おかえり、ハミングバード

桑原賢五郎丸

おかえり、ハミングバード

「ド、ド#、レ。レ#……ビョッ!」


 夏のある日、中学2年の息子がギターを始めた。自分の部屋へ閉じこもって一生懸命に運指をしている。


「シラゾフ! ファミレ。レーレレ。レボ!」


 昨日私が仕事から帰ってきた時には、すでに引きこもって変な音を立てていた。あいつが玄関に迎えに来てくれなくなったのは、小学6年の頃だったろうか。

 テレビを観ていた妻に


「何時から?」


 と尋ねたところ、


「何が?」


 と返ってきた。


「ギターの練習」

「晩ごはん直後だから、1時間くらい」


 とすると、そろそろ指が痛くて動かなくなってきているだろう。心配になったのでドア越しに声をかけてみた。


「おい、その弦は固めだぞ。最初はライトゲージにしとけよ」

「うるせえ! 邪魔すんな!」

「その変な音の方が邪魔だよ」


 何かがドアにぶつかった。軽めのものを投げつけたようだ。


 息子は勝手に私のアコースティックギターを使っている。押入れにしまっていた安物なのでそれは構わないのだが、加減がわからないのか音量だけはやたらと大きい。「音がでかいぞ」と注意しようとしてとどまった。


 息子はどうやら反抗期に突入している。何を言っても素直に聞かないだろうが、こういう時はこういう時なりの対処がある。音がでかいのなら強制的に小さくすればいいのだ。


 次の休日、どのルートで車を走らせようかと思案していたが、それを破ったのはやはり息子が発する変な音であった。


「カッ、カッ、カッ……。ヘケヘケヘケヘケ……」


 やはり指が痛かったようで集中力が途切れたのか、突発的にテケテケの練習を始めている。ベンチャーズがデレデレデレデレとやって有名になったあれは、正式にはトレモロなんとかという奏法らしい。笑い声をなんとか押し殺せている間にリビングへと戻った。



 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜



 日曜日、妻と買い物へ出かけた。最寄りのスーパーへは行かない事を伝えると、助手席からは気のない「ふうん」という返事。会話が続かなくなったことに焦りや怖さを感じていないのは、どうしてだろう。

 今まで考えたことがなかったが、そこにいて当たり前だとお互いに思っているせいなのかもしれない。あるいはもう興味がないのか。開いている窓から蝉しぐれが聴こえてくる。


 30分後、郊外の大きなショッピングモールに到着した。


「食品の買い出しの前に、寄りたいところがあるんだけど」

「なら私も好きなもの見てるから。何かあったら電話するわ」


 ついてきてくれないかと言えない自分が歯がゆい。完全に自分の小遣いでの買い物になってしまううえに、会話を試みる機会も失ってしまった。


 楽器屋へ足を運ぶ。この為にわざわざ車を走らせたのだ。目的は息子用の安いエレクトリックギターである。アンプにつなげなければアコースティックギターに比べて音は遥かに小さい。弦も柔らかいので指への負担が少ない。


 何十年ぶりかに足を踏み入れた楽器屋は、昔と特に変わりはなかった。今ではパソコンで音楽を作れるそうなので、ギター売り場などは縮小されているかと思ったが、どうやらそんなことはないようだ。昔と同じく、安いものは床へ立てられ、高価なものは壁にかけてある。


 赤いストラトキャスターに目が行く。一週間分の食材と同じくらいの金額だ。それなら自分の小遣いでなんとかなる。予備のライトゲージと、おそらく持っていないチューナーも合わせて会計をお願いした。


 ふと壁に目をやる。ギブソンのハミングバードが飾ってあった。懐かしさに思わず目を細める。

 まだ結婚もしていない25年ほど前、ボーナス一括払いで買ったことがある。素晴らしい音を奏でる名器だった。それこそプロでもない身には余る金額であり楽器であったが、当時なんとしても欲しかったのだ。爪弾いているだけで満ち足りた気分になったし、友人たちに自慢もできた。


 手放した理由は特に覚えていない。ただ高く買ってくれる店があったので売ったのかもしれない。そもそも結婚してから一度もギターを弾くことがなかったので、あの時売っておいて良かったという考えもできる。


 買うつもりはまったくないが、なんとなく値段を確認する。目を見張った。当時の10分の1以下の値段だ。思わず店員に声をかけた。


「壁のハミングバードの値段、間違えてます?」

「実はですね……」


 そう言って店員が壁から外したハミングバードの背面には、ひどい傷と誰かの落書きがあった。苦笑いをしながら店員は首を振り、言う。


「素人のアートらしいです」

「逆によく買い取りましたね、こんなの」


 店員は「アート」のところで声を大きくした。こちらも笑いがこみ上げるのを隠しきれない。


「僕もそう思います。店長がお友達から頼まれたそうなので……」


 それはまあ、売れないよなと思う。前の所有者が酒に酔ったのか自分に酔ったのかは分からないが、ハミングバードにとっては迷惑以外の何物でもない。


 買おう。買ってしまおう。落書きさえ落とすことができれば、全く問題ない。自分の楽器として所有したい欲が極限まで膨れ上がったところで、電話が鳴った。妻だ。


「どこ」

「えっと、楽器屋」

「じゃあ食品売場で待ってるから。早くして」


 一瞬のち、私は強めの口調で妻に提案を述べていた。


「いや、こっちに来てほしい」



 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜



「ちょっと恥ずかしいね。やっぱり見られてるみたい」


 黒いエレクトリックギターのケースを肩から下げ、魚の切り身を選びつつ妻が小声で話しかけてきた。その表情は柔らかい。


「いい年こいてロックに目覚めた中年夫婦と思われているかもね。けど」


 右手でショッピングカートを押し、左手のハミングバードのハードケースをぶらぶらとさせながら私は応じた。


「誰も見てないよ」

「そうね」


 楽器屋に来た妻に事情を説明したところ、驚くほど即座に購入することができた。何らかの理由で安いのなら買っておいた方がいい、高くなる状況になったら売れ、と合理的な判断を下した為だ。


 購入前に試し弾きをさせてもらう。背面の落書きはともかく、サウンドは紛れもなくハミングバードのものだった。落書きはともかく。


「弾けたんだ、知らなかった」


 驚いたような妻の声が胸に重く沈む。


「まあ、生活していく中では不要なものだったから」


 抵抗ではない。ただの言い訳だ。


「そうかな?」

「必要なかったんだ」

「そうかなあ?」


 妻は同じ言葉を繰り返した。


 買い物を終え、車に戻る。エアコンを切り、窓を全開に。ギターの為でもあるが、なんとなく窓を開けたかったのだ。

 風に髪をなびかせながら、妻が声を張り上げた。


「風が気持ち良いね」

「そうだね」

「エレキギター、喜ぶかな?」

「僕なら嬉しくて小躍りするよ」


 後部座席の2本のギターを見やりながら、妻がいじわるな笑いを浮かべる。


「けどあなたのギターの方が高いんでしょう?」

「まあ、少しだけ。大切なものは、大人になってから自分で買えばいいんだ」


 風と太陽のまぶしさに目を細めながら、私はハンドルを左に切った。


「なにごとも、遅すぎるなんてことはないんだから」

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おかえり、ハミングバード 桑原賢五郎丸 @coffee_oic

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