春風の卵を転がして

野々村のら

 まるで、腕の中に白い玉が落ちてきたみたいだった。

 すとんと、未知の感情が心の中に飛び込んでくる不意打ちの感覚。一瞬にして目が醒めて、思わず受け止める。胸に馴染む、生き物のような心地良い重さ。僕はどうすればいいのかわからず途方に暮れる。

 一体何が起こったのだろう。顔を上げて、周りを見渡してみる。大学の、前に向かって段差が続く大教室。一年生必修の授業。あまり熱心でない生徒たちが思い思いの時間を過ごす中、後ろの方で、女の子が一人だけ立っていた。

 肩の力の抜けた、すんと伸びた背筋。細い肩を、春物のストールが花びらみたいに包んでいる。

 彼女の声が聞きとれなかった訳でもあるまいに、教員が聞き直した。宗教学の教員だった。雑談混じりに、目が合った生徒に小難しい質問をした壮年の男。キリスト教。愛とは何か。いかようにも答えられるつまらない質問。それだけの、授業の一風景。その日常を、一人の学生の声が鮮やかに塗り替える。

 彼女の感情は読めない。ただ、立ち姿を表すがごとく凛とした声音で、もう一度言う。

「愛とは、知っていることです」

 綺麗な子だった。顔立ち以前に、佇まいが涼やかで美しかった。木に似ていると感じた。自然に似ている。例えば天に伸びる若木のしなやかさとか、光を吸い込んで内側から光る新緑とか、そういった、そこにあるだけで人の感情を動かすもの。

 愛とは、知っていることです。

 木に似た少女がふっと瞼を下ろし、役割は終えたとばかりに席に座る。

 時がゆるりと動き出す。日常が戻ってくる。

 白い玉がころりと転がるのを感じた。



 その日から、僕の中に白い玉が居座った。まだ歩き慣れない通学路のアスファルトを蹴った時、コートを春風が撫ぜる時、真新しい紙の匂いを感じる時。よくわからないタイミングで、白い玉はころころ楽しそうに転がった。暇な時は、ぼんやりと弄んでみたりもする。いつだってそれは、手のひらに吸い込まれるみたいに心地よかった。きっとこれは悪いものではない。だって、どこもかしこもこんなに綺麗だ。なんだか丸くてつやつやしている。

 卵みたいだ。純潔で、希望に溢れている。

 不思議な充足感があった。

 こんな気分になったのはいつ振りだろうか。

「先生、なに考えてるの」

 身体を横に向けると、ぱっちりとした目と目が合った。特に表情筋を動かしていないのに悪い印象を受けない。受験生であるこの高校生の少年は、なかなか可愛らしい顔立ちをしている。

「特に何も」

「ないって顔じゃなかったけどね」

 先生にも色々あんのかね、とぼやきながらノートをつつく。ここがわからない、という意味らしい。身を乗り出して覗き込む。頭が痛くなった。

「こんな問題も」

「わからないよ。だから塾にお金払ってるんだよ。先生なんとかしてよ」

 他人事のように強請られた。この少年を勉強させて、あと一年で志望校に受からせる。気が遠くなる。僕はこの仕事でお金を貰っている。労働と対価。ひと一人の人生に対する、それなりの責任。

「部活は」

「やめないよ」

 少しせっかちの気質があるのか、打てば響くように答えが返ってくる。

「夏まで。絶対にやる。それだけは譲らない」

 芯の通った言葉で、声だった。誰かに似ていると思った。

「何でわかってくれないの。先生は? 高校生の時、何かに打ち込まなかったの。運動部って感じはしないけど」

 例えば、そう、音楽とか。近しい人にそれに親しむ人がいるのか、続けられた言葉に困惑する。音楽に長く触れたことはないし、部活にも入っていない。写真は好きだった。しかし、それも趣味の範囲に過ぎず、僕から見れば浅慮なこの少年に、説得力をもって語れるものを何も持っていない。勉強はしていた。それで賢いつもりだった。だって周りの大人がそう言った。勉強をしない奴は馬鹿だと。将来を真剣に考えるべきだと。「将来」に投資する行動が善で、それ以上もそれ以下もない。自分もそう思った。昔から大人が好きだった。己の感情に振り回され、支離滅裂なことを並べ立てる同級生よりは、賢いし正しい。

 じゃあ目の前のこの少年は。

 賢くないと思う。

 正しいかは、わからない。



 規則的な足音を立てて、毎日が淡々と過ぎていく。

 はじめは刺激的だった通学路も、毎日通えば慣れていく。慣れは余裕を生む。思考に余地が生じる。時間が余ることに気がつく。帰宅中、葉桜の混沌とした色を眺めながら、もしかして自分は今つまらないと感じているのかもしれないと考えた。そんなことを思うのは久しぶりだった。

 数ヶ月前、受験生だった時は当然、己の大学生活を思い描いた。時間が出来たら何をするだろうとも考えた。

 首をひねる。

 何をしたいと思っていたんだっけ。

 毎日が曖昧で茫漠としている。ふわふわと浮き立つようで、夢を見ているみたいだった。

 旅にでも出てみようか。

 バイトを増やして、お金を溜めて。新しいカメラを買ってもいいかもしれない。赤い一眼レフ。色の鮮度を保つに適した高性能を使って、景色を切り取る。出来れば人も映したい。春風と、綺麗な人の、笑顔が撮りたい。

 宗教の授業にいる、木に似た少女を思い出す。胸の奥の方で、白い玉がころりと傾いた感覚がする。僕は少しだけ満たされる。

 あれから、たまに彼女を授業外でも見かける。彼女は決まって誰かしらといた。友達と一緒の時、あの子はよく笑った。目尻を下げて顔を歪ませると、日が射すように雰囲気が柔らかくなった。そんな時、あの子は普通に見えた。教室で堂々と発言した時と印象の異なる、鮮烈さのない、当たり前に社会に埋没できる一個人。

 あの子に自分のことを知ってほしい。

 ふと、そんなことを思った。もう一度首をひねる。なんだかそれはとても素敵なことに思えた。愛とは、知っていること。生まれてこの方、愛なんて壮大なものに思いを馳せたことがない。両親は大切だった。決して多いとは言えない友人のことも、自分のこともそれなりに好きだ。愛。愛している。既にそれを知っている気がするし知らない気もする。

 僕はあの子に知ってもらいたい。

 何を知ってもらえばいいのかわからない。


            ※


 ある日、意外なところで、彼女を見つけた。

 大学敷地内の広場だった。木に囲まれ芝生の青々とした、用途の不明な空間。陽の透ける未熟な緑の隅っこで、彼女はベンチに座っていた。手に文庫本。表紙は見えない。一人の女の子が木の下で読書をしている、ただそれだけなのに、その光景があまりに完璧過ぎて、なぜか息が止まりそうになる。相変わらず綺麗な横顔だった。綺麗、という言葉が使い古されすぎて不相応に思えてしまうほどに。

 意外に思ったのは、履修が被っている授業の時間だったからだ。

 迷う。近くに腰かけるのは、不自然だろうか。何も真隣に座ろうっていうんじゃない、その隣にあるベンチでも何でもいい。傍に行きたい。でもこの光景を自分が介入することで壊したくないとも思う。矛盾している。春だからだろうか。

 春は矛盾するものだという有名な詩を思い返していると、彼女と目が合った。

 ぱちりと、音が聞こえるような視線の交差だった。思わずたじろぐ。動揺が身体を走り、その間に中途半端な時間が刻まれる。視線を逸らすタイミングを逸する。動揺と困惑と躊躇。はじめは特に何も映してなかった彼女の目に、徐々に不審の色が滲むのを感じて、僕は仕方なしに足を動かした。

「授業は出ないの」

 会話の出来る距離に移動して、第一声がそれだった。

 少しだけ眉を顰められる。視点は僕から動かさない。僕も人のことを言えないけれど、どうしてこの子は目を逸らそうとしないのだろう。

「だれ?」

「ここの大学生だよ。君と同じ授業をとってる」

 今度は不可解そうに首を傾げられた。初めて正面から顔を見て、それが少しこっちを見上げる形で、なんだかどきどきする。

 改めて不思議な子だと思う。若い女の子特有の、内側から光が滲むような溌溂さはない。陰を感じる儚さが漂っている訳でもない。それなのに、とても魅力的だった。やっぱり、自然に似ている。この子は、きっと、ありのままでここにいる。

「あのつまらない宗教の授業?」

 彼女が確認するように呟いた。

「途中で行く気が失せたのよ。それならあなたも人のこと言えないはずだけど。授業はいいの? 出席点は」

 君がいなかったから出てきたんだ、とは言えずに、確かにそうだね、と適当に相槌を打つ。はあ、とため息がついてきそうな、気のない返事が返ってきた。

「つまり私に用がある訳では」

「ないけど」

「けど?」

「聞きたいことがあって」

 ついと息を吸った。緊張で舌の先が痺れる。でも勇気を振り絞る。

 きっと、これは、最初で最後のチャンスだから。

「知っていることって、どういう意味」

 ぽかんと、時間の空白があった。

 僕たちはお互いに意味もわからず見つめ合っていた。しばらくして、負けたのは僕だった。その時初めて、彼女の目を焦点に結ぶのを放棄した。更なる説明をしようにも、愛という言葉を、初めて会話する女の子に言うのは照れくさかった。心が折れかける。もしかしたら自分は今滑稽なことをしているのかもしれない。諦めようか。何をかはわからないけれど。新しい視界の先で、蟻が草の間を平和に歩いている。

「愛の話?」

 弾かれたように顔を挙げる。猫のように目を細めて、彼女が変わらず僕を見ていた。

「あの時、別のことを考えてたの。だからあんな回答になった。みんな唖然としてたでしょう。さすがに私もね、あぁやっちゃったなーって思ったのよ」

 さばさばした口調だった。あの程度、自分にとっては何でもない、と言うような。

「別のこと」

「昔のことよ。今に関係することでもあるけど。考え事をね、少し」

 そこで、彼女は笑みを作るように唇を歪めた。挑戦的で、自信に満ちている。それはいつも遠くで見ていた、友人といたときの、日常に埋没する笑顔とは一線を画していて、けれどこちらの笑み方の方が彼女にとっての自然に見えた。

「何、それで私のことが気になるの?」

 思わず、こくりと喉を鳴らした。

 心臓が早鐘を打つ。訳もわからないまま、惹き付けられる。そのまま口を小さく開けて。

「知りたい」

 絞り出せたのは、その四文字だった。

「教えて、ほしい」

 彼女は、一瞬、目を見張って。それから――破顔した。こんなに面白いことはないとばかりに、思いきり、お腹を抱えて。僕は一人取り残される。彼女はそんな僕の様子も面白いみたいで、笑いの収まった頃に目が合うと、もう一回笑われた。困惑する。普通に、困る。でも、何故だか悪い気はしない。新しい顔を見れた喜びの方が大きい。

 あと、この人やっぱり笑い方が下手くそだった。

 今のは、なかなか。困ったなぁ、私弱いのよ、君みたいな変な人。

 やがて、彼女は目の縁を擦りながらそう言った。そして、開いていた文庫本を、音を立てて閉じた。それは、物語の幕引きの合図だった。彼女は、人差し指で自分の隣をとんとん、と打った。

「座って」

 頭が追いつかない。足だけ動かして、その通りにした。鞄を彼女との間に置く。それでも、近い。とてもじゃないけど横を向くことは出来そうもなかった。仕方がないので、遠くで遊ぶ鳩に視点を置く。

「あなた、どっかのサークルに入ったりはしたの」

 首を振った。まだ考え中だ。

「私が悩んでいるのはそのことなの。これから何をしようか。何をしながら生きようか。ねぇ、君、音楽の経験は?」

「あまり……学校の授業くらい」

「そう。吹奏楽は知ってる?」

 頷く。金管楽器と木管楽器を中心に織りなす音楽。吹奏楽部は珍しくない。僕の通っていた中高にもあった。常に賞をとってくるから、そこそこ強いものと思っていたけれど、吹奏楽のコンクールは全ての出場校に銅賞から金賞が与えられるらしい。

「つまらない話よ。よくある話。今から話すのは、ただの愚痴。授業が終わるまでの数十分。私が、高校の頃、吹奏楽部にいた時の話です」

 薄い青の下、緑の真ん中。彼女の髪を撫ぜていく春風。遠くを見る、綺麗な横顔。

 そうして、彼女は語り始めた。

 彼女の愛の話を。



「さて、何の話から始めようかな。

 もしくは、何の話までしようか。

 やっぱ、音楽の話からかな。そうね……音楽の正体って何だと思う?

 あなたも楽譜を見たことはあるでしょう。五本の横線。黒々としたおたまじゃくし。改めて考えると、不思議だと思わない? 音楽は音符の連なりよ。言葉を持たないただの空気の振動が、重なって連なって構成されている。本質的には、ただそれだけ。

 なのに、悲しい音楽が存在する。

 明るい音楽も、暗い音楽も。爽やかな潮風を表現することも、空にさざめく星を見せることも。訳もわからず泣きたいような気持ちにさせることもできるし、誰でもいいから感動を伝えたくなるような、楽しい気持ちにすることも。

 不思議だと、思わない?

 家庭環境の影響もあって、私は小さい時からそういうことばかり考えていた。


 高校の時よ。吹奏楽っていう音楽の手段の、可能性に惹かれた。ずっとピアノに触れてきたんだけど、私の理想の音楽のためには、他者が必要だと思ったからだった。だから、入部した。

 なぁに、楽器?

 そうね、何でもやったけど。三年生の時に学生指揮をしたのもあって、一通りの楽器は、知らないといけないと思ってて。あと、純粋に知りたいのもあって。

 勿論、特別な子はいる。

 サックスっていう名前のついた金色の楽器を知っている?

 私にとって一番素直な子なの。素直に、私の表現したい全てを、そのまま音にしてくれるの。可愛い子。たまにご機嫌ななめな日もあるけれど、優しくしたら優しくしてくれるし、真摯に語りかけたら、同じ温度で答えてくれる、私の相棒。

 想像してみて。

 無限の可能性を持ってて、色々な表情を見せてくれて、自分の話を聞いてくれて、自分のことを好きな子よ。

 好きにならない方が、おかしくない?

 

 そう、魅力的でしょう。好きになったの。私はあの金色の子を愛したの。初めて恋したみたいに、夢中だった。

 練習して、練習し続けて、あの子も私に答えてくれるようになって、それで。

 周りの空気に違和感を感じるまで、一瞬だった。


 顧問がね。

 いるの、当たり前だけど。部長もいる。

 吹奏楽部って部活なの。

 結果を出したい人がたくさんいた。

 私たちは三年前から、ずっと銀賞だった。今年こそは金賞がとりたいと、雪辱に燃えていた。特に顧問と部長。こうしたら審査員に受けがいい、これは悪い、そんな吹き方じゃ賞をもらえない。自分たちが部活に打ち込んだ成果を、他者に証明してもらえない。


 私は音楽のために、音楽をしたかった。

 敢えて言うなら、私の大事な相棒のために。私の知らない人が下す評価なんかどうでも良かった。聞いてくれる人を想像する必要も感じなかった。私の世界は、音楽と、それに関するものだけで構成されていた。

 なに、音楽のために音楽をする、の意味がわからない?

 わからなくて結構。音楽の神様のために、って言ってるようなものよ、こう言えば少し伝わるかな。

 伝わらない。三割の理解。まぁそれで上出来じゃない?

 同じ場所で音楽をしている人にも、わかってもらえなかったんだから。


 あくまでも私に言わせればだけど、音楽をするために部活にいる人が、あまりにも少なかった。

 あのね、音が違うの。

 上手い下手もあるけど、それだけじゃなくて。

 音楽が好きな人と、そうじゃない人では、音の質がまるで違う。

 音に自分を刻み込むことを、毎日触れているのに、知らないの。

 部活をするために音楽をしているだとか、賞をとるためだとか、楽器を触るためとか、友達に会うためだとか。音楽を目的にしていない人が多かった。もちろん全員じゃない。でも、音楽は全員で作るものなの。


 私は、知ってもらいたかった。

 それに向き合ってと言いたかった。こういうのは感覚的な問題で、いくら言葉を尽くしてもわかってもらえないのは知っていた。けれど、どうしても、そちら側の世界から、こちら側の世界に来てほしかった。真摯に取り組んでほしかった、向き合ってほしかった、いや、そんな生易しい感情じゃない。

 あなたたちは向き合わなければならない。

 真剣にならなければならない。そんな音を奏でてはならない。

 だって、それは音楽への冒涜なんだから。

 義務であり責任。言っておくけど大真面目だったのよ。私は子どもの時から大して変わっていないけれど、あの頃は今より強情で頭が硬かった。想像してみてよ、制服を着た女の子が、これを深刻な調子で語るのを。馬鹿っぽいでしょ。あるいは中二病? でも、本人にとっては真剣で、それが唯一の真実だったの。


 しかも、気がついたら、私は指揮者になっていた。

 他に適役がいなかったし、私ほど音楽の知識を有している人間も、人前で物を語れる人間もいなかったからだった。私の心証が良くなかったはずの顧問も、反対することは出来なかった。推薦された訳でも立候補した訳でもない。私はなるべくして、指揮者になった。

 今でも思い出せるわ。指揮台の上。色とりどりの眼差しと感情。合奏場に響く自分の無機質な声。無感情な二文字の返事。 指揮台の上の孤独。それにいとも簡単に耐えうる自分。


 転機は、三年生の六月だった。 

 珍しく部活がない日だった。私は、ある子に呼び出されて、誰もいない合奏場の扉を開いた。癖でなんとなく指揮台の上に立って、暇だなと思ってスコアを開いて、いつものように五線譜を見下ろした。いつも騒がしい場所に誰もいないと、余計に静寂が身にしみるの、あの感覚は何なんでしょうね。自分の一部がくり抜かれるような、空白感。満たされない感覚。それを埋めるように黒い音符をなぞっていると、すぐに彼女が現れた。

 思い詰めたような、暗い表情。私が気づいて近づこうとしたら、手で静止された。その結果、私たちはとても対等な友人関係とは思えない距離感で、話をすることになった。

 ごめんねと、嘗ての友人は私に言ったわ。

 何について謝っているのかは言わなかったけれど、これから起こる全てにだろうと私はすぐに悟った。意外性はなかった。どころか、あるはずもない既視感すらあった。私は、この日が来ることを知っていた。この子とこんな風に対峙する景色を知っていた。私の心は凪いでいた。とても静かな面持ちで、彼女の悲痛に潤む目を見ていた。

 折って。

 彼女は、そう私に懇願したわ。

 お願い、ごめんなさい、ここは貴方のための場所じゃないの。みんなあなたほど、あなたのそれを好きではないの。

 ついていけなくてごめんなさい。

 あなたの望みを叶えられなくてごめんなさい。

 折れて。折って。お願い。

 ごめんなさい。

 フルート吹きの、大人しい子だった。いつも隅の方で、自主練習をしているような女の子。私とは正反対の、柔らかくて優しい子。彼女が命を宿すように、そっと楽器に息を吹き込むだけで、空気が鮮やかに染まり上がった。ちょっとつついただけで壊れてしまいそうなくらい、彼女のように繊細な、澄んだ高音。誰もが彼女の音に聞き惚れた。

 私が片思いして、仲良くなった子だった。私と同じくらい、音楽が好きな子だと思ったから近づいた。彼女の前で言葉はいらなかった。指揮棒を振るだけで、私が理想とする音を汲み取って忠実に表現してくれた。私と彼女の間に存在する呼吸を、彼女も同じように感じてくれていると私は勝手に信じていたし、だからこそ、彼女は謝る必要はないと思った。だって私は、全て知っていた。知った上で、ここまで走ってきた。だから全部、予想の範囲内。その日呼び出されたのも、謝罪を受けたのも、懇願されたのも。

 次の練習、私以外、誰も部活に来ないことも。


 別に私の察しがいいって話じゃない。

 誰でもわかるわ。穏やかじゃない刺すような雰囲気。ばらついていく返事。意味深に交わる視線。私が限界だったように、あの子たちも限界だった。


 そこからどうしたって?

 折ったわよ。綺麗に、ぱきぱきと。言われた通りに。はじめに手を伸ばして、そっと触れてから、力を込めたわ。真っ二つにして、それだけじゃ足りなくて握り潰して、地面に捨てて、もう二度と見えないように踏みつけた。自殺のようだったし、実際私にとっては自殺と同義だった。その作業を、本来の部活の時間、一人きりの指揮台の上でやった。

 吐くほど苦しいことだった。音楽なんてやめてやろうかと思った。それが出来ないことも理解していた。だってここまで来ても、私は私の相棒のことを、一番愛していた。あの子から離れることは出来なかった。たとえこうして自分をめちゃくちゃに切り刻んでも、それだけは、どうしても嫌だった。


 翌日、私は部活の皆に頭を下げて回った。

 思ってもないことを口にすることを覚えた。

 自分は悪くないと思っても、謝ることを覚えた。

 面白くない時でも、笑うことを覚えた。

 音に妥協をすることを、覚えてしまった。


 ……最後の本番が終わった時のことよ。

 みんな、泣きながら笑ってた。結局金賞は逃してしまったんだけど、どこか嬉しそうだった。良かったね、って。最後にいい演奏が出来て良かったって。フルートのあの子もその輪の中にいて。目が合うと恥ずかしそうに微笑んで、今までありがとう、って私の手を柔らかく握ってくれた。それで言うの。

 結果は残念だったけど。

 私、みんなと一緒に音楽が出来て良かった。


 ねぇ、私はどうすれば良かったの?

 私は音楽を愛しているの、音楽の素晴らしさを誰よりも理解していたのは私なの。でもあの人たちと演奏する楽しさを、最後まで知ることは出来なかった。最後に笑ったのはあの人たちで。あんな演奏で。音程は揺れて、テンポはぐちゃぐちゃで、ソロの出だしは上擦って。それでも、だからこそ、私は自分が今までしてきた何もかもに、後悔することは出来なくて。ねぇ、あの敗北感は何? 私はどうして最後にあんな気持ちにならなければならなかったの?

 知らないの、本気でわからないの。

 みんなが音楽のことを知らないように、私はあの人たちのことを知らない。

 知ってくれれば、愛してくれたかもしれないのに。

 知ってさえいれば、愛することができたかもしれないのに。

 私だって、出来ることなら、あの人たちを愛してみたかった……!



 ……ごめんね。大丈夫。思い出して、ちょっと気分が悪くなっただけ。そうね……音楽の正体の話に、戻ってもいい?

 何で、本来なら単調な音の粒が、表情を持ちうるか。人の心を動かしうるか。

 あのね、言葉だけが、全てじゃないの。思い出してみて。心が震える瞬間って、何も言葉をもらった時だけじゃないでしょう。掠れた青空に、故郷の匂いに、子どもの声に、自分でも訳もわからないくらい惹かれることってあるでしょう。それと同じことなの。


 例えば。


 いつもの町が、季節の色に鮮やかに浸ったのに気づいた時。

 新しいノートに筆を乗せた時。

 初めての人と言葉を交わした時。

 他者の温もりを手のひらで感じた時。

 大事にしていた何かが、音を立てずに失われていくのに気づいた時。

 大事にしていた何かが、音を立てて崩れていくのを見ているしかできない時。

 大して親しくもないひとの、しんとした眼差しに目を奪われた刹那。

 好きなひとの笑顔に、心が震えた瞬間。


 人が静かに呼吸をしながら、そうやって日々を重ねていく中で、積もり積もった記憶や感情が、指先を、唇を通じて、豊かな響きとなる。そうやって出来た形の見えないものが、同じようにして出来た心の深いところを穿ち、揺さぶっていく。

 私はそれが、音楽の正体だと思う。

 だから音楽は、人の心を動かしうるの。

 だから私は、あの感覚を、手放すことが出来なかったの」



 ふいに、抱え込んだ全ての言葉を吐き出し終えたとばかりに、彼女は口を閉ざした。同時に、世界が思い出したようにぎこちなく動き出す。時間が正常のテンポで流れ始め、忘れていた五感が呼び覚まされる。僕は一度深呼吸をした。そうすることで、僕は僕であることを正しく確認した。長い物語を読んでいたみたいだった。改めて、視界に映る春めいた色彩を把握する。春風が本来の質感を伴って触れてくる、当たり前の日常が戻ってくる。

 彼女は、僕の隣で浅い呼吸を繰り返していた。感情が昂ったのを鎮めているようだった。おそらく、ここまで詳しく語る気はなかったのだろう。ふいに訪れたこの沈黙に、若干の気まずさと後悔が溶けているのを感じる。

 そんなもの、感じる必要はないのに。

 不思議な感覚だった。今まで思い描いていた、木に似た少女のイメージがやんわりと剥落して、目の前の女の子に結びつく。手を伸ばせば触れられるような、現実感を伴う一人の人間として、見えてくる。

「悩んでいる、って、言ったよね」

 落ち着いてきた頃を見計らって、僕は口を開いた。

「それで君は、これからどうなりたいの?」

 何がしたいの、とは敢えて聞かなかった。その答えを持ち合わせていないのは、今までの話でわかりきっているからだった。でも、この質問なら、あるいは。

 彼女が隣で、一瞬息を止めたのがわかった。一秒。微かに肩が震えて、空気と共に、最後の言葉が吐き出される。

「愛に溢れた人になりたい」

 だから笑ってる。人のいいところを探して知って好きになって受け入れて。人だけじゃない。この世の全てを知りたい。どんな嘘を使っても。だって、もう、負けたくない。寂しくて悔しくて仕方がないような、あんな辛い思いはしたくない。

 彼女がもう一度口を閉ざした瞬間、授業の鐘が鳴った。

 僕たちはその音を微動だにせず聞き終えた。それは、ふいに手に入れた、彼女との時間の終わりを意味していた。次の教室に行かなければ、とぼんやり他人事のように思う。きっと、ここで立ち上がったら、彼女とは他人に戻るのだろう。それに一抹の寂しさを感じながら、君ならなれるよ、そう言って、僕は鞄を肩にかけて立ち上がった。

 何か言いたげに、彼女が口を薄く開いたが、結局何も言わずに頷いた。それを見届けてから、背を向けて、歩き出す。その時何故か、思い出したように、白い玉が騒がしく転がり回った。まるで子どもが喚いているみたいだった。からから、からから。無視して歩く。なんだか少し重くなったような気がする。

 ぼんやりと歩を進める。地面が芝生から硬いコンクリートに変わって、自分の靴音を久しぶりに聞いた時、ふと頭を掠めたことがあった。

 次に会った時、もしかしたら、彼女は木に似た少女じゃなくなっているかもしれない。

 少しだけ考えて、それでもいい、と思った。彼女が彼女であるならば。下手くそな笑い方も、あれはあれで、そう、可愛かった。

 らしくないことを考えて、首をひねって。まぁ、そういうこともあるかなと自分を誤魔化す。

 さて、僕はこれから何になろうか。


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春風の卵を転がして 野々村のら @madara0404

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