うろ

@sakamono

第1話

 夏休みも残り二週間になる頃、そもそもの始まりはカラスで、その次はサギだった。カラスはどこにでもいるけれど、サギもたいていの水辺にいる。都心の小さな公園の、小さな池でも見ることがある。そんなふうに断らなくても、都心からだいぶ離れた郊外にある、僕の家の周りには、サギはいくらでもいた。家の裏を流れる小さな川の土手に、じっとたたずんでいるところをよく見かけた。

 そしてミケに出会った。「ミケ」というのはネコではなく、僕と同い年くらいの女の子で、名前を聞いた時「ない」と短く答え、しばらく黙った後「好きに呼んで」と言ったものだから、子供の頃の飼いネコの名前で呼ぶことにした。同い年くらいと言ったけれど本当の年齢は知らない。そう見えるというだけで、ずっと年上のような気がする。


 その頃、僕は自分の部屋の窓から、何もせずただ川を眺めていることが多かった。本当は受験勉強に集中しないといけないところなのだけど、机の上に広げたテキストとノートはそのままに、正面に開いた窓から、ぼんやりと外を眺めていた。窓の外は、ぼんやりと眺めるしかない、小さな川と土手と雑木林の、郊外によくある風景だった。

 社会に出ることを先延ばしにしただけの、とりあえずの進学で、志望の大学の合格ラインにはほど遠い成績では、勉強に身が入らないのも仕方のないことだった。

 部屋の窓から見下ろす川は、正面から流れてくると家の手前で右へゆるく蛇行する。下った先には水田が広がっている。日暮れには、夕焼け空にカラスが鳴き、夜にはカエルの合唱が遠く聞こえた。

 それでも誰に対して言い訳しているのか、夏休みの間は勉強が手につかなくても、一日部屋にこもって机に向かった。

 一度も家から出ない日が何日か続くと散歩にでた。日が傾いて暑さがいくぶんゆるみ、カラスが鳴く頃に家をでた。気分転換とか運動不足の解消とか、そんなふうに考えてのことではなく、なんとなく家をでた。橋を渡って左手に川を見下ろしながら、土手の上を歩いた。踏み固められ雑草も生えなくなった、幅一メートルくらいの土の道は、毎日部屋の窓から眺めている、三年近く通い慣れた道だ。黒々とした雑木林の向こうに、学校の屋上部分がのぞいていて、屋上の給水タンクが夕日に照らされている。見慣れた風景を見るともなしに歩いた。

 散歩というのは、ただとりとめなく歩くことだから、その日も僕は間違いなく散歩をしていた。そしてぼんやり歩いていたからなのか、それがいつ現れたのか気がつかなかった。辺りはずいぶんと薄暗くなっていた。まっすぐに続く道の上に、点々と等間隔に青白い光が灯っていた。空から見る空港の誘導灯のようだった。目を凝らすとそれは、浜に打ち上げられたクラゲみたいな、半透明のゼリー状の何かで、それがささめくようにゆらゆらと光るのだった。

 すぐ傍らで黒いものが動いていた。それをつつくカラスだった。小刻みに首が動き、時々上を向くと、口ばしを大きく開けて頭を揺らす。食っているのか?

 その様子を眺めていた僕に、気がついたらしいカラスが、こちらを向いた。じっと見ている。薄気味の悪さに一歩後ずさる。威嚇された気分だ。自分は散歩をしているだけだ。この先に行かなければならない理由もない。帰ろうと振り返ると、青白い光は、後ろの道にも点々と続いていた。その時、土手に丈高く伸びた夏草が大きく揺れた。草むらの中に何かがいる。断続的に草をかき分けていた音が止んで、しばらくしんとした。恐る恐る一歩前へでた時、突然草むらから白い何かが飛び出してきた――サギだった。

 サギは真っ白で大きくて、威圧するようにこちらに向かってゆっくりと近づいてくる。いつも遠目に見るばかりだったサギが、近くで見るとこれほど大きいとは思わなかった。僕がその場に動けずにいると、顔をつき合わせるくらいまで近づいたサギは、そこで立ち止まった。鋭い口ばしが目の前に迫る。サギがその気なら、口ばしで目を潰されかねない距離だ。どんな気でいるのか、その表情からはうかがえない。サギに何らかの感情があればの話だけれど。

 サギは動かない。

 ふと、そこをどけ、と言われている気がした。

 僕は土手と反対側の、雑木林のある方へ道を下りた。途端にサギは、またゆっくりと歩きだした。細い一本道の上、今度はサギとカラスが対峙する形になった。二羽の対決はどうでもいい、早く帰ろう。道へ戻ろうと足を踏みだしたところで、あせっていたのか僕は足をすべらせた。踏んばろうと、あわててもう一方の足を送った先は窪地になっていて、足場をなくした僕は、後ろ向きに斜面を転がり落ちた。ここにこんな傾斜があったか? そんなことを考えられるくらいの時間、転がり落ちた気がした。多少頭を打ったけれど、意識ははっきりしていた。

 だから、そんなはずはない、と思うのだけど……体を起こした時、僕は見たことのない池のほとりに座り込んでいた。

 辺りはしんとしていて、不思議なことに真昼の明るさだった。目の前の大きな桜の木が、水面に向かって太い枝を伸ばしている。ごつごつした太い幹は苔むしていて、根元に大きなうろがあった。得体の知れない何かが、うろの中からこちらをうかがうような気がして、落ち着かない気分になる。家の近くにこんな場所があっただろうか。

 見上げると桜の濃い緑の葉が茂っていて、ちらちらと木漏れ日が差す。池の周りは雑木林で、岸辺は下生えの、背の低い草や木に覆われていた。差し渡し二十メートルくらいの、円に近い小さな池だった。池の上にぽっかりと真っ青な夏空がのぞいている。振り返ると細い道が一本続いていた。人が一人歩けるくらいの、踏み固められた土の道が、両側から勢いよく伸びた夏草に見え隠れしていた。

 風を切る音に池を振り返ると、浅瀬にサギが降り立つところだった。サギは降りた勢いそのままに、たたらを踏んで立ち止まると、水面をじっと見つめた。さっきのサギだろうか。そう思うと、じっとしているその様子が、何かを思索しているように見えた。そんなことはない。サギはただ魚を捕食するために、その機会を逃さないよう、じっとしているだけなのだ。まるで動かないサギをしばらく眺めた。

 そんな場合ではないのかもしれない、と頭の片隅で思った。けれどこのところ何に対しても、どうでもいいや、という気分が支配的になっていて、僕はぼんやりサギを眺め続けた。

 そうしているうちに、桜の根元の大きなうろが気になりだした。最初から気になってはいたのだけれど、見ないようにしていた。大きく口を開いたうろは、日の差す池を背景に逆光になっていて、中は薄暗くよく見えない。落ち着かない気分がふくれあがって目が離せなくなる。自然に足が動いた。一歩一歩ゆっくりと近づく。うろは中に人が一人うずくまれるくらいの大きさだ。サギはまだじっと水面を見ている。地面を這う、隆起した太い根に足をかけ、苔むしたうろの縁に手をついた。

「誰?」

 突然の人の声に、驚いて後ろに続く細い道を振り返った。小柄な女の子――僕がミケと呼ぶことになる――が立っていた。半袖の真っ白なワンピースに、肩で切りそろえられた真っ直ぐの黒髪。顔も腕も紙のように白い。そこから生え出たように、肩幅に開いた両足で地面に踏んばって、ゆるく腕を曲げた両手で、服の生地を腰の辺りで握り締めている。何か言おうとしたけれど言葉が出てこなかった。この辺りの、土地の所有に関係する人間で、勝手に入ったことを非難しているのか、とその時は思った。言い訳しなければ。でも何て?

 ミケはじっとこちらを見たままだ。表情に乏しく、その目に感情はうかがえなかった。怒っているようにも見えた。憐れんでいるようにも、慈しんでいるようにも。小柄なのに、どこかふくよかでやわらかな、とりとめない印象。その仕草が幼い少女のようにも感じられる。僕と変わらない年のようにも、母親くらいの大人の女性のようにも感じられる。

「どうしたらいいのかな?」

 ようやく言葉を口にできた。でも、これでは何も伝わらない。あわてて僕は、ことの成り行きをかいつまんで話した。うまく説明できた自信はない。自分でもよく分かっていないのだから。

「そんなことも決められないの?」ミケが言った。「私はどちらでもよいのだけど」

 この時ミケは、本当にどちらでもよかったのだ。でもたぶん、途中で気が変わった。気を変えさせたのは僕だ。

「家に帰りたい」

「そう。それで?」

「特に何かあるわけでもないんだけど……とりあえず」

 おずおずと答える。ミケは僕の顔をじっと見て、小さく息を吐いた。そして、くるりと背を向けると、スカートの裾をひるがえして、まっすぐに歩きだした。

「えっ?」

 あわてて僕は追いかけた。とにかく追いかけなければ、と走りだした。追いついても、何がどうなるか分からないけれど、藁にもすがるとはこういう気持ちか、と思った。ミケは迷いのない力強い足取りで歩いている。歩いているはずなのに、走っている僕が追いつけない。ミケの真っ直ぐな黒髪が、肩の辺りでわずかに揺れている。道の両側から伸びる夏草が、膝の辺りにぶつかって走りにくい。息が切れてきた。真っ白な背中は、なかなか近づかない。離れもしなかった。誘うように一定の距離を保っている。

 突然、何かやわらかいものを踏みつけた。そのやわらかい何かでぬるりと滑り、走ってきた勢いのまま僕は前へ倒れ込んだ。地面に突っ伏した僕の鼻先をいやな匂いがつく。倒れた拍子に前へ突きだした両手が、地面の上のやわらかいものをつかんでいた。ゼリーのようなクラゲのような、半透明のやわらかいもの。光ってはいないけれど、土手で見たあれと同じものだと直感した。顔を上げると細く続く道の上に、点々と等間隔にそれは落ちていた。張りをなくして形の崩れたそれは、地面の上をのたくって土に還るところに見えた。鼻をつくのは腐敗の匂いだ。

 僕は体を起こした。辺りを見回してもミケの姿はなく、何かの動く気配もない。葉ずれの音も聞こえない。そこはしんとした、ほのかに明るい雑木林の中だった。急に疲れを感じた。元の場所に戻ろうと、僕は立ち上がった。闇雲に歩き回っても仕方ないと思ったし、それよりもこの先に進む気がしなかった。

 戻ってみると桜の根元のうろの中に、膝を抱えたミケが座り込んでいた。近づく僕をじっと見ている。僕はうろの傍らの、地面を這う太い根に腰かけて桜の幹に背中をあずけた。

「どうも」投げやりに言った。

「出ていかなかったの? 出ていけなかったの?」ミケが言った。

「出ていく気がしなかった」

 僕は答えたものの、いつの間にか入り込んでいた、どことも知れないこんな場所、普通に出ていけるとも思えなかった。

「そう」ミケがうろの中から出てきた。

「それなら私と代わって」僕の前に膝を折って座った。

 間近で見る表情に乏しい顔は、少しだけほほえむように見えた。その輪郭が、青白く淡く霞む。僕は瞬きをして眉間に力を入れた。でも、しっかり見ようといくら力を入れても、ミケの輪郭は霞んだままだった。

「私が役目をあげる」

 ミケが輪郭を失ってゆく。

 それにつれ、この場所の空気が少しずつ変わっていくのが分かる。

「私はどちらでもよかったのだけど」

 怒っているような、憐れんでいるような、慈しんでいるような顔。

 時間が引き延ばされていく感覚。

 霞んでゆくミケは、今やほとんど後ろの風景に同化している。

 一瞬、鼻先を腐敗の匂いがついた。

 その瞬間。

 胃液が込み上げ、総毛立った。

 生理的な拒否の反応。

 意識してのことではない。

 嫌悪の感覚に反射的に立ち上がった僕は、全力で駆けだしていた。

 走った。息が切れても力は抜かなかった。道に張りだした木の根につまずいて何度も転んだ。足の裏のいやな感触を無視して腐敗臭の中を駆け抜けた。滑って転んだ。林の中の一本道。迷うことはないけれど、どこかへ出られる保証はない、ということも考えなかった。ここを離れないといけないと、ただ思った。肺と心臓に限界を感じた頃、また木の根につまずいた。今度ばかりはすぐに立てず、しばらく突っ伏したまま荒く呼吸を整えていた。

 ようやく呼吸が落ち着いて立ち上がった時、僕は散歩の途中の土手にいた。青白く光る何かはなかった。サギもカラスもいなかった。日はすっかり暮れていて、遠くカエルの合唱が聞こえた。


 二学期が始まっても、僕は相変わらずの学業成績と生活態度だった。土手の上の通学路で学校へ通っている。魚を狙うサギも見るし、ねぐらへ帰るカラスも見る。あの日以来、夕方の散歩コースは変えた。青白い光を見ることはもうない。あの場所がどこにあって、どういう場所なのか、考えることももうない。人に話すこともない。あの場所に残ってもよかったか、と少しだけ思う。

 ただ、通学路を歩いていると、時々いやな匂いが鼻をつくことがある。そんな時、振り返るといつも、草むらの中から表情に乏しい目で、ミケがこちらを見ていた。

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