後編
その日の黄昏時。ニノンはオードバートに随従して、街の中心に
会堂はセレン信仰における礼拝施設で、多くの典礼儀式を執り行う場であると同時に、信仰共同体『セレン信仰会』の地方拠点でもある。
セレン信仰は世界の危機を警告し、それに立ち向かう救世主の存在を尊ぶ教えであり、生活全般に対する戒律や日々の礼拝の強制を求めない。故に会堂に常駐する聖職者はおらず、信仰の導き手としての司祭が定期的に各地の会堂を巡礼し、人々と共に世界の安寧を祈るのが慣例だった。
堂内は高窓から差し込む夕闇の朱と群青のグラデーションに抱かれていた。その中央奥の祭壇に祭られた一振りの剣――初代救世主アルテミシアが振るったとされる聖剣のレプリカに、跪いて祈りを捧げる司祭。司祭を囲むように、孤児院の子ども達も共に祈りを捧げていた。
司祭の傍らには、剣を
白亜と
「司祭様。ご希望どおり、我が家の使用人をお連れいたしました」
オードバートは、娘ほど歳の離れた少女に恭しく頭を垂れる。何も知らされずに連れて来られたニノンは、主人が見せる下卑た笑みに不吉なものを感じずにはいられなかった。
「御苦労様でした。ジダーク、約束のものを」
アグニヤの言葉に、侍立していた騎士――ジダークがオードバートに革袋を差し出した。
オードバートはいそいそと革袋の中を検める。多量の金貨が朧げな月の光を反射して、眩い輝きを覗かせていた。
「確かに、代金は受け取らせていただきました」
ニノンは耳を疑う。思いも寄らぬ契約完了の宣言であった。
「ご、御主人様、これは一体……」
「喜べニノン。司祭様がお前や孤児院の子ども達を買ってくださるそうだ」
ニノンは目の前の世界が色を失くしていくのを感じた。目眩がする。得意気な主人の聞き慣れた笑い声が、もはやおぞましい悪魔の喜悦に満ちた嘲笑にしか聞こえなかった。
――また、私は売られた。メリッサとの唐突な別れが訪れてしまったことに、ニノンは動揺を隠せなかった。
硬直するニノンに、アグニヤが近づく。
「こんにちはニノンさん。アグニヤ・ミスティカと申します。私は折に触れて、各地の身寄りのない子ども達を引き取っているんです。私も元は孤児でしたので、皆さんの過酷な境遇には同情を禁じ得ません。私のできる限り、皆さんを心安らげる場所にお連れしたいと活動を続けている次第です」
茫然とするニノンに構うことなく、年相応の少女のような笑顔で、アグニヤは楽しげに語り続ける。
「孤児院の前で貴方を見かけて驚きました。私は
「あ、あの……司祭様」
ニノンは漸く言葉を絞り出し、滔々と語るアグニヤに呼び掛けた。
「ご、御無礼を承知でお願い申し上げます。メリッサに……友人に別れを告げる時間をいただけないでしょうか」
「ニノン、何を馬鹿な事を――」
オードバートがニノンの無礼を窘めようとすると、アグニヤが制した。
「その必要はありません」
慈愛に満ちた微笑みがニノンに向けられる。
「貴方の友人も、すぐに貴方のことを忘れます。アルテミシア様の御慈悲がある限り、誰も悲しんだり、苦しんだりすることはありません」
ニノンはアグニヤの言葉の意味が理解出来なかった。
忘れる? メリッサがそんな簡単に私のことを忘れてしまうはずがない。あの温かな心根の持ち主が、そんな冷淡に、酷薄に私を切り捨ててしまうなんて信じない。
ニノンは混乱しながらも、アグニヤの優し気な笑みの裏にある禍々しさを直感的に感じ取っていた。それは善意の皮を被った悪意、憐憫に擬態する非情、純真を隠れ蓑にした
覚えのある悪寒に急き立てられるようにニノンは駆け出し、未だ微動だにしない子ども達の安否を確かめる。
瞬間、ニノンは息を呑み、小さな悲鳴を漏らす。子ども達は、誰も彼も皆虚ろな眼差しで笑みを浮かべ、祈りを捧げた姿のまま事切れていた。
ニノンは震える声で力なくアグニヤを質す。「し、司祭様。これは、どういうことですか。何故子ども達は……」
取り乱すニノンとは対照的に、アグニヤは聖母のような微笑でゆっくりとニノンに近づき、穏やかに語り始めた。
「この子達は既に心安らげる場所にお連れしました。
ニノンさん、貴方は何故ヒトが悲しみや苦しみを感じるか分かりますか?」
アグニヤの問いはニノンには届かない。彼女の視線は、仲良く寄り添って果てる幼い二人の子ども――今朝方オードバート宅に盗みに入り、ニノンが見逃した兄妹に釘付けになっていた。今朝まで確かにここに存在し、しかし今ではもうこの世のどこにもいない二人。ニノンは胸を抉る無慈悲な現実の冷たさに打ちひしがれていた。
「生きているからです。ヒトは生き続ける限り、苦渋と悲哀から逃れられない。身体を傷つけて、心を削って、それでも生きねばならない理由などありません。辛いのなら、ここからいなくなってしまってよいのです。この子達のように」
夜闇は深まり、堂内に神秘的な月華が降り注ぎ始める。まるで天への回廊の如き幾筋もの光の帯に呼応するかのように、子ども達の身体が淡い光に包まれ、煙るように蝶の形を結ぶ。美しく、それでいて不気味な紫暗色にくすむ蝶に擬態した魂が、子ども達の身体を離れてゆっくりと羽ばたいていく。蝶は月華を目指して飛翔し、やがて子ども達も夢のように儚く消え去っていく。
同時に、最前までニノンを責め苛んでいた、あの耐え難い悲しみと苦しみも、跡形なく消え失せていた。何故なら、既に子ども達の記憶はニノンから失われていたからだ。
「実感していただけましたか? それがアルテミシア様の加護。この世からいなくなった者達の記憶を忘却させる救済です。
私達は、愛する者を失った悲しみに暮れることなく、思い出に縛られ、苦しむこともない。記憶の中の癒されない傷の傷みも、いずれ忘れていく。
だから安心して、貴方は楽になってよいのですよ」
厳かな響きを持ったアグニヤの託宣が、ニノンの心をジワジワと感化していく。
顔も名前も知らない子どもがいなくなって心を痛めることはあっても、長く悲しみに暮れることはない。果てしない苦しみに悶えることもない。見上げた空の雲の形を思い出せないように、取り留めもなく過ぎ去っていくだけ。感情の残滓は違和感にすらならず、まるで初めから存在しなかったかのように忘却される。
きっとメリッサも、そうやって私のことを忘れていくだろう。私が、最前までここにいた誰かのことを忘れてしまったように。
それなら安心だ。むしろ望んでいたことではないか。私がメリッサの側にいては、彼女の足手まといにしかならないのだから。
――私なんか、いなくなってしまえばいい。
ニノンが静かな諦観に身を委ねようとしたその時、会堂の扉がゆっくりと開かれて、冷たい夜気が堂内に侵入する。誰もが驚きとともに視線を向け、その異様な光景に目を奪われていた。
蒼白い月の光を浴びて佇立するのは、深紅の外套に身を包んだ、凶相たる髑髏の仮面を被る人型。反り立つ雄牛の角が暴虐な悪魔を連想させ、細く穿たれたスリットから爛々とした双眸の不気味な光が見て取れた。
禍々しい雰囲気を身に纏う仮面の人物が、乾いた音を響かせて堂内を歩み出す。得体の知れない
敵意に満ちた制止の言葉に、しかし仮面の男は怯まない。悠然と歩を進めながら、仮面越しに紡がれる呪詛の声が不気味に堂内に響く。
「信僕騎士団従軍司祭アグニヤ・ミスティカ。これは復讐だ。世界が忘却を以てお前達に赦しを与えようと、俺は決して赦しはしない。お前達が歪めるこの世界に死を刻み込み続けてやる」
瞬間、仮面の人物の発する苛烈な闘気と殺意が堂内を席巻する。尋常ならざる心意の発露に、アグニヤは得心したように嘆息した。
「雄牛の角と髑髏の仮面……貴方が昨今有名な『フィンヴェナッハの亡霊』ですか。執拗に信僕騎士団を狩り続ける狂戦士らしいですね。私達に何の怨みがあるのか存じ上げませんが、そんな無法者をここで見逃すわけにはいきません。――ジダーク」
アグニヤの号令一下、ジダークは鞘から剣を抜き放ち下段に構え、自身の肉体を変革させる言霊を紡ぐ。
「――光速を以て機先を制する」
省略詠唱による魔術は迅速にジダークの身体能力を強化し、常人離れした瞬足の踏み込みで疾駆する。
瞬く間に距離を詰め、
しかし、突如、フィンヴェナッハの亡霊の周囲の大気が揺らめき、黒紫に滾る光を伴って、身の丈以上もある一振りの大剣がその威容を現した。
月華すら飲み込まんほど禍々しい
「ぐ、
驚愕と焦燥が瞬く間にジダークの全身を侵食していく。
肉体的武器を持たず、霊長の八種族中最弱の人間のみが持つという、闘う意志を具現化する力。信僕騎士団の中でも数少ない最高位の騎士しか持ち得ぬ神秘の天恵。
まさか、こんな得体の知れぬ者が有しているとは。ジダークは自らの浅慮と軽挙に歯噛みした。
まったく思いも寄らぬ
ジダークが防御に腐心する中、フィンヴェナッハの亡霊は身体を低く落とす。
「
後ろ手に構えた両手に、再び大剣が具現化される。刀身はフェインヴェナッハの亡霊が発した言葉に反応するかのように鳴動し、迸る殺気が黒紫の焔として具象化し、刀身に宿る。
「『
フィンヴェナッハの亡霊は振り上げた大剣を騎士に振り下ろした。騎士の剣技とは対照的な、武骨で、荒々しい剣筋。斬り裂くというより殴りつける斬撃は、刀身に纏う豪炎とともにジダークに叩きつけられる。
焔は貪欲に周囲を延焼させ、一帯は焔の海と化す。燃え盛る焔の渦中でジダークは苦悶に叫喚し、堂内をもがき回り、延焼を拡大させていく。ジダークの近くで身を潜めていたオードバートも、生者を燃やし尽くさんとする焔の餌食となって、凄惨な末路を遂げた。
見るも無残な部下の焼死体を眼前にして、アグニヤは凝然と眼を見開き、震える両手で自らの頬を掻きむしる。
「い……いやぁぁぁァァァ――――!!」
堰を切った猛々しい悲憤と慟哭。その咆哮は会堂すら
喉を張り裂かんばかりの絶叫は狂気の色を帯び、やがて地獄の底から響くような怨嗟の叫びとなって、この世全てを呪わんほどの邪悪さに侵されていく。
フィンヴェナッハの亡霊と対峙したアグニヤの相貌はまさに鬼相であった。
「よくも……よくもよくもよくもよくもよくもォォォォォ!」
狂ったように繰り言を口にし続けながら、獣人特有の俊敏さでアグニヤはフィンヴェナッハの亡霊に襲い掛かる。その速さたるや、魔術で身体を強化したジダークのそれすら及びもつかない。
鉄甲鉤の鋭利な鉤爪の魔手が縦横無尽に繰り出される。アグニヤの猛攻を受け流しながら、フィンヴェナッハの亡霊も応戦するも、彼女の動きを捉えるには至らない。
凄烈なる
「ああ! 消えていく、私の愛した人の記憶が、面影が失われていく! 嫌、嫌よ……返して、私の幸福な記憶を、返してぇぇぇェェ!!」
我を忘れ、怒りに任せたアグニヤの攻撃は、徐々に単調に、大振りになってい
く。
「破界剣――」
アグニヤの気迫と猛攻に押されながらも、高速の剣戟を冷静に捌き続けていたフィンヴェナッハの亡霊は、一瞬の隙をついてアグニヤの魔手を弾き、刺突の構えを取る。
「『火車が
大気を穿ち貫く豪速なる刺突がアグニヤの鳩尾を串刺しにする。百舌の
アグニヤは祭壇に打ち付けられ、黒紫の焔に包まれていく。存在の輪郭を
「私の、愛した人……置いていかないで。私も一緒に、連れて行って……」
喉を
かつて強者に挑戦し続ける者と称され、権力者に虐げられる者達の怒りを武力によって代弁し、喝采を受けた反英雄。悪を以て悪しき世界に一矢報いんと挑み続けた狂戦士。
その反英雄の威名を自称する者が、ニノンの目の前に佇んでいる。近づく者ばかりでなく、本人さえも焼き尽くさんとする、荒々しい憎悪と果ての無い悲哀に満ちた心の獄炎を従えて。
ニノンは恐れを感じなかった。むしろ彼を注視める眼差しは、憧れに似た羨望だったかもしれない。
――何故、この人は、ここまで誰かを憎むことができるのだろう。
この人は痛みを、苦しみを、決して忘れない。私が心の安寧のために零してきたものと対峙し続けている。虚栄と欺瞞、悲哀と苦悶、混沌と絶望に満ちたこの世界を直視し、憎悪し続けるだけの心の強さ。自らを苦しめながら、それでも突き進まんとする意志の強さ。
まさに名にし負う
――この人についていけば、見つけられるだろうか。思い出せるだろうか。いつの間にか忘却し、置き去りにしてしまった私の大切なものを。歪められていたこの残酷な世界に向き合い続けられる揺るぎない自分を。
「フィンヴェナッハの亡霊!」
ニノンは必死に声を張り上げて、冷酷な復讐者に呼び掛けていた。そして臆することなく、決然と言い放つ。
「貴方の所為で、買主を失いました。責任を取ってください――!」
(了)
フィンヴェナッハの亡霊 長月十六夜 @izayoi-n
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