アカシアの毒

維嶋津

第1話

 【アカシア】


 マメ科ネムノキ亜科アカシア属の被子植物。

 熱帯から温帯にかけ、およそ千種が分布する。タンニンを含む樹皮は古来より皮のなめしに利用される。綿毛のように密集する花はミモザの名称でも呼ばれ、その可憐さからインディアンが愛の告白をする際にも用いられたという。


 花言葉:優雅。神秘。

 ――秘密の恋。




『アカシアの毒』



 


1.




どこにでもある手帳だった。


やや大振りの、六穴タイプのリフィル式。くたびれた革表紙は窓からの夕日と同じえんじ色。ペンホルダーには黒光りする小さなボールペンが差し込まれている。


手に取った瞬間にカラスの声が騒がしくなったのは、あとから記憶に付け足した脚色かもしれない。わたしは父の遺品を整理していた。はじめて立ち入った父の書斎には、古跡のように粘度の高い空気で満ちていた。


その部屋には昔から立ち入りを禁じられていた。父自身さえ、使っている気配はなかった。入ってみるとなんのことはない、それはただの物置だ。埃をかぶった本の山。さまざまな賞状やトロフィー(社長賞だの、ゴルフ大会の入賞だの、そういった類の)。大学のころのアルバムに、おそらくは仕事で使ったのであろう、なんらかのレポートの紙束。使わなくなったゴルフバッグには錆びたアイアンが放置され、ビンゴ大会の景品は、のし紙もそのままに置かれていた。ピーター・ラビットの絵柄がついた、ウェッジウッドの食器セット。


地層のように積み重なった父の残骸を整理してゆく。ドアの手前から奥へ向かうにつれ、歴史は過去へと遡行していった。幾多のアルバムには私と兄の写真が納められていたが、やがて兄ひとりとなり、そして父と母、ふたりだけになった。午後から始めた作業が夕刻に差し掛かったころ、私はとうとう部屋のつきあたりにある書斎机にたどりついた。手帳はその引き出しから見つけたのだ。


『日記』


表紙のラベルには、やや右に傾いだ字体で、それだけが書かれていた。私はそれが父の字だと直感した。手書きの字を最後に見たのがいつかなんて覚えてすらいないが、それでも薄っすらとわかるものらしい。


日記。日記か。

頭の中で思わず繰り返したのは、それがにわかには信じられなかったからだ。父は自分の過去を常に脚色して話す人だった。自分の子どもにさえもそうだ。相手の期待する自分を演じて、期待させる。それが父の処世術であり、また確かに実際に効果をあげていたのだと思われた。私も兄もそんな父に反発して家を出たが、もしかするとそれすら、彼が望んだ結果だったのかもしれなかった。


そんな父のプライベートな記録が、いま目の前にある。


「仕組まれている」という警告が頭の中で響いた。見せつけるように置かれた手帳はうすく埃をかぶっているが、その表紙は周りのものと比較すると明らかに新しい。


明らかにこれは、誰かに見せるために置かれていた。自分の死後、誰かがここを整理することを見越して。老いた母一人でこの部屋の掃除は無理だ。業者に頼む方法もあるが、寂しがりやの母はきっと、遺品整理を口実に私か兄に会いたがるだろう。それすらを見越して、父がここに手帳を置いたのだとしたら。


なぜだか口の中がやたらと乾いていた。息を吐き、外した軍手をジーンズの尻ポケットにねじこむ。手に取った手帳の革表紙が汗を吸い、溶け合うように肌となじんだ。そっと表紙をめくる。

見開きのカレンダー。年間目標を書く欄。

その先のページには……なにもなかった。


クリーム色がかった紙面に、薄いブルーの罫線。

それがすべて。


笑い交じりの息が漏れる。単なる私の考えすぎか。死んだ父をダシに妙な陰謀論を展開してしまった。急に気恥ずかしくなり、気晴らしに残りのページを末尾に向かってぱらぱらと弾いた。小学生のころ、こうして動く漫画を作ったっけ。そんなことを考えていると、


「沙苗?」

「うわっ!」


背後からいきなり声をかけられ、反射的に大声が出た。

振り返ると、部屋の入り口で母が身をすくませている。


「なによ、いきなり大きな声出して……びっくりするじゃない」

「ご、ごめん。足音もなしにいきなり背後にいるからさ」

「ひどい。人を幽霊か何かみたいに」


そういってむくれて見せる母は、じっさい幽霊……というか妖怪みたいなものだtった。還暦すぎてボタニカル柄のワンピースを着て、しかもまだしっかりと似合っている。折れそうに細い手足と長い指。やや垂れた目を覆う、飴細工みたいな長い睫毛まつげ。しみのない肌は強い西日に照らされてさえ、ほとんど皺の陰影を浮かばせない。


父親似の私が隣に立つと、姉妹どころか同世代の友人と間違われる。おっとり笑うだけで老若男女を篭絡し、事情を知らない知り合いから紹介してくれと頼まれたのは一度や二度のことではない。父とはまた別の意味で、私は母が苦手だった。


「それで……どう? よさそうな本、ありそう?」

「あー、どうかな。とりあえず値段つかなさそうなやつだけ、先にまとめといた」


そう言ってビニル紐でくくった書籍の山に視線を向けると、母はため息をつく。


「どれもけっこう、いい値段したのにねえ……」


いずれも父が、上司や役員、あるいは取引先の社長などからのすすめで購入したものだった。ほとんどが自費出版。古書としての価値などあるはずもない。


「とりあえずいい本があったらお願いね」

「オッケー。……あぁ、それはいいってば。あとでまとめて持っていくから」


本の束を持ち抱えようとする母をあわてて制した。


「でも……重いでしょう?」

「だからこそだっつの。お母さん、自分がいま何歳いくつかわかってる? いいから下に行ってて。私はもうちょっとやってくから」


そう言って、有無を言わさず急き立てた。


母が去った部屋でひとり、深呼吸をする。鼓動はまだ大きかった。

階段を降りるかすかな足音に耳を澄ましながら、息を整える。鼻から入る息と一緒に、部屋にしみついたにおい――古い木材や、甘い葉巻や、わずかな加齢のにおい――が、ことさら際立って私の心を乱した。


尻ポケットに隠した手帳をそっと引き抜く。


もう一度。

さっきよりもゆっくり、ぱらぱらとページをめくる。


見間違いではなかった。

あるページを境に、びっしり書きこまれた文字の羅列。

その異様さに手を止めた一瞬、私は見つけていたのだ。




母の名前と。

『復讐』の二文字を。 

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