言った。
「優しかったところかなあ」
……なぜ。
なぜこの人は、ここまで無邪気でいられるのだろう。
あれほどの悪意を受けながら。
あれほどの悪意を与えながら。
まるで何事もなかったように振る舞えるのだろう。
それは、怒りというより恐怖だった。
得体のしれない化け物と向き合っているような。
その輪郭を確かめるためだけに、私はまたパンドラの箱を開ける。
もう、いい。
言ってしまおう。
ぶちまけてしまおう――
「そういえば、日記、なかった?」
「え」
吸い込んだ息が言葉になる前に、母が言った。
「お父さんの日記よ。えんじ色の表紙の。見なかった?」
当前のことのように。
そして固まる私の返事を待つこともなく、キッチンへと消える。
半開きの口内が呼吸で乾いていった。
シンクを叩く水音が聞こえはじめても、関節がきしんで動けない。
知っていた?
なんで。
なんで?
いつから?
どうして?
知っているのにどうして、そんな顔ができるの?
混乱が奔流のように訪れ――
唐突に私は理解した。
して、しまった。
親子だからこその直感か。
あるいは母の違和感を間近で見続けたせいか。
わかってしまった。
母が今までしてきたこと。
その目的と、真意。
ああ、でも。だけど。
そんなことがあっていいのか ?
――私は理想の夫を演じ続けた。
――献身的な妻だった。
――好きでもない男に連日抱かれることが、少しでも復讐になればと思った。
――理沙はいつも弱々しい笑みを見せた。それはきっと、憐憫だった。
――仕事で連日帰りは遅く、出張で家を空けることも多かった。
――ああ、この目だ。遠くにいる誰かを想っている目。
――なれそめは、燃えるような恋ではなかった。
――よくやるよな。親父にベタ惚れって態度の裏でさ。
裏なんてなかったとしたら。
母の想い人が、ずっと同じだったなら。
ずっと無邪気に恋をし続けていたのだとしたら。
想い人の関心を自分に向け続けるには、どうすればいいだろう。
どんな
それは父のいう打算や代替や焦燥なんかではなく。
ただ恋した人に死ぬまで自分を想い続けてもらうための――
「頭、おかしいんじゃねえの……」
つぶやく私の脳裏に、いつかの母の声が木霊する。
ひとめぼれだったのよ。
はじめから。
※
アカシアの蜜には毒がある。
アリの持つ消化酵素を破壊し、自身の樹液以外を消化できなくするという、甘い毒。
一度味わったが最後、もう他のものを食べては生きられない。
彼らは自ら、奴隷として生涯を終える。
その理由すら知ることもなく。
(了)
アカシアの毒 維嶋津 @Shin_Ishima
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