第4話

4.



思い出した記憶がある。


あれは春だ。

卒業式が終わった翌日の、まだ肌寒いころ。


前日に友人と騒いで、騒ぎ疲れて、ぐっすり眠って……そう、昼前だった。

父は長期出張中で、兄は友人と遊びに出ていて。

だからリビングに降りたとき、そこにはたまたま母しかいなかった。


母はソファに腰かけていた。

傍らの洗濯物の山に手をかけたまま、ぼんやり窓を眺めていた。


ああ、この目だ。

遠くにいる誰かを想っている目。


子どもに本音を見せないことが親の義務だというなら……どうして娘の前で、彼女はこんな表情を晒してしまうのだろう。母は無防備すぎた。親としては、あまりにも。


「ねえ、お母さん」


あのとき、私は無意識に聞いた。


「お父さんのさ。どこを好きになったの?」


我に返った母は目を丸くして……「そんなの忘れちゃったよ」と笑った。

自然に。なめらかに。

そう答えることを、ずっと前から決めていたかのように。


「ごまかさないでよー」

「いやぁ……まあ、ねえ……?」

「じゃあさあ、いつから好きになったの?」


こんどは『誰を』とは言わなかった。

母は黙って私の目を見つめ、それから少しうつむいて、ぽつりとつぶやいた。


「ひとめぼれだったのよ」


カーテンレース越しの光が、その横顔に陰影をつくる。


「はじめから」


憂いを帯びた視線は、焦がれた誰かを追っていた。

初恋をした少女のように。





「どうしたの?」

「へっ、なにが?」

「なんか、元気なさそうだから」

「あーそりゃあ、片付けめちゃくちゃ頑張ったからね」

「本はどうだった?」

「んー、まぁ、ぼちぼち」


咀嚼する卵焼きの味がしないのは、世間を騒がせるウイルスとはきっと無関係だ。


私はどう母と接すればよいのだろう。

父の遺言を、どうすべきなのだろう。


寝不足で重くなった頭で考えるには、あまりにも難しい問題だった。


「ごちそうさま。最後に軽く掃除してくから、洗い物お願いしていい?」

「はいはい。新幹線は夕方よね?」

「そうだけど、友達とランチするから早めに出るつもり」

「……せっかくなんだから、ゆっくりしていけばいいのに」

「お土産とかも買いたいから。ごめんね」


言葉の棘を隠せなくなる前に、席を立つ。

背中越しに、母が食器を集める音がかちゃかちゃと響いた。


リビングの入り口で振り返ると、母は食器をまとめてキッチンに入っていくところだった。もう七十が近いのに背も曲がっていない。食器を持つ手にはさすがに皴が目立つけれど、窓からの朝日が照らす姿は、それでもまだ。


まだ、少女のように――


「ねえ、お母さん」


気付けば聞いていた。

あの日のように。


「なに?」


振り返った母は首をかしげる。吸い込まれそうに黒い、澄み切った目。


「お父さんのさ。どこを好きになったの?」

「何を言うかと思ったら!」母は吹き出した。「……どうしたのよ、急に」

「なんか聞きたくなったの。いいから言ってよ」

「どこって、そりゃあ……」


恥じらうように口元を隠して、彼女は言った。


「優しかったところかなあ」


……なぜ。

なぜこの人は、ここまで無邪気でいられるのだろう。


あれほどの悪意を受けながら。

あれほどの悪意を与えながら。


まるで何事もなかったように振る舞えるのだろう。


それは、怒りというより恐怖だった。

得体のしれない化け物と向き合っているような。


その輪郭を確かめるためだけに、私はまたパンドラの箱を開ける。


もう、いい。

言ってしまおう。

ぶちまけてしまおう――






「そういえば、日記、なかった?」

「え」






吸い込んだ息が言葉になる前に、母が言った。


「お父さんの日記よ。。見なかった?」


当前のことのように。

そして固まる私の返事を待つこともなく、キッチンへと消える。


半開きの口内が呼吸で乾いていった。

シンクを叩く水音が聞こえはじめても、関節がきしんで動けない。


知っていた?


なんで。


なんで?


いつから?


どうして?


知っているのにどうして、そんな顔ができるの?



混乱が奔流のように訪れ――

唐突に私は理解した。


して、しまった。



親子だからこその直感か。

あるいは母の違和感を間近で見続けたせいか。


わかってしまった。

母が今までしてきたこと。

その目的と、真意。


ああ、でも。だけど。


――私は理想の夫を演じ続けた。

――献身的な妻だった。


――好きでもない男に連日抱かれることが、少しでも復讐になればと思った。

――理沙はいつも弱々しい笑みを見せた。それはきっと、憐憫だった。


――仕事で連日帰りは遅く、出張で家を空けることも多かった。

――ああ、この目だ。遠くにいる誰かを想っている目。


――なれそめは、燃えるような恋ではなかった。

――よくやるよな。親父にベタ惚れって態度の裏でさ。


裏なんてなかったとしたら。

母の想い人が、ずっと同じだったなら。

ずっと無邪気に恋をし続けていたのだとしたら。


想い人の関心を自分に向け続けるには、どうすればいいだろう。

どんなどくを与えれば、哀れなアリは死ぬまで囚われてくれるだろう。


それは父のいう打算や代替や焦燥なんかではなく。

――


「頭、おかしいんじゃねえの……」


つぶやく私の脳裏に、いつかの母の声が木霊する。





 


ひとめぼれだったのよ。

はじめから。







 



アカシアの蜜には毒がある。


アリの持つ消化酵素を破壊し、自身の樹液以外を消化できなくするという、甘い毒。

一度味わったが最後、もう他のものを食べては生きられない。


彼らは自ら、奴隷として生涯を終える。

その理由すら知ることもなく。



(了)

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アカシアの毒 維嶋津 @Shin_Ishima

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