第4話 静寂を穢すもの

「特定厨? ――ああ」

 

 ソースの弾ける音が徐々に収まってきたようなので、紙ナプキンを乱雑に畳んでテーブルに置き、ゆっくり息を吐いた。

 特定厨……かつて世俗に疎かった竜一であれば、するりと聞き流していたか、「何ですか?」と聞い返していたかもしれない。しかし、今の付け焼き刃の知識でもこの単語は見過ごせない。彼らの暴挙は度が過ぎているからだ。

「そういえば、ラジオでもやってましたねぇ。車のラジオから流れてきましたよ。何やら〝県議会議員偵察委員会〟が、またもお手柄だったと」

「……先ほど、記者会見をしていました。またも辞職するそうで」

「何人いましたか」

「三人。秘書も道連れだそうで。これで溜飲が下がる――と思いきや、あちこちに飛び火しています。今度は贔屓にしていた有権者数人から多額の賄賂をもらっていたのでは……と、事務所に電話が殺到しているのだとか」


 頭をかくしかない。デマだろうに。

 ネット社会で発信されたわずかな情報から個人情報を特定し、社会的制裁を与えるのが特定厨と呼ばれる者たちだ。標的は無名から有名人まで千差万別。特定行為をする理由も不祥事を隠蔽しようとした準犯罪者を駆逐せんばかりに躍起になる正義漢もいれば、単なる暇つぶしと面白さを追求した快楽犯もいる。後者が多い印象がある。

 恨み骨髄に徹すといったヒエラルキー的嫉妬で特定行為で順調に進んだのだろう。うたた寝をしたとはいえ、県議会議員がターゲットだ。今回も大多数の暴力でまたしても私刑に追い込んだらしい。予想はついていたが、辞職に追いやったのはこれで何人目なのか……約一か月前から二桁はすでに超えている。


「それで、その彼らが店の評判でも下げに来たんでしょうか」

「風評被害だけで済めば、かわいいものですが。竜一さま、ハンバーグ」

「え?」

「せっかくのハンバーグが冷めてしまいますよ」

「あ。す、すみません」

 竜一は急いでフォークとナイフをとった。刃先を肉に向けて宙に進み、振り下ろして真っ二つに切り裂いた。表面はやや冷めていたようだが、中身からは溢れんばかりの肉汁が漏れ出て蒸気が盛り返していく。透明な液体は即座にソースと邂逅して、交わり、油が浮きだしていった。

 口に運ぶと最初の頃に味わったあの濃厚な味わいが口内を侵略した。ここが閑散とした店内なのか、にわかに信じがたい。美味しさのありかを探すように、ぐるりと見てみる。天井に設えた四つのシーリングファンが、鷹揚に旋回していた。


「放火ですよ」

「――ほっ」

 噛みしめようとした矢先、物騒なワードが出てきて思わずせき込む。ごほっ、ごほっ、と手のひらを口元に持っていってから一部をナプキンに包む。

 少し身を乗り出すように繰り返した。

「放火があったんですか」

「未遂ですが……放火は言い過ぎましたかね。不審火程度ですか、発見が早かったので煙が出る前に消し止められました。

 城門前をご覧になりましたか? 黒い門扉の向かって左側の壁。入ってすぐのところに少しすすがついたような跡があるんです」

「煤……ああ」

 たしかに見たことがある。何かを隠すようにして配置した木鉢の隙間から、半円型の放射状に薄くなり行く黒壁、二週間前に行ったとき、あれは何だろうかと思った時があった。

「万が一木造家屋に飛び火してしまえば全焼は免れません。文字通りの『全焼』です。城の主が活動休止を宣言したあとも、その行為は収まるどころか苛烈に。ですので、逃げ出すことにしたのです」

 それで木造住宅はもぬけの殻となったのだろう。喫茶店の味にほれ込んでいた常連様は度重なる不審火の恐怖におびえ、やむなく自身の故郷に帰ってしまったのだ。


「じゃあ、マスターは何故ここに?」

「……わたしも頃合いを見計らっていたのですが、その時になっていらっしゃったのがみどりさんです。

 みどりさんはこの店をえらく気に入り、度々訪れます。話していくうちに〝あの法律の第一号適用者〟として、当時無人だった富豪の館に引っ越してきたと」

 〝あの法律〟……、あの城の周辺を取り囲む禁忌地を制定したもので、近々国民投票がされる、あの法律のことだろうか。

 その影響下で制定された『治外隔離区域』――主以外誰も入ることのできない敷地――を設置することができる〝キチガイ法律〟である。ネットではそう揶揄されている。

 厄介な存在がはびこるネットの住民、特定厨にとってこれほどまでに厄介なことはない。被害をしりぞけられる可能性を秘める唯一の手段であるのだ。

』。

 老齢の男は続けた。


「あの法律は、被害にあった自宅周囲五○メートル以内を『治外隔離区域』を設けるものですから、引っ越す必要はないのですが……。彼女がなぜ引っ越してきて、あの家を選んだかはあずかり知らぬところです。

 ですが、ものの数日もせぬうちに被害がめっきり減りましてね。ニュースを見て察知しました。ああ、彼女がきっかけなのだろう、と。

『治外隔離区域』の恩恵により、平穏という加護が付与されたのです」

 それでマスターも残ることにしたということらしい。

「前居住者の方がなぜこの地へ来たのか知っていますか?」

「前居住者というと……?」

「〝竜神遣使リュウグウノツカイ〟。かつてあの城に住んでいたHigh TVerです」

「さあ、わたしにはどうも……ああ」

 思い出したように頷いてみせ、板垣退助のように長く白い口髭が揺れる。

「確かみどりさん、こう呟いていました。『企画がバズったから引っ越した』……」

「バズったというのは若者言葉で流行ったという意味ですか」

 何の企画か聞いた。蕩尽とうじん企画と返答してきた。

「ほら、この近くに東京競馬場があるでしょう。当時は存じ上げなかったのですが、みどりさんから窺うに、彼はたびたび競馬場へ行ってカメラを回していたと聞きました。あそこに行けば『数字が良くなる』とも」


 彼の風貌からして、競馬に散財する様が容易に想像できる。

 レートが絶望的な馬券を買ってきてはしくじって、再生数となって跳ね返ってくる……。それを見て、またさらなる馬券を買ってきては大穴に突っ込む。下卑げびた笑いを上げ、客席に目立って立ち、罵倒の雄たけびを上げ、ゴールに突っ込む一位の馬がそれじゃないと知ると札束をビリビリに破いて宙に投げる。馬券の紙切れを自身に浴びてこう叫ぶのだ。

 ――くっそ、何なんだよ、あの馬はよぉ!

 ――俺がせっかく大金を突っ込んだってのに。百五十万が! おい! どうしてくれんだ!

 ――こんな遅い馬、さっさと転んで引退しろ! さっさと肉になっちまえ! そのくらいの価値くらい、あるだろ!

 わざと不快にさせそうな言葉を痛烈に吐き捨てる、想像した大男に悔いる気持ちや残念がる表情はないように思える。仮面か演技か、動画投稿後のおびただしく育った再生数とそれに反映される金銭を見れば、一つの負けなどどうってことない。

 どうやら蕩尽企画はシリーズものになったとのことで、動画は十本ほど上がっている。どれも当てたことはないとのことだった。



 冷めたハンバーグをありがたくいただき、席を立とうとすると最後にマスターが言った。

「前居住者で思い出しましたが、あのニュースを見ましたか」

 頭をさらってみたが、何のことかわからない。未知の疑問が脳を支配する。

「県議会のほかに何かトピックが?」

「府中に関して一つ。地方新聞は読まれませんか」

「ええ……」

 昼のラジオでは特段変わったニュースは流れてなかったと思うが……

「何かあったんですか」

「週刊誌情報ですが、昨日の夜、府中刑務所から脱獄したそうですよ」

 誰だろうか。

竜神遣使リュウグウノツカイ……あの城の、現在の持ち主です。『治外隔離区域』の恩恵があるとはいえ、彼には屁でもありませんからね」


 その時、入り口の鐘が来訪を告げた。二人組の客で、今風の私服に身を包んだ高校生カップルらしい。男の頭は紫色に染め上げた短髪で、連れ添う女の髪は赤と青。見るからにちゃらちゃらした十代といった雰囲気で、奇抜なファッションで喫茶店内の空気をやみくもに乱しながら席に着いた。

 不意に女の両耳から、ピアスの反射光が彼の目を刺す。目がくらんだ。ちかちかと、オレンジ色の残光が雫状に落ちる。

 またあいつらか。平日でも関係ないのか。竜一はくらんだ眼をこすってカップルを見やり、隣に目配せ。さすがに主人も気おくれしているようだ。

 彼と同じく苦手なタイプだな、と同感してしまう。

 そうして常連客の油売りを中断させられた主人は、竜一に一礼して奥に引っ込む。

 ――あとで読んでみてくださいよ。

 レジ前を通過する際、彼とその場所に目配せする。待ち時間――この店にそんな大層な時間は来るはずもないが――に客が物色する時に手を付ける、昭和の本やバトル漫画が置いてある場所だ。


 外では熱い陽炎が地面から茹っているようで、辟易へきえきしてきた。まだここにいてもいいだろう。席を立って店内をうろつく。

 目的地に近づけば近づくほど先ほど入ってきた場違いなほどうるさい男女の話し声が大きくなってくる。女のほうはあまり乗り気ではないらしく、どうやら男の誘いに乗っただけらしい。

 ここの喫茶店を陰気だと断じ、スマホを取り出してどこかに電話している。あ! もしもし! ○○?――と、マナー知らずのお手本のような大声を散らす彼らに嫌悪の目で睨みつけたい。

 その気持ちを何とか堪えて棚に目をやって、目的のものを取って席に戻った。

 コーヒーをひと舐めしてヘッダーを確認する。九月○日月曜日。間違いなく今日の新聞だ。

 一面には「High TVer」の『県議会議員偵察委員会』の活躍に触れていたが、主人の言う通りその片隅にちょこんと載っていた。これも「High TVer」がらみである。

 見出し語に、見覚えがあった。こう書かれてある。


 深夜大規模暴動の末、府中刑務所より脱獄。

 脱獄犯は元「High TVer」〝リュウグウノツカイ〟


 心にずしんと何かが乗った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

特定厨を操る者 ライ月 @laiduki_13475

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ