フィンヴェナッハの亡霊

長月十六夜

前編 

「フィンヴェナッハの亡霊? そんな得体の知れぬ狂人など知ったことか! さっさと食料を盗んだ餓鬼共を捕まえてこい!」


 壮年の男が使用人を叱咤する。あまりの剣幕に、使用人は慌てて部屋を飛び出していった。


「どいつもこいつも、貧民に持て囃される義賊紛いに怖れを為しおって――ニノン!」


 男は傍らに控えていた少女――ニノンを呼び寄せた。


「この役立たずが!」


 怒声とともに、ニノンが仮借ない力で突き飛ばされる。石床に強く叩きつけられ、蹲る華奢な背中を憎々し気に見下しながら、男は尚も辛辣な罵声を浴びせかける。


「盗みに入られた挙句取り逃がすとは……何のための番犬だ、この穀潰しめ! 今日まで飼ってやった恩を忘れおって」


 額に青筋を立てて怒鳴りつける男――オードバートは、抑えがたい憤懣に満ちた形相でニノンをめつける。


 何とか身体を起こし、ニノンは額づいて許しを請うた。「申し訳ございません、御主人様。全て私の責任です」


 顔を上げたニノンの無感情な眼差しがオードバートを見据える。足元に跪く埃に塗れた少女は、彼の『所有物』であった。


 頭頂部の犬耳と尾骨部の尻尾――『ヒト』と総称される霊長の八種族の一、獣人の一支族に見られる特徴である。


 琥珀色の瞳――黄金色にも見えることから、商いを生業にする者にとっては縁起が良いとされる。


 チョコレートブラウンの髪は毛先が淡いクリーム色に染まっている――物珍しく特徴的で、万が一逃げたとしてもが容易である。


 所有するに値すると踏んで、同業の奴隷商人から大枚を叩いて買った十六歳の少女。身体能力に優れた獣人の特性を生かし、これまで番犬として使役してきたが、大した成果は挙げていない。オードバートは不満しかなかった。


 ニノンの双眸は静謐な湖面を思わせる清らかさに澄み渡っている。怒りも恐怖もなく、冷ややかで、瞳に映る者の醜さを暴いてしまうかのような純粋さを讃えていた。オードバートは不快感を一層強くし、さらに逆上し、怒りに任せて平手を振り上げる。


「なんだその眼はッ……! 犬風情が、私を愚弄するな!」


 *  *  


 麗らかな昼下がりの田舎街は、いつになく浮き立った印象を抱かせる。


 このテルマテルという世界で、人種や種族を問わず広く信仰される宗教『セレン信仰』の高位聖職者である司祭の巡礼を仰ぐことは名誉に他ならない。住人達は静かな高揚感にのぼせながら、稼業そっちのけで歓迎の準備に勤しんでいた。


 街を挙げての祝賀ムードに、しかしニノンは同調する気分にもなれない。街外れの小さな広場を臨む石階段に腰を下ろし、賑々しく遊びに興じる子ども達の姿を何とはなしに眺めていた。


 ニノンの背後には、豪奢な石造りの建物が古ぼけた外観で屹立きつりつしている。ニノンの買主であるオードバートが所有する孤児院で、広場に集まっているのは、その孤児院で暮らす子ども達だった。


 ニノンは広場に現れた女性に眼を留める。子ども達に気さくに声を掛けながら、つややかな栗毛色の長い髪を靡かせて石階段を目指す“人間”の美女――メリッサが、ニノンに向かって太陽のような笑顔を向ける。


「おっはようニノン! ……って、どうしたの、その痣!」


 メリッサはニノンに駆け寄り、顔を引き寄せて赤く腫れた頬を仔細に観察する。


「またオードバートにやられたの?」


 静かな怒気を孕んだメリッサの口調とは対照的に、当のニノンは冷静だった。


「私が悪いんです。食料を盗みに入った子どもを逃がしてしまったので。御主人様の憤慨は当然のことです」


「逃がしたって……何でそんなことしたのよ」


 ニノンは他人事のように淡々と語り出す。


「自分でもよく分かりません。相手は小さな兄妹だったから、躊躇したのかもしれません」


 メリッサは大きく息を吐いて、頭を抱えた。


「他人のことに構っていられる身じゃないでしょう。食べるものにもありつけないくらい貧しい子どもなんて、ここにはいくらでもいるわ。自己犠牲なんて割に合わないわよ」


 メリッサはニノンの隣に腰を下ろし、無邪気にはしゃぐ子ども達を眺める。


「私だって好きで娼婦をやっているわけじゃない。でも、生きるためにはこの身を売るしかない。貧乏人はね、良いも悪いも、与えられたものをありがたく受け取るだけで、選り好み言えないのよ。

 オードバートが買ったあの子達だって、私達みたいにいずれ誰かに売られていく。ニノンも分かってるでしょ?」


「はい、それが御主人様の商いですから」


 メリッサは唇を尖らせて悪態をつく。


「憎たらしい男。子どもを売って私腹を肥やす商売も腹立たしいけど、ニノンに対する横暴はさらに許し難いわ。

 アンタみたいに可愛い子が、代金も発生しないのに夜な夜なあんなクズ野郎と……可哀そうに」


 メリッサはニノンを抱き寄せ、大仰に嘆いてみせる。ニノンにとって生まれて初めて得た友人は、人間と獣人の違いに臆することなく、こうしていつも自分を気に掛けてくれる。表情こそ変わらないものの、ニノンは大いに心を許していた。


 メリッサの胸に顔を埋めたまま、ニノンはくぐもった声で呟く。


「確かに良い気分ではありませんが、辛くはありません。番犬でも夜伽よとぎでも、どのような形であれ御主人様に奉仕できるのであれば本望です」


「それ、クーの一族の名誉なんだっけ。主人を選ぶ自由くらい主張したっていいでしょうに」


「自由……ですか」


「そう、自由。どうせ身売りするんだったら、優しくて美男子の方がいいでしょ?」


「別に」


 予想以上の感心の無さに、メリッサは肩透かしを食らう。


「……興味無さ気ね」


「私が買主を選ぶだなんて、想像できません。買われたから付き従い、奉仕する。そういう生き方しか知りませんし」


 普段と変わらない友人の率直さにメリッサは苦笑した。


「アンタのそういう正直なところ、好きよ。 

 いつか、ニノンが心の底から信頼できる主人に出会えたらいいわね」


 感情表現が豊かで、世話好きな気の良い友人との他愛無い会話は、ニノンにとって数少ない楽しみであり、心地よいものだった。オードバートに叩かれた頬の傷みも忘れるほどに。


 太陽が西に傾きかけ始めた頃、孤児院前の石階段に馬車が二台横付けされる。先導車からせかせかと降りてきたのは、ニノンの主人であるオードバートだった。その姿を認めるや否や、ニノンは主人に駆け寄ってかしづき、メリッサは不快感も露に階段上から睨みつける。


 街で人気の高級娼婦と使役する番犬の組み合わせに、オードバートは苦々しい表情を見せる。


「メリッサとニノンか、司祭様の前で何とはしたない身なりを……。ニノン。早く家に戻れ、役立たずめ」


「はい、御主人様」


 ニノンに対する不遜な物言いに、メリッサは肩を怒らせながら猛然と階段を下る。


「お言いつけ通り、帰らせていただきます! それではごきげんよう!」


 メリッサに連れ出されながら、ニノンは背筋に走る悪寒を感じて思わず振り返る。オードバートが先導してきたもう一方の馬車から、ニノンは直感的に、自らに向けられた禍々しい視線を感じ取る。空恐ろしさを胸に抱きながら、ニノンは足早に広場を後にした。



「何なのアイツ! 腹立つわね。しかも何でアイツが司祭様を案内してるのよ、街の恥だわ」


 不満と怒りを吐き捨てながら、メリッサはニノンの手を引いて、露店と人々が集まる賑やかな一角までやってきた。


「あんな奴、『フィンヴェナッハの亡霊』の鉄槌が下ればいいのに」


 聞き覚えのある名に、ニノンは眉を顰めた。「メリッサ、その亡霊って……」


「あくどい権力者や金持ちを征伐する義賊。民衆の救世主って触れ込みで、最近じゃちょっとした有名人なの」


「私達の味方、なんですか?」


「どうかしら、実はよく分からないのよね。なんてったって亡霊だから、見た人も会った人もほとんどいない。けど、悪さを働く連中が成敗されているのは事実みたい。脛に傷を持つオードバートも気が気でないでしょうね」


 気持ちを落ち着かせるように深呼吸をしてから、メリッサは赤く腫れたニノンの頬を優しくさすりながら微笑を浮かべる。


「こんな殺伐とした話じゃ楽しい気分が台無しね。さ、そこの薬屋で買い物しましょう。跡が残ったりしたらニノンの可愛い顔が台無し」


 ニノンは言いにくそうに顔を背けた。「……私、お金がないです」


「知ってるわよ。私が買うの」


「そんな……二、三日経てば自然に治りますから」


「いいのよ、薬代含めて、今度オードバートが店にやってきたときに目一杯ふんだくってやるから。

 今日は久々のお祭りよ? 傷みに我慢してたら楽しめないでしょ」


 メリッサの屈託ない笑顔に、ニノンは胸を締め付けられる息苦しさを感じずにはいられなかった。


 生きるために身を売らざるを得ないのが自分達の境遇である。お互いその現実を受け入れてはいるが、だからと言って、肯定しているわけではない。


 メリッサは生きるために娼婦になったと言った。底抜けの快活さに隠されてはいるが、見ず知らずの客と一夜を共にする恐怖だって、横暴な客への憤慨だってあるだろう。望んでもいない職ならば、不本意には違いないのだ。


 身を削り、心を押し殺し、やっとのことで得た報酬を、私の治療に費やすなんて。私は、メリッサに何もしてあげることができないのに。


 メリッサには幸福になってほしい。だからこそ、私になんて構ってはいけない。ニノンは自分という存在を初めて疎ましく思った。


 *  * 

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