第3話
3.
秋口にはまだ遠いのに、私の手は震えている。
それは効きすぎたエアコンのせいではなかった。
実家の自室。高校時代から時の止まったままの勉強机に向き合ったまま、私は身じろぎもできずにいた。母がまた音もなく背後に立っているのではないか。そんな不安が
この家にこびりついていた違和感の正体を、私はようやく理解した。他人から羨ましがられる家庭。快活で人当りがよい夫に、おっとりとして穏やかな妻。家の内側でもふたりはそのままのふたりだった。身内に対しても演技を続けてまで、隠したかった感情。白々しい家族ごっこの裏で渦巻いていたもの。
机に置かれたスマホが突然ふるえ、息が止まった。
『首尾はどう?』
兄だった。
画面で無邪気に光るチャットメッセージに、私は親指で返答する。
『いまめっちゃ筋肉痛』
『ウケる』
『てか手伝えや。長男だろ』
『やだぴょーん』
『ぶっころ』
怒り顔のスタンプを連打。
中国に海外赴任している兄は、父の死後、最低限の義務とばかりに喪主だけをつとめて帰っていった。四十九日の法要にも同席せず、電話だけを寄越した。
『そんなにお父さんのこと嫌い?』
『は? メンヘラ?』
『ちげーし』
私も兄も、家族が嫌いだったわけじゃない。
ただなんとなく、そばにいたくなかっただけだ。
『そういや兄貴はどう思ってたんかなと』
『しらんがな。親は親よ』
『まぁそうだよね』
少し間があって、返事が来た。
『まぁ、子供に本音は見せたくない、って感覚はわかるようになったかな、最近』
『子供おらんやろオマエ』
『おめーもな。ほかの駐在みてりゃわかるよ。子どもの前じゃ父親ぶってるくせに、みんな裏じゃ遊びまくってる』
『は? キモ』
『それが最低限の義務なんかなって。子どもにそういうの見せないことが』
『つか、最初からやんなって話でしょ。親にもなってさ』
『それが無理だから、せめて外面だけはらしくするんだよ。人間そんな簡単にできてないんだって。わかるだろ?』
今度は私の手が止まる。
『それは』
タップしようとした指がわずかに引きつる。
『お母さんのこと?』
返事はすぐに来た。
『親ってたいがい自分のガキ舐めてるよな』
私は笑う。
『てっきり気づいてるのは自分だけかと』
『あんなバレバレなのに気づかないわけない』
『だよね~』
『よくやるよな。親父にベタ惚れって態度の裏でさ』
結局、みんなで見て見ぬふりをしていたのだ。
家族ごっこをやっていたのは、父と母だけではなかった。
全員が共犯者だった。
『親父、なんでキレねえんだろってずっと思ってた』
『うん』
『でも最近はさ、あれも親心だったんかなって思ってるよ』
『うん』
『気持ち押し殺して、家庭にゴタゴタを持ち込まなかった。子どものために。余計なお世話だなーって、思ったり思わなかったりもするけど』
『お母さんのこと、許せない?』
『しらんわ。ただ、親父が許したんなら俺も許さなきゃいかんかな、とは思うよ。てか、親父も親父でよろしくやってた可能性もあるし、当人どうしで納得してケリがついてんなら、今さら俺らが口を出すのも違うだろ』
『そうだね』
そうだと良いんだけど。
最後のつぶやきは文字にせず、私はスマホのケースを閉じる。
※
――六月十日
アカシアの一種には、アリと共生するものがある。
彼らは甘い蜜を与えられるかわり、見返りとして樹木に近づく外敵へ立ち向かう。
一見すればうつくしい共生関係。だが実際、それは一方的な搾取なのだという。
アカシアの蜜には毒がある。
アリの持つ消化酵素を破壊し、自身の樹液以外を消化できなくするという、甘い毒。
一度味わったが最後、もう他のものを食べては生きられない。
彼らは自ら、奴隷として生涯を終える。
その理由すら知ることもなく。
私が差し出された蜜は、出世だったか。あるいはいつまでも少女のように若々しい彼女自身か。いずれにせよ蜜を飲んだ私はいつの間にか、都合のよい奴隷を演じるしかなくなっていた。望むと望まざるとに関わらず、逃げ場すらも塞がれて。
理沙の実家と私の会社との関係は、私個人の事情などよりも重い。
仲人である上司に相談してみたところで、返ってくる言葉はわかり切っていた。
「笑って許すのも男の器量だ」
告発したところで、失うものが大きいのは私の方だった。
それでも証拠を集め続けた。自らの立場を危うくする行為だとしても、事実を突きつけられるたび、肺の奥に鋭い痛みが差し込まれようとも。
まるで自傷行為のように。
――六月十二日
初孫に篭絡された義父母に二人目の提案をして、諸手を挙げての賛成を得た。そうして理沙が私を拒む理由を奪ってから、連日のように彼女を組み敷いた。
好きでもない男に連日抱かれることが、少しでも復讐になればと思った。目を血走らせる私に、理沙はいつも弱々しい笑みを見せた。それはきっと、憐憫だった。私は意地になった。会社の付き合いを減らした。衰えた体力を精力剤で補った。義父母から生ぬるい応援を浴びながら、滑稽な種馬の務めを果たし続けた。
互いに声も発することなく、ただ苦行のように歯を食いしばりながら腰を振る。
そんな夜がしばらく続き、理沙は早苗を身ごもった。
それが転機だった。
繰り返していた逢引きが、ぱったりと止んだ。
何があったのかはわからない。関係を続けるリスクが大きすぎると判断したのかもしれない。あるいは良心の呵責に耐えかねたのか。いずれにせよ、別れを切り出したのは男のようだった。
理沙は空いた穴を埋めるように、別の男と逢瀬を始めた。
だが私は気づいていた。
男に捨てられた事実と、取り戻せない時間。
自分が必要とされていないという絶望。
それはかつて、妻の裏切りによって私が味わったものだ。
二度の出産は、理沙から確実に若さを奪っている。
それでも彼女は恋を求めていた。
箱入りの彼女を自由にしてくれたものは、それしかなかったから。
それ以外のことを知らなかったから。
妻はあまりに幼かった。
四十になっても。
――六月十四日
理想の夫を演じ続けた。仕事に邁進し、家族のために尽くし、人付き合いを欠かさず、地域のために貢献する。結婚に難色を示していた義父母はいまや完全に味方となり、「笑って許すのも男の器量だ」といった上司は定年を迎えた。
時間によって彼女は失い、時間によって私は得た。
離婚して一方的に破滅するのは、今や彼女の方だった。想い人を失い、実家の後ろ盾も失った理沙は、もはや『都合のよい夫』という蜜から離れることができない。
関係は逆転していた。
抗うように繰り返す逢瀬は彼女を追い詰めるだけだ。
一時の充足のあとに残るのは、罪悪感と虚無感。
それらを埋めるすべを、彼女はきっと知らない。
私が告発していれば、彼女は多少なりとも救われただろう。たとえ一時は大きく傷ついたとしても、そこから何かを得て、成長することができただろう。
だから私は、それをしない。
演じ続ける。
浮気ひとつせず、家庭と妻を一筋に愛する、完璧な夫/父を。
そしていつまでも幼い妻が、いつまでも幼いまま、偽りの理想の中で摩耗してゆくさまを、ただ眺め続けた。
彼女の恐れ。彼女の罪悪感。焦り。諦め。自己嫌悪――
私の復讐は成就した。
――日付なし
だめだ。
やはりだめだ。
私は本当のことを言わなければいけない。
嘘をつくのをやめないといけない。
足りないのだ、この程度では。とても。
たとえば、私を失った理沙がこのまま……時間をかけて過去のあやまちを消化して……それもまた人生だったと納得して……そしてもし万が一、私に感謝などして死んでいくかもしれないと考えると、それだけで気が狂いそうになる。
だから、拓真。沙苗。
これを読んだなら、どうか理沙に伝えてくれ。
『私はお前を許さない』と。
反応など、もうどうでもいい。
罪悪感にうちひしがれようと、開き直って怒ろうとも、馬鹿な男と嘲笑おうと、あるいはお前たちが心に秘めようとかまわない。彼女の裏切りすべてを私が知っていること。私が何ひとつ忘れておらず、また許してもいないこと。その事実を誰かが知ってさえいれば、私はもう安らかに死んでゆける。
長かった。本当に長かった。
拓真。沙苗。
すまない。
私みたいにはなるな。
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