第2話

2.



父とは別の意味で、母のことが苦手だった。

そのほんとうの理由を話したことは一度もない。

知っているのは私だけだと思っていた。



母が携帯電話を買ったのは、私が十四歳のときだ。


あのころはまだ、iPhoneなんてなかった。だからガラケーなんて言葉もなくて、お年玉で買ったFOMAのP902iが流行の最先端で、私の宝物だった。ねずみ色の本体を小さなビーズで彩った。ピンクの花柄模様のやつを選ばなかったのは、クラスの女子に「調子に乗ってる」と思われたくなかったからだ。


深夜、エリアメールの問合せを何度もしながら、友達とKAT-TUNの話題で盛り上がった。『恋空』をまねた小説を『魔法のiらんど』にこっそり投稿したりもした。テレビでは昨年までスターのように扱われていた経営者が逮捕され、マンションの偽装が問題になっていた。獅子のような髪がトレードマークだった首相は去年までの勢いを失い、大人たちはいつも、どうでもいいことに怒ったり喜んだりしていた。浮かれた空気が不安に変わり始めた季節だった。その鬱憤をぶつけるように、大人たちは私たちの人生に口を出した。父は週に一度、メールの相手と内容を確認させろといい、当然わたしは了承しなかったので、家の中は冷戦状態になっていた。


そんなどさくさに紛れて母は、いつの間にか携帯を持っていた。

梅雨明け。期末テストを控えたころだった。


「かわいいでしょ。錦鯉がモチーフなんだって」


弾んだ声が、最初の違和感だったのだと思う。


少し前に大ヒットし、今なお根強い人気が続く機種だった。赤と白に塗り分けられたプッシュボタン。二つ折りタイプじゃない細身の本体。中学生にはちょっと背伸びしすぎに見えるスタイリッシュなデザインは、だけど母が持つにしても派手すぎた。こんなシャネルの口紅みたいな赤を、彼女がかつて好んだことがあっただろうか。


たわいのない好奇心にすぎなかった。

母が風呂に入っていた隙にメールを見た。

暗証番号は兄の誕生日だった。


そして私は、無邪気に妄想していた通りのものを見つけた。


母は恋をしていた。

父ではない、誰かに。





――六月二日



これは弱さなのだろう。

墓にまで持っていくと決めた秘密を、こうして書いてしまっている。どころか、見つけてほしいとさえ願っている。


誰かに。

叶うのなら、沙苗か、拓真に。


おぞましい欲望だと自覚している。

なにも関係のない子供たちを、今さらになって私と理沙の都合に巻き込むなど。子どもたちのために、沈黙を続けてきたのではなかったか。


いや……よそう。

この期に及んで、自分に嘘はつくまい。


気付かないふりをしたこと……それ自体が私の復讐だった。

最初から、私には薄暗い欲望しかなかった。それでいい。今さら善人ぶっても仕方がないだろう。


最近ずっと、身体の内側でなにかがゆっくりと停止してゆく気配を感じている。

虫の報せというやつだろうか。残された時間は少ないのだと予感している。


だからその前に、すべてをここに書くのだ。



――六月三日


取引先の役員の娘。

結婚するには都合のいい相手だった。


いっぽうで理沙にとって私は、両親のすすめる婚約者から逃げるための口実だった。周囲にいた男の中で実家との関わりがもっとも薄く、かつ、両親が結婚相手としてぎりぎり妥協点を与えた人間が私だった。


私たちの結婚は、はじめから打算だった。


だからといって、そこに愛がなかったと言えば嘘になる。

最初はどうしても、異性というより保護者に近い感情だった。しかし、理沙の方からアプローチを受けるにつれて、異性としても意識するようになった。年齢としのわりに幼かった理沙は、だからこそ純粋だった。


なれそめは、燃えるような恋ではなかった。それでも、拓真が生まれるころには――互いによきパートナーとして、家庭を育んでいけるだろうと思っていたのだ。


裏切りを知ったのは、拓真が三歳のころだ。

街で偶然見かけた理沙は、男といた。


かつての婚約者だった。

逃げたいと言っていたはずの。



――六月五日


ある一組の恋人がいた。

将来を誓うほど互いを想い合っていたが、どういう理由か、両親はふたりの結婚を認めるつもりはなかった。表向きは婚約者として扱いながらも、折を見て別れさせる算段を固めていた。


それを知ったふたりは、ある計画を立てる。表向きは両親の意向に従おうと。女は心変わりを演じて、婚約者から逃げたいと言う。そうして見繕われた婚約者候補から、実家と最も関係の薄い――つまりは両親の息がかかっていない――人間と結婚する。そうして両親を油断させ、逢引きを続けようと。


興信所は疑いようもない現実を私に伝えた。


白昼に家を出る妻。

身を隠すように、待ち合わせていた車に乗り込む妻。

郊外のホテルに入り込んでいく妻。


それらの写真が添付された報告書を、私は呆然と見ることしかできなかった。


献身的な妻だった。

仕事で連日帰りは遅く、出張で家を空けることも多かった。拓真を妊娠したころはちょうど単身赴任中で、新幹線に乗ってどうにか出産に立ち会ったその翌日には、すぐに福岡に舞い戻っていた。理沙はそんな私に文句ひとつ言わず、いつも笑顔だった。


いないほうが、好都合だったから。


私たちの結婚は、はじめから打算だった。

思っていた以上に。


そうして生まれた拓馬。

拓真は。


いや、わからない。結局、私は確かめなかった。知れば決定的に、自分の中のなにかが壊れるような気がしたからだ。今となってはもはや、知りたいとも思わない。



復讐。

その言葉を意識するようになったのは、この頃からだった。

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