おいでおいでと電柱さんが

弐刀堕楽

おいでおいでと電柱さんが

 これは、ぼくが小学校四年生のときの話だ。

 同級生にケンちゃんという男の子がいた。ケンちゃんは特別仲の良い友だちというわけではなかったが、おたがい家が近所だったので、たまに一緒に下校することがあった。

 小学生の頃は、ぼくもふくめて、まっすぐ家に帰る生徒は少なかった。みんな道草をしていた。学校から帰るときの通学路で、毎日ちょっとずつ違うわき道を通ったりして冒険を楽しんでいた。

 当時、ぼくたちの間で人気が高かったのは「ケルベロス・コース」と呼ばれるルートだった。通学路沿いの大きな門のある家の庭を通り抜ける。ただそれだけのことなのだが、その家の庭にはいわくつきの犬が一匹住み着いていた。

 地獄の番犬、ケルベロスだ。実際はいつも居眠りをしている、ただの老犬でしかなかったのだが、かれにはある伝説があった。以前、上級生がビー玉を投げつけたときに、それをキャッチしてバラバラにかみくだいた、というのである。

 その武勇伝があったせいで、かれは勝手にケルベロスと名付けられて、近所の子どもたちから一目置かれていた。そして、この老犬の横をそーっと通り抜けるのが、当時ぼくたちにとっての最大の度胸試しでもあった。


 さて、ある日のことだ。ぼくはケンちゃんと下校する途中で、公園に立ち寄った。それから最後はケルベロス・コースを通って帰ろうという話になった。

 ブランコで靴飛ばしをして靴が泥だらけになったので、これは親に怒られるかもしれないね、と話をしていたとき、ふとケンちゃんが立ち止まった。かれは通学路に接する、せまい路地の奥をじっと見つめていた。


「どうしたの?」

「ほら、あれ見てみろよ」


 ケンちゃんがゆっくりと遠くを指差した。両側を古ぼけた民家にはさまれた路地。その奥には、うす暗い雑木林が広がっている。

 その林の手前、民家の壁に密着するような形で一本の電柱が立っていた。木製の電柱だった。ここら辺ではめずらしく古い代物だったが、その電柱のかげから何かが突き出していた。白い棒のようなものがゆらゆらとゆれうごいていた。

 それが人の腕だと気づくまでにそう長くはかからなかった。異様に白くて細長い腕だった。電柱が邪魔じゃまで裏にだれがいるのかは見えない。ぼくらの位置からは腕だけしか確認できなかった。

 腕はまるで虫でも追い払うように遮二無二しゃにむにうごいていたが、不思議とこっちに手をふっているようにも見えた。


「なにやってんだろうね、あの人」

「さあね。行こうぜ」


 ケンちゃんにうながされて、ぼくたちはその場を去った。白い腕のことは五秒と経たずに忘れていた。

 ぼくたちの話題は、ケンちゃんの手首についたオシャレなミサンガの話や、最近学校で流行っているドッキリボーイチョコのシールの話、春休みが来たら何をしたいのかなど、とりとめもない方向につぎつぎと進んでいった。小学生とはそういうものなのだ。

 気がつくと、ケルベルスの住む家の前にたどり着いていた。いつも通り正面の門が開いている。門のかげからそっと中をのぞき込む。だれもいない。ぼくたちはそろりそろりと庭に入り込んだ。

 そのときケンちゃんが「あっ」と声をあげた。一瞬、家の住人に見つかったのかと思ってヒヤヒヤしたが、そうではなかった。ケルベロスが起きていたのだ。かれは犬小屋の前で寝そべっていたが、頭を上げて遠くを見つめていた。その眼中にぼくたちの姿は入っていない様子だったが、それでもぼくらは喜んだ。

 明日学校で、起きているケルベロスの横を通り過ぎたと自慢してやろうぜ。そう言い合って、ぼくたちはそれぞれの家に帰っていった。


 それから何日かして、また一緒にケンちゃんと二人で帰ることになった。

 その日、ケンちゃんはめずらしくけわしい顔つきをしていた。かれは地元のサッカークラブ部に通うスポーツ少年で、普段はきわめて快活かいかつな性格をしている。それなのに今日はどうも元気がない。

 ぼくが不思議に思っていると、ケンちゃんがその理由をぽつりぽつりと語り始めた。


「じつは最近よく見かけるんだよね。あの電柱さん」

「え? 電柱さん? なにそれ?」

「ほら、こないだ二人で帰ったときに見ただろ。電柱の後ろで白い腕が動いてたやつ」


 ケンちゃんは、あの白い腕のことを“電柱さん”と名前をつけて呼んでいた。ぼくは一度しか見たことがなかったが、ケンちゃんはあれ以来、何度も遭遇そうぐうしているらしい。それで自然とあだ名をつけてしまったという話だった。


「もう気になってしょうがないからさ。もし今日出てきたら、あいつの姿を見てやろうと思ってるんだ」

「えー、やめときなよ。ぜったい変な人だって」

「たぶんね。だからおれに何かあったときは頼むぜ。助けを呼んできてくれ」

「わかった。約束する」


 そうは言ったものの、正直ぼくはあまり気乗りがしなかった。その日は塾があって、早く家に帰りたかったこともあるが、なによりぼくは、電柱さんのいるあの路地の雰囲気ふんいきが大嫌いだったのだ。

 しぶしぶケンちゃんについていくとあんじょう、電柱さんはそこにいた。せまい路地の向こう側、電柱のかげで前と同じように腕だけを出して、ひらりひらりと手をふっていた。

 その動きは以前よりもはっきりとしている。まるでぼくたちのことを「おいでおいで」と誘っているようだった。


「やっぱり出たか。今日こそ正体をあばいてやるぞ」

「気をつけてね」


 ケンちゃんはずんずんと路地の奥へと進んでいった。かれはぼくと違って勇気がある少年だった。電柱まで速度を落とすことなく、大股おおまたで歩き通した。

 さあ、いよいよその正体を見極めようという距離になって、急に電柱さんの腕がヒョイと奥に引っ込んでしまった。ケンちゃんがぼくの方をふり返って首をすくめる。すると、また電柱のかげから腕が飛び出した。手に何かを持っているようだった。

 ケンちゃんが手を伸ばしてそれを受け取ると、かれはとたんに笑顔になって、ぼくの方に全速力で戻ってきた。


「大変だ! すごいモノもらったぞ! まだくれるっていうから一緒に行こうぜ!」


 ケンちゃんの両手には、四角くてキラキラ光るものがたくさんにぎられていた。それはドッキリボーイチョコのシールだった。それも希少性の高いレアシールばかりだった。

 それを見て、正直ぼくの心もゆれうごいた。だけど、ぼくは両親から「知らない人にものをもらってはいけません」ときびしく注意されていたし、塾に行く時間が刻々とせまっていた。

 結局ぼくはシールをもらうことをあきらめて「今日は塾に行かなきゃならない」とケンちゃんに告げた。かれはただ「わかった」とだけ言って、楽しそうに電柱さんのところに戻っていった。

 なんとなく不安を覚えながらも、ぼくはその日寄り道することなく、まっすぐ家に帰った。


 つぎの日、ケンちゃんは学校に来なかった。

 帰りのホームルームで、担任の先生から「じつは昨日、ケンちゃんが交通事故にあった」と知らされた。まだ意識が戻らないという話だった。

 ぼくは結構なショックを受けながらも、果たして“電柱さん”のことについて話すべきなのかをしばらく悩んでいた。

 たしかに電柱さんは怪しい。だけど交通事故ならなんとなく無関係な気がしたし、なによりその存在について考えること自体が嫌だったので、結局言い出せないまま時間だけが過ぎていった。



 七月になった――。

 ケンちゃんが事故にあってから四ヶ月以上が過ぎていた。あいかわらず、かれの意識は戻らなかった。みんなで千羽鶴を折ったが、だれもが暗い顔をしていた。「祈りはかならず届く」という先生の言葉だけが教室でむなしくひびいた。


 夏休みの十日前。

 なかなか明けない梅雨つゆごうを煮やしながら、うだうだと過ごしていると、普段はやらないミスをおかしてしまった。宿題のプリントをやり忘れたのだ。それで居残り勉強をさせられて、家に帰るときには一人ぼっちになっていた。

 くもり空の下をトボトボと歩く。いつ雨が降ってもおかしくはない天気だったが、学校で先生にえらくどやされたことを思い出して、その日のぼくの足取りは亀のように重かった。なんとツイてない一日だろう……。

 ぼくは下を向いたまま傘をつえ代わりにして歩いた。傘の先がコンクリートを打つ音が路地にひびく。コツン、コツンと音を立てながら歩いていると、ふと視界に妙なものが飛び込んできた。


 数歩先の道路の上で何かがキラキラと光っていた。

 小さくて、四角い形をした何か。


 近づいてみると、思ったとおり、それはドッキリボーイチョコのレアシールだった。

 思わずしゃがみこんで拾い上げる。このシールは、ぼくが欲しくてたまらなかった人気キャラクターのものだった。自然と顔がニヤつくのを感じた。今日はツイてないと思ったけど……。なんだい、良いことだってあるじゃないか。


 だけど……。

 どうして、こんな貴重なものが道ばたに落ちていたのだろう?


 そう思った矢先、ぼくはあることに気づいたのだ。自分がいま立っている場所が、例の地点であることに……。あのまわしき“それ”のいる路地と接する地点であることに、ぼくは遅まきながら気づいたのだ。

 心臓がトクトクと音を立てた。だんだんと鼓動こどうが早くなる。ぼくはゆっくりと顔を上げた。いや、ダメだ。見ないでこのまま走り去れ。見なきゃいいんだ。“それ”がいることを確認しないで、さっさとこの場から逃げればいいんだ。

 だけど、見ずにはいられない。ぼくの視線は、せまい路地に吸い込まれるようにして一直線、あの木製の電柱へとまっすぐに向かっていった。


 そこには電柱さんがいた。

 その白い腕は、前と同じように、宙でゆらりとゆれながら、僕に向かってくりかえし、おいでおいでと手招きし続けていた。


 だが今回の遭遇は、以前とは少し事情が違っていた。

 電柱さんの白い腕の下の方で、なにやらまた、今度は黒い棒のようなものが飛び出した。

 小さくて黒い棒がゆらりゆらりとゆれている。

 いや、あれは黒い腕だろうか?

 小さくて、日に焼けた黒い腕。

 手首には、オシャレなミサンガが。

 いや、あれはケンちゃんのミサンガかな?

 つまり、あれはケンちゃんの小さくて、日に焼けた黒い……。


 ぼくはシールを放り出すと、たまらず一目散いちもくさんに駆け出した。

 こんな場所にはあと一秒とていられなかった。あんな光景はあと一瞬だって見てはいられなかった。

 ランドセルがバタン、バタンと音を立てる。心臓がバクン、バクンと、いまにもはち切れそうにうなった。

 だが、ぼくの鼓膜こまくにひびいてきた音はそれだけでは終わらなかった。


 パタパタ、パタンと靴の音。

 ヒタヒタ、ヒタリと素足の音が。


 ぼくの背筋をいずるように、道路の砂利じゃりめ取るように。

 ぼくとの距離を縮めながら、ぼくの精神をけずり取りながら。

 着実に確実に、ぼくの背後まで直後まで。

 ふたつの足音がせまってきていたのだ。


 あまりの恐怖に、ぼくはふり返らずに走り続けた。

 だがそいつらはすぐに、ぼくの真後ろまでやって来た。

 今度はコツコツコツ、という奇妙な音がした。

 ランドセルに何者かの指先がれるような音だった。


 限界だった。

 もはやこれまでとあきらめかけた、そのとき。

 ぼくの視界に、大きく開かれた門が飛び込んできた。

 それは、あの老犬のいる家の門だった。


 ぼくは何も考えず、その家の庭に飛び込んだ。

 しかし門に入った直後に尻もちをついてしまった。

 でもぼくが転んだのではない。ぼくのせいじゃなかった。

 身体がグンと後ろに持っていかれる感覚。

 右の手首に激痛が走った。


 つかまれていたのだ。

 電柱さんに、あの白い腕に、ぼくの右手がらえられていたのだ。

 必死に抵抗したが、身体がズルズルと引きずられていく。

 門の外の向こうに待つ、電柱さんの方に引っ張られていく。


 こうなると、ぼくにできるのはただ祈ることだけだった。

 ああどうか、神様、仏様、イエス様。

 だれでもいい、どんな神様だっていい。

 最悪、悪魔だっていい。

 だれかぼくを助けてください。

 どなたかぼくを救ってください。


 そのとき、曇天どんてんの空をつんざくようなはげしい咆哮ほうこうが辺り一面に鳴りひびいた。

 ぼくの背後から聞こえてくるそれは……。

 禍々まがまがしいまでのそのたけりは……。

 地獄の番犬の名にふさわしい。


「ケルベロス!」


 ぼくがさけぶと同時に、電柱さんが手を離した。

 全身の力が抜ける。ぼくはその場にへなへなと倒れ込んだ。

 だが、電柱さんはそれ以上おそってはこなかった。


 ただケルベロスのえ続ける声に狼狽ろうばいしながら、門の外をふらふらとさまよっていた。しばらくしてあきらめたのか、かれは腕を引っ込めて姿を消した。もう一本の黒い腕の方も同様にして、門の外に姿を引っ込めた。

 そのとき――普段は意気地いくじのないぼくに――なぜそんな真似まねができたのかはわからないが、ぼくはその黒い腕に向かって、勢いよく左手を伸ばしていた。どうしても向こう側に行ってほしくなかった。あれはケンちゃんのミサンガだ。あれはケンちゃんの腕なんだ。そう思った。

 残念ながら、ぼくはその黒い腕をつかむことはできなかった。しかし、ぼくの左手の中指がケンちゃんのミサンガに引っかかった。ぼくはとっさに機転を利かせて、後ろに反り、全身の体重でミサンガを思いきり引っ張った。

 ミサンガがプツリと音を立てて切れた。その瞬間、黒い腕は砂のようになって、サラサラと空中に消えていった。



 夏休みになった。

 ぼくは両親に頼んで、ケンちゃんの入院している病院にお見舞いに行くことにした。帰り道で拾ったと言ってミサンガを渡すと、ケンちゃんの母親はとても喜んでくれた。ケンちゃんは寝たきりだったが、腕にミサンガを巻いてあげると、なんとなく指が動いたような気がした。

 その日の晩に、ぼくの家に電話がかかってきた。ケンちゃんが病院で意識を取り戻したというのだ。まさに奇跡だった。やはりあの腕はケンちゃんのものだった。そしてケンちゃんに危害を加えた犯人は、電柱さんで間違いなかった。

 ケンちゃんとはそれから友人のわくを超えて親友になった。大人になったいまでも連絡を取り合っているが、電柱さんのことは何も覚えていないらしい。事故当日の前後の記憶がいまでもないそうだ。

 そういえばケンちゃんの退院後、すぐにケルベロスの家に遊びに行ったが姿が見えなかった。家の人に聞くと、夏の間に息を引き取ったらしい。おそらくぼくのために力を使い果たしてくれたのだと思う。ありがとう、ケルベロス。きみはぼくたち二人の命の恩人だよ。


 最後に電柱さんについて。

 当時の同級生に話を聞いてみたが、ぼくたち以外にそれを目撃した人はだれも見つからなかった。高校生になってから一度、近所の人に聞き込み調査をしたことがあるが、だれもそんな話は聞いたことがないという。

 去年帰省きせいしたときに、あの古い電柱のことが気になって見に行ったが、すでに撤去てっきょされてしまった後だった。ある意味トラウマが消えてよかったのかもしれないが、なんだかスッキリしないままで終わってしまった。


 いったい、あの白い腕はなんだったのだろうか?

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おいでおいでと電柱さんが 弐刀堕楽 @twocamels

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